第7話 拍手が届くまで
「さっき勝ったあとで、左手だけ後ろへ回しましたよね。あれ、何をしてたんですか?」
凛音さんは自分の左手を見た。まさかそこを聞かれるとは思っていなかったらしい。俺から半歩離れて腰を落とし、もう一度見えないコントローラーを握ってくれた。
「ここで敵が右から来るでしょ。私、よけると椅子がちょっと回っちゃうの。で、勝った頃にはマイクがこのへん」
肩越しに空中を探り、ようやく見つけた何かを口元へ引き寄せる。なるほど、あれはマイクの位置を戻す手だったのか。言われてみれば激しい試合を終えたあとの「よし」だけ、たまに遠くから聞こえた。
「ということは相手に勝つのと、ちゃんと机の前に帰ってくるのとで二回勝たなきゃいけないんですね」
「うん。机にはだいたい負ける」
真顔で言ったあと凛音さんが初めて声を立てて笑った。返しの画面には、右を向いたまま左手で架空のマイクを探っている彼女が大きく映っている。コメントの『あのガタンって音、それか!』に本人も気づいて、とうとう両手で顔を覆った。
「待って。あれまで聞こえてたの?」
「聞こえてました。俺……ずっと、ものすごい勢いで飲み物を置く人なんだと思ってました」
「試合が終わるたびにそんなことしてたら、先にコップが割れるでしょ」
ごもっともだった。笑いながら俺が引き下がると、隣にいた同期の子が「私、凛音と対戦するとき、あの音で勝ったか負けたか分かる」と手を挙げた。そこから先は、こちらが質問を探すまでもなかった。声しか知らなかった頃の癖を互いに真似してみせると、いつも見ている人には、それだけで誰のことか通じるらしい。
笑っていた俺の視界の端でフロアの担当が一枚の紙を掲げた。太い字で書かれた出演順と、その下の『映像準備中』の文字。麗華先輩が指を二本立てて二番目の名前を示す。担当がそこに丸を描くように頷いた。
続きは決まった。今、慌てて「それではお願いします」とマイクを向ければ画面の向こうにも、先輩に立て直してもらおうと急いでいるのが伝わってしまう。どう話を渡せばいいか考えていると、凛音さんが同期を順に見て、ふっと首を傾げた。
「そういえば、いつも見てた人の手の癖って、みんな、ひとつくらい言えるんじゃない?」
そのひと言で俺にもひとつあったことを思い出した。俺は麗華先輩が持っている扇子に目を向けた。
「俺、今日ひとつ覚えましたよ。麗華先輩、扇子を閉じて拍手するとき、必ず先に出演者の方を向いてくれるんです。あれ、自分の方でやってもらったら嬉しいだろうなって」
先輩がこちらを見た。俺はその目を見返して、あとは口を閉じた。扇子を開く乾いた音がすぐ隣から聞こえた。
◇
麗華は手の中の扇子を見た。そんなことをしていたかしら、と本気で考えてしまってから、ようやく肩に入っていた力に気づいた。次に呼ぶ子の名前はもう分かっている。あとは自分が何を見たいか客席に伝えればいい。
「まあ。では花宮さん、わたくしに拍手をいただくために何かひとつご披露なさる?」
「えっ。そうですね、先ほど教わった机に負けるところくらいなら」
「それ、私の持ちネタになっちゃうから使用料もらいます」
間髪入れずに口を挟んだ凛音に麗華はとうとう吹き出した。妹がこんなに楽しそうな声で、初対面の相手に冗談を言うとは。客席からも『凛音、権利は守る』『麗華様がいちばん笑ってる』と声が届いた。
「使用料は拍手でお支払いしましょう。皆様にもお手伝いいただけるかしら?」
手を叩く絵文字が連なる。麗華はそのひとつひとつを久しぶりにゆっくり眺めた。上京したばかりの頃は、来てくれた人の名前を一人ずつ呼べるほどコメントはまばらだった。同期と喋っていて、たった一行『今の、もう一回聞きたい』と届く。その一行を相手に読んで聞かせると、そこからまた話が弾んだものだ。
今ではもう、すべての名前を追うことはできない。それでも『もう一回』という声なら、さっきから何度も届いていた。次の映像が用意できたとフロアから合図が来た。あの頃のようにひとつ拾って持ち主に渡すだけでいい。
「さあ皆様、最初の踊りの最後......あのスカートが花みたいに開いたところ覚えていらして? このあと、踊った本人がもう一度皆様に見せてくれますわ。今度はお隣で、凛音も一緒に挑戦いたします」
「姉さん、それ、私がやったら花みたいにはならないよ」
「だからいいんですのよ。あなたの花は、あなたが咲かせてごらんなさい」
言いながら一歩下がり、庭園の中央を二人に空けた。床に曲の最初の光が落ち、凛音が相手と目を合わせる。画面の端で進行表示が戻ったのは、そのあとだった。復旧を知らせる丸印が出たので麗華はスタッフへ小さく頷いた。
練習どおりなら、凛音は曲の終わりでお辞儀をしてすぐに退く。けれど、本番の妹は相手が振り返るのを待っていた。二人の裾が一緒に広がり並んだ足が静かに止まる。麗華は扇子を閉じ二人に向かって拍手した。
一拍、二拍。三拍目に、凛音が前を向いたまま笑った。いつもなら「ありがとうございました」と早口で済ませるところで、今日はまっすぐに立って拍手を受け取っていた。
麗華はそれを見届けてから次の子の名前を呼んだ。胸を詰まらせずに言えたその名前が自分でも嬉しかった。
◇
最後の挨拶で、俺は新人全員の後ろに立った。画面には前列の端から端までが収まり、麗華先輩が「次に会える場所を、皆さんからお知らせしてちょうだい」と一人ずつに声を掛けていく。自分のチャンネルに戻ったらやりたいことを、みんなが自分の言葉で話した。
「私は今日の映像を見ながら、いつもどこまで椅子が回ってるのか検証します」
凛音さんがそう言った途端、コメントに『机との再戦待ってます』と書き込まれた。それを本人が読み上げて笑う。俺がひとつ質問しただけで、よくあそこまで話を育てられるものだと感心した。外から来た人間がいつまでも真ん中に立っていたら見逃すところだった。
配信の終わりを告げる音楽が流れ、全員で最後に手を振った。返しの映像が終了画面へ切り替わりフロアからも「配信終了です。お疲れさまでした!」と声が掛かる。途端に誰かが「うわあ、終わった!」としゃがみ込み、あちこちで笑い声が上がった。
麗華先輩は最後まで立ってスタッフと出演者に挨拶していた。俺が先に機材を外して戻ってくると、先輩はようやく舞台袖の椅子に腰を下ろしていた。扇子を畳もうとして留め具に指がうまく掛からない。それを二度見てしまって俺は目を逸らした。
近くの台から蓋つきの紙コップを二つ取り温かい紅茶を注いだ。戻ってみると、先輩の膝にはもう上着が掛けてあった。凛音さんが隣に腰掛けて留め具を直した扇子を姉へ返している。
「麗華先輩、凛音さんも。お疲れさまでした。よかったら、どうぞ」
「……ありがとう。わたくしの好きなもの、よくご存じね」
「俺が好きなんです。コーヒーの方がよければ取ってきますよ」
「紅茶がいいわ。今は、これが欲しかったんですの」
両手で受け取ってくれたので、もうひとつを凛音さんに渡した。彼女は一度カップを見て、「私の分?」と聞いた。俺が頷くと少し意外そうに受け取って、姉と同じようにカップを両手で持った。
「さっきの、答え合わせですけど」
声を掛けると凛音さんが顔を上げた。見れば分かると本番前に言われた彼女自身の見せ場の話だ。
「凛音さんが見てほしかったのって、あの勝ったところで合ってますか?」
「半分。勝ったところは声でいつも伝わってるでしょ。私が見せたかったのは、負けそうな時どれだけ必死にボタン押してるか」
「……なるほど。じゃあ、俺はもう一度見ないと」
「うん。私も飲み物置く音だと思われてるとは知らなかったし。半分ずつでいいよ」
採点は思ったより甘かった。けれど半分で終わるのは悔しいから、帰ったらアーカイブを見ようと思った。佐藤さんが出演者の撤収時間を伝えに来て、俺はいったん二人のそばを離れた。
◇
カップの蓋に小さく開いた穴から湯気が上がっていた。凛音は紅茶をひと口飲み隣を見る。姉はまだカップを握っている。さっきまで留め具ひとつ留められなかった指が、ようやく落ち着いたようだった。
「姉さん、帰ったら今日はすぐ寝てよ。映像は明日も見られるんだから」
「ええ。あなたも、今夜のうちに椅子を回して検証をお始めにならないでね」
「しないって。……一回くらいしか」
笑うと、姉も声を漏らした。その笑いが途切れたあと、麗華の目から涙がひとつ落ちた。凛音はとっさに立とうとしたが、姉の方から上着の端を軽く押さえられた。
「座っていて。大丈夫ですわ。……やっと、終わった気がして」
凛音は座り直した。ハンカチだけを渡し、姉が自分で目元を押さえるのを待った。いつもは少し手を貸せば済むことが今日はそうならなかった。モニターが消えた瞬間、そばにいたのに自分まで姉の顔を見て次の指示を待ってしまった。
「私、姉さんが困ってるの分かったのに。何にも言えなかった」
「わたくしのお仕事ですもの。あなたに次の段取りを決めさせるわけにはいきませんわ」
「分かってる。でも……」
「凛音。あのとき、同期の方に話を振ったのは誰だったかしら?」
問い返されて凛音は少し黙った。可憐に聞かれたことに答え、みんなにも似たような癖があるはずだと思って話を振った。あの数十秒、自分は姉の方をほとんど見ていなかった。
「わたくし、久しぶりに客席の気分を味わいましたわ。あなた……人の話を拾うの、お上手になったのね」
「……それ、もっと早く言って」
「今知ったんですもの。今、言いますわ」
カップの継ぎ目を親指でなぞりながら凛音は横を向いた。嬉しそうな顔を見られたくなかった。姉と同じ箱に入ってから、自分の配信を褒めてもらったことは何度もある。それでも同じ舞台で同じ客席を相手にして、その場で見ていた姉に言われるのはやっぱり少し違った。
撤収の挨拶を終えた可憐が戻ってきた。麗華はハンカチを手にしたまま彼女を呼び止めた。
「花宮さん。ひとつ、お礼を言わせてちょうだい。わたくし、あの子たちの名前を大事に呼びたかったの。あなたが凛音に話を聞いてくださったおかげで、それができましたわ」
「俺の方こそ、ありがとうございます。俺が先走って何か始めたら皆さん困ったでしょうし。麗華先輩が扇子を開いてくれたときは、正直ほっとしました」
「随分と落ち着いて見えたのに?」
「質問ひとつしか考えてませんでしたから。凛音さんがみんなに振ってくれたとき、内心で物凄く感謝してました」
凛音は思わず可憐を見た。そこまで先回りして、みんなに話させたのだと思っていた。可憐は改めて自分へ頭を下げている。何でも一人でできるから余裕であそこへ出たわけでもなかったらしい。
「花宮さん、その顔リスナーにも見せてあげたら?」
「どんな顔してます?」
「どうにかなって一番安心したの、俺です、って顔」
可憐が少し照れて笑った。その笑い方なら凛音も知っていた。昼休みに姉の台本を押さえたときも、できることをひとつやっただけ、という顔をしていた。警戒するほどの人じゃなかったのかも、と紅茶を口に運んだところで姉が言った。
「可憐。今度、わたくしのところへお茶を飲みにいらっしゃらない?」
さっきまで花宮さんと呼んでいた姉が、するりと名前を呼んだ。可憐もそれに気づいたらしく、「はい」と返すまでに、わずかな間があった。
「わたくしからも、一杯お淹れしたいの。時間のある日にゆっくり。今日のこと、もう少しあなたと話したいわ」
「嬉しいです。麗華先輩のご都合のいい日に、ぜひ」
凛音はカップを膝に戻した。来客用のカップはどこにしまってあったっけ、と真っ先に考えてしまった自分が少しおかしい。家に人を招きたいと姉が言えば、茶葉の残りを確かめるのはいつも自分だった。
でも、姉の「わたくしのところ」が、今日はどこまでを指しているのか分からなかった。リビングのテーブルで三人なら、いつもどおり準備できる。二人で話したいのと言われたら、自分はお湯を沸かしたあと、どこへ行けばいいんだろう。
「それじゃ、日を改めて連絡いたしますわね。今日はお約束がおありでしょう?」
「ええ。夕飯を作って待ってくれてる人がいるので、帰る時間を知らせておかないと」
「あら。では、お引き止めしてはいけませんわね」
姉が笑って送り出すと、可憐は鞄を取りに控室へ戻っていった。凛音はその背を見送り飲みかけの紅茶へ目を落とした。姉が救われたのは本当だし、自分のところへも彼女は温かいものを持ってきた。冷めるともったいないので残りをきちんと飲んだ。
「姉さん、お茶の日決まったら私にも教えて」
「もちろんよ。あなたの予定もあるもの」
「うん。もし茶葉が足りなかったら買ってくるから」
それがいちばん言い慣れた言葉だった。麗華もいつもの調子で「ありがとう、凛音」と返した。隣に座っているのは同じ姉なのに、今日はそれだけで話を終えるのが少し難しかった。
◇
帰りの電車に乗る前に、俺は若菜先輩に到着の目安を送った。返事は『了解。お味噌汁、ちょうどその頃に温めるね』。その短い一行を読んで俺はようやく空腹に気づいた。
電車の窓に帽子のつばが映った。昼は緊張してそれが妙に気になったのに、今は駅から家までの短い道がもどかしかった。今日いちばん嬉しかったことを話したいし、俺の感想が半分しか当たっていなかった話では、たぶん笑ってもらえる。
玄関の前で鍵を出したところで、中から包丁がまな板に当たる音がした。ここは俺の家なのだから鍵を開けて入ればいい。なのに誰かがいる部屋へ帰るのがあまりに久しぶりで、差し込む前に一度だけ手が止まった。
「……ただいま」
言ってから扉を開けると、奥から若菜先輩が顔を出した。片手には味見に使ったらしい小皿を持ったままだった。
「お帰り、可憐ちゃん」
約束したとおりのひと言に、俺は玄関でもう一度『ただいま』と言った。今度はさっきより、いくらかいい声で言えたと思う。




