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第6話 特番ゲストと、お嬢様の沈黙

 控室の鏡の前で帽子を取ると、髪を留めていたピンが一本膝に落ちた。拾い上げたところで携帯が震える。若菜先輩からだった。


『いってらっしゃい。今日は私がご飯を作る番でいい? 帰る時間が分かったら教えてね』


 いつもなら、どうぞお気遣いなくと返していたと思う。だけど合鍵を渡したあの日、俺にお帰りと言ってみたいのだと先輩は言った。ここで遠慮したら、俺の方でも楽しみにしていることが伝わらない。


『お願いします。終わったら連絡しますね』


 返事をして携帯を鞄にしまうと、ちょうど扉の外から「花宮さん、準備ができました」と声が掛かった。帽子とマスクは鞄の上に重ねておく。人通りのある通用口から控室までは案内の人がついてくれたし、帰りもここで身支度をしてから出られるそうだ。初めて訪ねる場所で、その段取りを先に教えてもらえたのは助かった。


 今日は大手VTuber事務所『だいさんじ』の公式特番に、外部ゲストとして出演する。若菜先輩とのホラー配信をきっかけに、俺のところまで遊びに来てくれる人が増え、今朝見た登録者の数は十五万人を超えていた。寝ぼけた頭で桁を数え直したくらいだから、本人がその変化にいちばん追いついていないのかもしれない。


 扉の向こうには首から進行表を下げた男性が待っていた。西園寺麗華の担当をしているチーフマネージャーの佐藤だ。出演の打ち合わせでは声しか知らなかったが、話し始めると電話越しにも聞いた穏やかな調子ですぐに分かった。


「本日はお招きいただき、ありがとうございます。花宮可憐です。よろしくお願いいたします」


「こちらこそ、花宮さん。着いて早々に申し訳ないのですが、少し相談したいことがありまして」


 何か変更があっただろうか。背筋を伸ばした俺に佐藤さんは進行表を見せた。俺の名前がある欄の横に鉛筆で小さく丸がついている。


「新人たちが披露したものを見て、いちばん近くで感想を言ってほしいんです。......うちの人間はリハーサルで見すぎてしまって」


「なるほど。俺はお客さんの側にいていいんですね」


「ええ。ホラー配信で、扉を開けて待っていてくれた若菜さんにお礼を言ったでしょう。あれを見たうちの制作が、この人なら何をしてくれたかをちゃんと言葉にしてくれるって」


 あそこは俺が行き止まりに突っ込んだせいで助けてもらった場面だ。よりによって大手の方にそこを見られていたのかと思うと恥ずかしかったが、呼ばれた理由が分かって少し肩の力が抜けた。人が増えたというだけなら、俺より大きなチャンネルはいくらでもある。


「では、しっかり見てきます。気の利いたことを言えるかは本番次第ですけど」


「それで十分ですよ。ああ、そうだ。今のうちに司会の西園寺(さいおんじ)にも会っておいてください。開演前になると、あの人は時計まで自分で動かしそうな顔をしますから」


 ◇


 打ち合わせ室では誰かが机を指で三度叩き、少しの静寂の後もう一度だけ叩いていた。俺が入ると音が止まる。台本から顔を上げた人が「まあ、お迎えにも上がらず」と笑い、そのひと言で画面の向こうで聞いてきた西園寺麗華(さいおんじれいか)の声だと知れた。


「初めまして、花宮可憐さん。今日の司会を務めます西園寺麗華ですわ」


「お会いできて光栄です。麗華先輩とお呼びしてもいいですか?」


「ええ、もちろん。ここにはもう一人......妹の凛音(りんね)がおりますから、その方がわたくしも助かりますわ」


 麗華先輩の前に開かれた台本には、細い字で書き込みがしてあった。色ごとに付箋が飛び出していて、開いたところには台詞の途中にも小さな縦線が入っている。俺の視線に気づいたらしく先輩はそこを指でなぞった。


「ここの三拍は、わたくしが黙るところですの。踊った子が自分でご挨拶をするまで、お客様にはそちらを見ていてほしいでしょう?」


「それで、さっき机を」


「聞こえていましたのね。三拍って……数えてみると意外に長いのよ。間が怖くて喋ってしまうことがあるから、練習しておくんですの」


 俺なら、言うことばかり書き込むと思う。誰かの見せ場のために、自分が口を閉じる時間まで稽古する人なのだ。先輩の番組で会話の輪から誰もこぼれないのが不思議だったが、その理由を少しだけ見せてもらった気がした。


 そこで佐藤さんが、進行表を手に麗華先輩へ声を掛けた。


「西園寺さん。踊り終わりの画、さっきお願いされたとおり、全身で残せるそうです」


「ありがとう、佐藤さん。せっかく足の先まで練習してきたんですもの。顔を大きく映して喜んでもらうのは、そのあとでもよろしいわ」


 佐藤さんが進行表に印をつける。そこへ紙袋を手にした出演者が戻ってきた。麗華先輩の肘の横へ、袋から取り出した小さいおにぎりをひとつ置く。


「姉さん。今なら食べられるでしょ」


「まあ。あとでいただこうと思っていましたのに」


「あとで、って書いた付箋……そこに三枚あるよ」


 言われて麗華先輩が見下ろしたのは、自分の台本に貼った『昼食』の文字だった。こちらまで笑うと、先輩は「わたくしが三度食べるわけではありませんわよ」と包みを取った。置いた方もそこでようやく自分の分に手をつけた。


「花宮さん、妹の凛音です。今日お披露目するうちの一人よ」


「西園寺凛音(さいおんじりんね)です。よろしくお願いします」


「こちらこそ。3Dのお披露目おめでとうございます。凛音さんのゲーム配信、少しですが拝見しました」


 凛音さんは軽く会釈した。普段の配信では難しい場面ほど口数が減る。以前、息を詰めて見ていた俺が、勝った瞬間に漏れた本人の「よし」で、やっと一緒に息を吐けたことがあった。その話をしようとしたところで、開けたばかりの包みを手に麗華先輩がまた台本へ指を伸ばした。頁の間から、さっき直した進行表が滑りかける。


「麗華先輩、そこ、俺が押さえてます。どうぞ両手で召し上がってください」


「まあ、ありがとう。では、遠慮なく」


 凛音さんも同じ紙に手を伸ばしていた。俺が紙を押さえると、その手は何も取らずに引っ込んだ。麗華先輩がひと口食べる間、凛音さんは俺の指のところを見ていた。


 自分の昼食を取りに来た同期の子が、入口から「凛音って、ほんとにシスコンだよね」と笑った。


「違う! 誰がシスコンなの!? 昼ご飯を昼に食べてって言うの、普通でしょ!」


「凛音、鮭と梅…半分ずつにしませんこと?」


「する。姉さん、海苔が台本に落ちるから、こっち向いて」


 先輩が何の気なしに差し出した半分を受け取るころには、もう普段の声だった。俺も進行表を台本に挟み直し席へ戻った。凛音さんがこちらに向き直った。


「花宮さんの紹介、どのくらいかかるんですか?」


「凛音。そこは佐藤さんたちと昨日も確認したでしょう」


「時間は聞いたよ。でも、お客さんが花宮さんの名前ばっかり呼んだら? 姉さんが全部拾って、あとで自分のところを削ることになる」


 名指しされた俺よりも麗華先輩の方が目元を厳しくした。けれど、凛音さんが見ているのは姉の肘の下から覗いている台本だった。そこにはもう赤い線で消した段落がいくつもあった。


「凛音さん。俺からもひとつ聞いていいですか? 今日、俺がいちばん見逃しちゃいけないところって、どこでしょう」


「……何で、それを私に聞くの」


「俺、今日のお客さんの役なので。ご本人が見てほしいところがあるなら知っておきたいです」


 リハーサルの時間まで、まだ少しある。俺は一人ぶん椅子を引き、凛音さんと同じ高さに座った。しばらくして彼女が台本を俺の方へずらした。開いたのは自分の出番のページではなかった。


「最初の子、最後に一回跳ぶんです。本人は着地のあと、くるっと振り返るところまで見てほしいって。姉さんが今、頼んでたのもそこ」


「跳んだところで拍手すると、その先を見落としますね」


「うん。……私のは見たら分かるから」


 そこだけは、いくら聞いても明かしてもらえそうになかった。こちらが本当に見ているか本番で判断するつもりらしい。そういう勝負なら俺にも参加できる。


「分かりました。じゃあ、あとで答え合わせをお願いします」


 凛音さんは返事の代わりに、おにぎりの包みを開けた。隣で麗華先輩が台本を汚さないよう閉じてから、やっとひと口目を食べたのだった。


 ◇


 スタジオの床には、色の違うテープで出演者の立ち位置が貼ってあった。俺の場所は司会の隣から半歩後ろ。そこで右手を上げてみると、返しの画面の中では見慣れた花宮可憐が右手を上げた。


 自宅なら椅子を引くだけで壁にぶつかるのに、ここでは一歩前へ出れば仮想の舞台でもちゃんと一歩前に出られる。面白くてもう一度動いた途端、「花宮さん、今のところで止まってもらえます?」と声が飛んだ。浮かれて枠からはみ出したかと慌てて足を止める。


「すみません、行きすぎましたか」


「いえ、ちょうどよかったです。そこ、麗華さんと二人で入る画の端なんで印つけさせてください」


 足元に短い白のテープが増えた。本番中に隣の人と話したくなったら、ここまでどうぞとスタッフが教えてくれる。どんなに大きな舞台でも俺のすべきことは、この短いテープの間にたいてい収まりそうだった。


 凛音さんは動きの確認で両手を前に出すと、何度か指を動かしてた。画面に映る手を見ていつもより手首を少し返す。振りを間違えたわけでもないのに納得がいくまで角度を変えていた。


 近くにいた同期の子が「それ、私は一回で分かったよ」と声を掛けた。凛音さんは「毎週見てる人ならね」と返し、もう一度初めの姿勢へ戻った。姉にだけ関心がある人なら、こんなに熱心に自分の指の見え方を確かめたりはしないだろう。


 司会席の正面には、出演者が次の段取りを確認するための大きなモニターが置かれていた。俺の台本は全体の流れを記したもので、曲や映像に合わせた細かい合図はそこに出る。リハーサルでは、麗華先輩がその合図を誰より早く掴み、ほかの出演者には振り返らせることさえしなかった。


「凛音。お辞儀のあと、すぐに横へはけなくてよろしいわ。お客様が拍手をしてくださるのだから、受け取っておいきなさい」


「……長くない?」


「長かったら、わたくしがお迎えに行きます。あなたがご自分から急がなくても結構よ」


 凛音さんは今度は素直に頷いた。本番の限られた時間に妹が拍手を聞くための余白を作る。俺にはその方が、どんな立派な紹介の言葉よりも彼女を大切にしているように見えた。


 休憩の終わりに俺は手元のメモの『凛音さんに感想』というひと言へ丸をつけた。もう少し何か書こうとしてやめた。まだ見てもいないものの感想を準備してどうする、と自分でおかしくなったからだ。


 ◇


「皆様ごきげんよう。今日はぜひ、いつもより少し画面の下の方までご覧くださいませ。うちの子たち、足の運びにまで自信がありますのよ」


 開演の合図と同時に仮想の舞台が秋の庭園へ変わった。画面の中で金髪の縦ロールが弾み西園寺麗華が扇子を開く。軽く振った先から新人のモデルが順に姿を見せると、返しの画面の端をコメントが埋めた。


『凛音、ほんとに動いてる!』


『ずっと配信で言ってたもんな。お披露目おめでとう!』


 それぞれ自分の配信を続けてきた彼女たちが、今日初めて手足を使ってファンに挨拶する。嬉しくて両手を大きく振る子もいれば、練習のときより深々と頭を下げて、ちょっとよろける子もいた。麗華先輩は笑って拍手を送りながら次に誰を映すか、そのひと言で客席の視線を導いていった。


「そして今日は、初めてこの庭園を訪ねてくださった方もいらっしゃいますわ。ようこそ、花宮可憐さん」


「お招きいただきありがとうございます。皆さん、今日は俺と一緒にいい席で見せていただきましょう」


 打ち合わせで決めたとおり挨拶は短く済ませた。俺の名前を呼ぶ文字が流れる中、余韻もそこそこに一曲目が始まる。先ほど凛音さんが教えてくれた子が、弾むような足取りで花壇を回り大きく跳んだ。


 両足で降り片足を軸にしてこちらへ振り返る。その勢いでスカートの裾が遅れて追いつき、花が開くような形になった。先輩が三拍黙ってくれたおかげで、息を切らして「見えた?」と笑う声まではっきり聞こえた。


「見えました。最後に振り返ったところ裾がふわっと広がって。あれ、もう一度見たいです」


「やった! そこ合わせるの、いちばん難しかったんです!」


 俺が言い終わるのを待ちきれなかったみたいに返事が来た。練習では早く回りすぎてカメラには背中ばかり映ったのだという。それを聞いた麗華先輩が「でしたら今の成功、あとで皆様ともう一度見ましょうね」と続けると、コメントにも『また見たい』と書き込む人が増えていった。


 隣で凛音さんが片手の親指を小さく立てた。画面を向いたままの仕草で、俺だけにくれた合格点のようだった。


 凛音さんの番になると舞台には配信で見慣れたゲームの対戦画面を模した枠が浮かんだ。彼女は何も持たず、見えないコントローラーを両手で握った。指が素早く動き、上半身が傾き、最後のひと押しでようやく力が抜ける。俺の耳の奥で、あの「よし」が聞こえた気がした。


「……あれ、勝ったときにやってたんですか。俺、いつも声しか聞けなかったから」


「そう。ほんとは、こんなに体ごとよけてたの」


 おかしそうな声と一緒にコメントが流れた。『ゲームのキャラより本人の方がよけてる』『この前の逆転勝ち、これだったのか』。凛音さんはずっと見に来ている人たちの名前をいくつか読み、照れたように笑った。


「自分でも、こんなに曲がってるって知らなかった。あとで私もアーカイブ見ます」


 先輩は妹の隣で拍手をしていた。姉としてひと言ぐらい自慢してもいいところなのに、マイクを口元へ寄せるのは凛音さんがファンとの会話を終えてからだった。


 俺が来る前から、ここにはこうして積み重ねてきた時間があった。呼んでもらえたことが嬉しくて多少浮かれていたのだろう。今はその時間の輪郭が初めて来た人にも見えるよう、感想をひと言添えられればそれで十分だった。


 ◇


 麗華は舞台の端で花宮可憐が拍手しているのを見た。先ほどの「もう一度見たいです」は、台本にある感想よりもずっとあの子を喜ばせた。いいお客様を呼べたと思いながら進行用の画面へ目を戻す。


 序盤で一人の出番が少し延びた。削るなら自分が次の企画を説明するくだりだ。新人が覚えてきた順番は崩したくない。短い方の紹介文を使うとスタッフから合図が来たので、麗華は扇子を閉じ息を吸った。


「さて、皆様。ここからは、わたくしにも何が飛び出すか楽しみな――」


 続きを示すはずの画面が急に黒くなった。瞬きをしても戻らない。端に残っている返しの映像には、扇子を半端な位置で持った自分のモデルが、今動かした指のとおりに映っていた。


 まだ放送中だ。声も届いている。そう分かっているからこそ、口の中にあった次の言葉が引っかかった。短い紹介のあと、どちらの子を先に呼ぶか。変更の表示を見届ける前に画面が消え、練習してきた二通りの進行が同時に頭へ浮かんだ。


 どちらだって言ってしまえばスタッフが合わせる。普段ならそう考えて進めるはずが、今日は間違って名前を呼んだ子に、一度出てまた下がらせるところまで想像してしまった。大事な晴れ舞台なのに、自分のひと言でそんなことをさせられない。


 扇子を閉じる指に力が入った。隣で凛音がこちらを向く。今こそ笑いかけて大丈夫だと分からせてやりたいのに、頬に作った笑みだけがそのまま残った。


 ◇


 俺の位置からは暗くなった進行モニターと、まだ動いている配信の画が両方見えた。フロアの担当がすぐに舞台の端まで来て、『進行表示を確認中』と書いたボードを上げた。佐藤さんはその隣で、差し替えた進行表を手に次の出番を確かめている。


『音、聞こえてるよね?』


『麗華様?』


 コメントの文字は流れ続けていた。麗華先輩が扇子を持ち替えようとして、持ち替えられずにいる。凛音さんは姉を見ていた。さっきまで自然に動いていたあの両手が、今は身体の脇で固まっていた。


 サラリーマン時代に、客先で説明役の後輩が資料の順番を見失ったことがある。俺が次の頁を教えようとするほど本人は余計に慌てた。助けになったのは先方が、「今のお話、もうひとつ聞いていいですか」と、座ったまま声を掛けてくれたことだった。その短いやり取りの間に後輩は自分で続きを見つけた。


 今ここで、次の演目を始める判断は俺にはできない。けれど、ついさっき舞台で見たものについて、もう少し聞きたいことならあった。お客さんの役でいてほしいと佐藤さんに頼まれたとおりだ。


 俺はフロアの担当と目を合わせ自分の胸を指してから、凛音さんたちの方へ掌を開いた。担当が頷き口の動きで「つないで」と伝えてくる。佐藤さんの手にある紙が麗華先輩へ届くまで時間を作れる。


 足元にはリハーサルで貼ってもらった短い白のテープがあった。そこへ一歩出ると、返しの画面に俺と麗華先輩が並んだ。俺は先輩にだけ見える高さで軽く頷きマイクへ息を乗せた。


「皆さん、こちらの進行用の画面が消えてスタッフさんが確認してくれています。お待ちいただく間に、俺からひとつ凛音さんに聞いてもいいですか?」


 隣で扇子の先が、ほんの少し下がった。凛音さんが姉から俺へと顔を向けた。

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