Ⅳ・無辜の灰5
※残酷な描写が含まれています。
* * *
「貴様はそこから一歩も動くなッ!! すぐに片付けて戻る…ッ!」
「…ッ」
一瞬で霧の向こうに消えた友。後を追おうとしたリオンは、聞こえた怒声にかろうじて踏み留まる。
霧を退けて突如現れたあのモノは、拮抗する力でタオを襲い、凄まじい力の攻防のまま、タオを霧の中へ引きずりこんだ…。
これまでに出現してきたモノは、異形であったり、陽炎のように不安定な存在であったり、色彩のない存在だった。…だが、今目にしたモノは、はっきりとした人型。鮮明な色彩。死者の魂だというのに生者と変わらぬ実在感。
そして。その背に見えた黒い翼は、タオや自分と同じ数で――…。
「…」
…予想をしていなかったわけではない。扉が存在するあの空間には、強いチカラを持つ存在しか入れない。その中にこの空間が在るという事は、この中に出現するモノは生前死後問わずに強力な存在だ、という事だ。
――その中に二対の翼を持つ魔族が含まれている事は、当然とも言えるだろう。
「…タオ…」
不安から、ギュッ、と閉じていた目を開けると…、そこは再びの暗黒の闇。暗く沈んだ気持ちがまた幻を見せているのか。胸元にしまったタオの羽根を意識しようとするが、不安と焦りに狭まった感情が邪魔をして上手くいかない。
「タオ…」
無意識に友の名を繰り返すが――、発したはずの自分の声が聞こえない。慌てて声を出そうとするが、やはり出ない。闇が全てを包み、飲み込んでいく。
「タオ…ッ!」
目を閉じて力いっぱいに叫んだ――と思う。否、今本当に自分は発声をしたのか? 目を開けているのか? 閉じているのか?
自分という存在もあやふやになっていく――…。
――…前方に何かが見えた…、気がした。
リオンは何度も目を瞬かせ、視界に意識を集中する。
――暗く何もない、永久に溶ける事のない凍土のようにただ冷たく在るだけの空間。そこに…、小さな小さな人影を見た。
陽の光を知らぬ肌。一度も切られた事のない伸び放題の黒髪。ぐったりと横たわる裸体は痩せこけ、冷酷な空気に晒された顔からは生を感じない。情けのように生えた二対の翼はとても貧弱で、その羽毛は酷く痛んでいる。
死と生の狭間で淡々と生かされるだけの、小さな小さな魔族の幼子――。
「……タ…オ…?」
無意識にそう呟いたと思う。だが声にならない声は、自分の耳にすら届かず、ましてや目の前に在る幼子に届く事もない。
そのあまりにも酷い姿を助け起こしたくてもがいたが…、近寄る事も許されず、その痛ましい姿をたっぷりと見せつけられるだけだった。
忽然と――。
幼子の傍らに、人影が現れた。
闇に照らされたその全容は見えないが、壮年の長身な男であると何故かわかった。
冷たく見下ろされた目。そこには愛情の断片さえ存在しない。歪んだ口元の笑みも、沸き上がる愛情から浮かんだそれではない。
まるで…、飢えた獣が狩り獲た極上の獲物を前にしたかのような――…。
「…やめろ」
込み上がる嫌な予感。発した声は声にならない。
値踏みするかのように幼子を眺めていた男が身を屈めた。そして無感情に幼子の翼を掴み、関節を考慮しない持ち方で持ち上げる。…骨が砕ける嫌な音がした。
「やめろ…」
痛みという感覚さえ知らないのか、幼子は何一つ反応しない。
男は湧き出た唾を讌下し、その細く苗木のような首筋に顔を近づける。鋭い犬歯。
「やめろ…ッ!」
肉を裂き骨を砕く耐えがたい音が響く。噛みついたまま喉を鳴らす男。飲みきれず溢れた血が小さな体を伝い、床に滴り落ちていく。
男はその動きを止めない。生死の狭間に生かされた子に僅かに許された生気をも貪るかのように。
「や…、やめろ…ッ!」
男を止めるべく体を滅茶苦茶に動かそうと試みる。絶え間なく目から涙が溢れ、悲鳴に似た嗚咽を絶え間なく発する。何とか前進しようと全体重を前にかけた。
「やめろやめろやめろォーッ! タオ、タオォォ…ッ!!」
――喉元で冷たい切っ先を感じた。




