第5話 合鍵と、帰ってもいい場所
週末の昼下がり、若菜はホテルの入口へ向かう途中で、もう一度スマートフォンを取り出した。約束の時間には、まだ少し余裕がある。可憐から届いた先に席へ案内されたという短い連絡を読み返し、返信済みの画面を閉じた。
横浜駅の周辺は買い物客で賑わっていたが、ホテルの中へ入ると足音まで柔らかくなった。ラウンジの入口で待ち合わせだと伝える。その数秒の間にも、鞄の持ち手を握る指へ余計な力が入った。
あのコラボから、可憐とは毎日のように連絡を取っていた。最初は配信のお礼と切り抜きの確認で、そのうち次に遊びたいゲームの話も混じるようになった。短いやり取りが続くだけで、仕事帰りの電車に乗るのが少し楽しみになっていた。
配信についたコメントも、何度か読み返した。
『若菜さん、最後にちゃんと助け返してたのよかった』
『可憐ちゃんとの続き、待ってます』
嬉しかった。怖がってばかりだった自分にも、見てくれている人はいたのだと思えた。それでも、いちばん聞き直した言葉はリスナーの感想ではなかった。
先輩が待っててくれて、よかったです。
たったそれだけを繰り返し聞いていることは、可憐に知られたくなかった。今日は直接会って、ちゃんと礼を言う。できれば、ゲームの中で頼ってばかりだった分も、落ち着いたところを見せたい。
案内されたのは、入口から少し奥まった席だった。背の高い背もたれと植栽が通路からの視線を遮り、隣の卓とも距離がある。可憐は壁を背にして座っていて、近づく若菜に気づくと、手元のメニューを閉じた。
「こんにちは。今日はありがとうございます」
声は控えめだった。それでも、ヘッドホンを通さない響きが届いた瞬間、若菜の足は半歩だけ遅れた。先に届いていた連絡には平気で返事ができたのに、目の前で話されると、用意していた挨拶がどこかへ行ってしまう。
「……こんにちは。ごめんね、待たせちゃった?」
「いえ、俺が早かっただけです。どうぞ」
可憐が向かいの席へ手を添える。黒髪はまとめられ帽子の中に収まっていた。顔を覆っていたマスクは飲み物を口にするために外していたが、通路へ不用意に顔を向けることはなかった。
忠告を聞いてくれたのだと分かって、若菜は少し安心した。席につき鞄を置いてから、ようやくいつもの声が出せた。
「帽子、ちゃんと用意してくれたんだね」
「はい。まだ髪を入れるのに手間取りますけど。言ってもらわなかったら、そのまま来ていたと思います」
「それは、困るかな」
「でしょうね。今日は俺も、そこは気をつけました」
笑いかけられると、安心とは別のところで落ち着かなくなる。若菜はメニューを開き、その陰でそっと息を吐いた。画面と同じ顔がそこにあることには、まだ慣れそうになかった。
◇
若菜先輩は温かい紅茶を頼んだ。俺もコーヒーを注文し、店員が離れたところで改めてコラボの礼を伝えた。こうして向かい合うと、最初の挨拶だけで終わらせるわけにはいかない気がした。
「先日は、ありがとうございました。配信を見に来てくださる方が増えて、まだ少し驚いてます」
「私のところにも、可憐ちゃんの配信から来たって言ってくれた人がいたよ。こちらこそ、ありがとう」
「先輩が話を振ってくれたので、ずいぶん助かりました。最初、何を話せばいいか考えすぎてしまって」
「そうなの? あんまり、そんなふうには見えなかったけど」
俺は少し迷った末に、準備した表の話をした。操作の説明をまとめるつもりが、担当まで書き込みかけたと伝えると、先輩はカップに伸ばしていた手を止めた。次の瞬間には、堪えきれなかったように笑っていた。
「担当って、二人しかいないのに?」
「そうなんですよね。書いてから気づきました」
「私、可憐ちゃんに、そんな難しいお仕事をお願いしたかなあ」
「いえ。俺が勝手に構えてただけです」
笑ってもらえたので、こちらも楽になった。誘ってもらった側だから、楽しませなくてはならない。そう考えていたが、先輩が楽しそうに話してくれると、気の利いた話題を用意しなくても会話は続いた。
続きの病棟へ行く日を相談し、別のゲームの候補もいくつか出した。先輩が協力して料理を作るゲームを挙げたので、今度は敵に追いかけられずに済みそうだと頷く。すると『注文が溜まると店が大変なことになる』と教えられた。
「それはそれで、知ってる種類の怖さですね」
「可憐ちゃん、ゲームを選ぶとき、お仕事を思い出すのやめよう?」
「努力します」
軽く返したものの図星だった。何かを準備していないと落ち着かず、役に立てたと思うと安心する。その癖は姿が変わったくらいでは抜けないらしい。
紅茶が運ばれてきてからも、先輩は俺の話をよく聞いてくれた。配信の予定を聞く合間に、ちゃんと食事をしているかと尋ねてくる。自分がホラーで怖がった話は笑いにするのに、俺が夜更かししていないかという話になると、少し声が真剣になった。
「続きの予習も、寝る時間を削ったりしないでね。待ってる間に雑談するのも、コラボなんだから」
「大丈夫です。最近は、ちゃんと寝てます」
寝ることに罪悪感を持たずに済むだけで、生活はずいぶん違った。そう言いそうになり、そこまでは口にしなかった。代わりに先輩はどうですかと聞き返した。
「私? 私は、平気だよ」
すぐに返ってきた答えに、懐かしさを覚えた。前の職場で俺もよく使っていた言葉だ。それだけで何かを決めつけるつもりはなかったが、先輩が添えた笑い方まで少し似ていた。
「平日は会社もありますし、忙しいでしょう」
「まあ、今はちょっとね。でも、みんな同じだし。配信も、好きでやってることだから」
会社勤めをしながら活動していることは、配信でも聞いたことがあった。それ以上のことを知っているわけではない。だから、俺は大変さを分かったふりで頷く代わりに、目の前のカップへ視線を落とした。
「今日は、ゆっくり飲めそうですか」
「……え?」
「ずっと俺に話を振ってくれてるので。せっかく温かいのに、冷めてしまいそうだなと思って」
先輩はカップを見て、あ、と小さく言った。まだ、ほとんど減っていなかったらしい。両手で持ち上げ、ひと口飲むのを見届けてから、俺もコーヒーを口にした。
何も話さない時間が、少しだけ続いた。隣の席から食器の触れ合う音がする。窓からの光がテーブルの端を照らしていて、今すぐ何かを決めたり、誰かに返事をしたりしなくていいことが、妙に贅沢に思えた。
「……可憐ちゃんって、こういうところも同じなんだね」
「こういうところ?」
「ゲームのときと。私が、ちゃんと返事できるまで待ってくれたでしょう」
先輩はカップを置き、縁に指を添えたまま話した。あのときは自分でも、何を言っているか分からなくなっていたという。早く動かなくてはと思うほど、画面のどこを見ればいいのか分からなくなったのだと。
「でも、可憐ちゃんが一個ずつ言ってくれたから動けた。怖がったことも、笑わなかったし」
「先輩、本当に怖そうでしたから。俺まで急かしたら、余計に困るだろうと思って」
「うん。……それが、嬉しかったの」
礼を言われるほどのことではない。そう返しかけて、やめた。先輩がわざわざ会って伝えようとしてくれたことを、こちらの都合で小さくしてはいけない気がした。
「そう言っていただけるなら、よかったです」
先輩は頷いた。それから何かを言おうとして、一度口を閉じた。俺は残っていたコーヒーを飲み、次の言葉を待った。
◇
若菜は、今日も結局、待ってもらっているのだと思った。可憐は時計を見ず、急いで話題を変えようともしない。その静けさの中では、普段なら笑って流せることまで、言葉になりそうだった。
「本当はね、私が頼られるつもりだったんだよ」
「ゲームで、ですか?」
「ゲームでも。それ以外でも、かな」
可憐は首を傾げた。自分がどれだけ先輩らしく振る舞おうとしていたか、この人はきっと気づいていない。初めての通話で声が揺れないようにしたことも、今日の挨拶を来る途中で考えていたことも。
「可憐ちゃんの前では、頼れるお姉ちゃんでいたかったの。困ったら相談してもらえて、私がいるから大丈夫って、言えるような」
口にすると、ずいぶん欲張りな願いだった。配信の先輩だからというだけではない。誰にでも気を配る可憐が、自分のところへは安心して寄りかかってくれたら、それだけで特別になれる気がしていた。
「なのに、怖がってばかりで。今日も、ちゃんとお礼を言うだけのつもりだったのに」
声の終わりが少し揺れた。若菜は慌ててカップに手を伸ばしたが、飲むにはもう残りが少なかった。持ち上げる理由をなくした手が、そのままソーサーの脇に戻った。
「俺は、頼りにしてますよ」
可憐が言った。慰めるために急いで答えたような調子ではなく、確認するような声だった。
「外を歩くときのことも、配信のことも。教えてもらって助かったこと、もういくつもあります」
「それは……でも、可憐ちゃんがしてくれたことに比べたら」
「比べなくてもいいでしょう。俺が困ったら先輩に聞きますし、先輩が困ったときは、俺にできることなら手伝います」
そこで可憐が少し笑った。帽子の下から向けられる視線は穏やかで、若菜の返事を求めてはいなかった。
「ずっとお姉さんでいようとしなくても、俺は先輩のこと、頼りにしますから」
若菜は目を伏せた。ゲームで叫んだことも、今うまく話せないことも、それを理由に何かを失うわけではない。そう受け取った途端、こらえるつもりのなかったものが喉へせり上がってきた。
職場で声を掛けられれば、自分の作業を止めて話を聞く。帰ってからは配信の準備をして、連絡を返し、終わったあとに部屋を見回す。好きで続けていることなのに、ときどき、誰にも何も返せないまま座っていたくなる日があった。
そんな自分を知られたら、頼りにされなくなるような気がしていた。少なくとも可憐には、疲れて何もできないところより、余裕のあるところを見せたかった。
「……会社から帰って、部屋の電気をつけるでしょう」
可憐は何も言わず頷いた。若菜はテーブルを見たまま、少しずつ続けた。
「そこから配信する日は、まだいいの。やることが決まってるから。でも、何もない日に限って、うまく休めなくて。座ったらそのまま、食べるのも後回しになったりして」
毎日ではない。よく眠れて、楽しく配信して、翌日も機嫌よく出勤できる日だってある。それでも、誰もいない部屋の静けさが、ひどく重たく感じる夜はあった。
「この間は、通話が終わるの、ちょっと寂しかった」
言ってしまってから、若菜は顔を上げた。可憐が困っていないか確かめたかった。重たいと思われたら、冗談だったことにして笑おうと、そんな逃げ道まで考えていた。
けれど可憐は、困った顔をしなかった。少しだけ眉を寄せ、それから、テーブルの端にあった紙ナプキンを若菜の手元へ寄せた。
「……ごめん。こんな話、するつもりじゃなかったんだけど」
目元へ触れると、指先が濡れていた。可憐はそこを見つめず、店員のいる方へ目を向けてくれた。泣いている自分を隠す時間まで作ってもらったようで、若菜は余計に言葉を失った。
「もう一杯、何か頼みませんか。俺も、まだ帰るには早いなと思っていたので」
小さく頷いた。その提案が、今日の予定を延ばしてもいいと言ってくれていることに、すぐ気づいた。今はそれだけで十分なはずなのに、胸の中では、もっと先の時間まで欲しくなっていた。
◇
先輩が落ち着くまで待ちながら、俺は前の暮らしを思い出していた。誰もいない部屋に帰り、鞄を置いた姿勢のまま動けなくなる。空腹なのは分かっていても、立ち上がって湯を沸かすところから面倒だった。
同じ気持ちだと決めつけることはできない。それでも、何もない夜ほど休めないという言葉は、よく分かった。配信の予定があれば、その時間だけは、仕事で疲れた男ではなく花宮可憐でいられたのだから。
温かい飲み物が届くころには、先輩はいつもの調子で話せるようになっていた。目元を押さえていた紙を畳み、恥ずかしいところを見せたと言う。俺は首を振り、今夜は配信があるのかと尋ねた。
「今日は、お休み。可憐ちゃんは?」
「俺もです。夕方に買い物をして、何か作ろうかなと思ってたくらいで」
「自分で作るんだ」
「簡単なものなら。最近は台所に立つ元気があるので、せっかくだから」
先輩がいいな、と呟いた。それを聞いてから、夕飯も一緒にどうですかと尋ねるまでには、あまり考えなかった。せっかく元気になった身体と、使える台所がある。もう一人分作るくらい、大した手間ではなかった。
「……いいの?」
「もちろん。立派なものは出せませんけど。先輩、苦手な食べ物はありますか?」
聞くと、少し考えてから返事があった。嫌いなものは特にないけれど、あまりたくさんは食べられないかもしれないという。では残せるものにしましょうと答えると、先輩はなぜか、もう一度俯いた。
食事に誘われただけで、あんなふうにほっとするなら、よほど疲れていたのだろう。俺は会計を済ませる前に、買うものを頭の中で考えた。柔らかく食べられて、温かくて、あとから量を調整できるものがよさそうだった。
◇
部屋の鍵を開けると、先輩は玄関で一度立ち止まった。俺が靴を寄せて場所を空けると、少し遅れて、お邪魔します、と声がする。配信で聞く挨拶とは違う響きに、今度はこちらが少し照れくさくなった。
広い部屋ではない。配信の机と生活する場所が近く、帽子とマスクを外して振り返れば、もう先輩がすぐそこにいる。俺は座る場所を整え、買ってきた袋を台所へ運んだ。
「飲み物、ここへ置いておきますね。少し待っててください」
「何か手伝うよ。お皿とか、出そうか?」
「では、そこから二枚お願いします。あとは座ってて大丈夫です」
何もさせないより、ひとつ頼んだ方が落ち着くのかもしれない。先輩は皿を丁寧に運び、箸も並べてくれた。二人分の食器があるだけで、見慣れた小さなテーブルの雰囲気が変わった。
玉ねぎと鶏肉を小鍋に入れ、煮えるまでの間に汁物を作った。立派な献立を考えるより、早く温かいものを出したかった。先輩は椅子に座り、台所を向いて、調理の音がすると余計にお腹が空くねと言った。
「食べられそうですか?」
「……うん。さっきより、ずっと」
「それなら、よかった」
溶いた卵を回し入れ、蓋をした。半熟のところで火を止め、温めたご飯へ載せる。先輩の分は少なめによそい、足りなければお代わりがあると伝えてから、汁椀を置いた。
向かいに座ると、先輩はしばらく丼を見ていた。食べにくいものを選んでしまったかと思ったが、そうではなかったらしい。いただきます、と両手を合わせた声は、店で話していたときよりずっと柔らかかった。
ひと口食べて、先輩の肩が下がった。美味しい、と言ってから、もうひと口食べる。俺はようやく安心して、自分の箸を取った。
「特別なものじゃなくて、すみません」
「そういうこと、言わないで」
思いがけず、すぐに返事があった。先輩はこちらを見て、それから少し困ったように笑った。
「私の分があるだけで、嬉しいんだから」
返す言葉に迷い、俺は汁椀へ目を落とした。誰かの分まで用意するのは面倒だと、前は思う余裕さえなかった。一人分を食べるので精いっぱいだった自分が、今は、もう少し食べてもらえたらいいと考えている。
食事の間は、配信の数字の話をしなかった。近くの店の話や、買ってみたら思ったより美味しかった惣菜の話をした。先輩が少しだけお代わりをしてくれて、その分をよそう間、俺も妙に機嫌がよかった。
◇
若菜は、可憐が食器を流しへ運ぶ背中を見ていた。帽子を取った髪に、見覚えのある赤が混じっている。画面の中にいた人が、今は自分の食べた皿を持って、すぐ手の届く場所を歩いていた。
ご飯を食べに来ただけだ。今日のことを特別に受け取りすぎてはいけない。そう思いながらも、二人分の食器が片づけられていくのを見るのが、少し惜しかった。
「洗うの、私がやるよ」
「いいんですか?」
「作ってもらったから。それくらい、させて」
可憐は素直に場所を譲ってくれた。若菜が洗い、隣で可憐が布巾を持つ。狭い台所で肩が触れそうになるたび、普段なら気にしないような動きまで意識してしまった。
最後の椀を渡すと、することがなくなった。テーブルの上は片づき、鞄は手を伸ばせば届く場所にある。そろそろ帰らないと、と言うのが自然な頃合いだった。
「また、食べに来てもいい?」
口から出たのは、逆の言葉だった。可憐は布巾を掛け、当たり前のように頷いた。
「もちろん。帰りが遅くなった日でも、連絡をくれれば。俺が家にいる日なら、一緒に食べましょう」
家にいる日なら。その言葉を、若菜は大切な条件のように胸の中で繰り返した。毎日は無理でも、仕事のあとにここへ来られる日がある。それだけで、明日からの予定の見え方まで変わってしまいそうだった。
「でも……配信中だったら、呼び鈴、鳴らせないよね」
「ああ、そうですね。来る時間を相談しておけば大丈夫ですけど」
ここで頷けば、綺麗に終われる。若菜にも分かっていた。次の約束をして、礼を言って帰れば、それだけで十分に近づけたはずだった。
けれど、約束をしたときだけ招かれる客で終わりたくない。可憐の生活に、もう少しだけ自分の場所が欲しかった。ためらっている間にも、言ってしまいたい気持ちの方が強くなっていた。
「……合鍵、もらえたら嬉しいな」
可憐の手が止まった。若菜は自分でも、急すぎると思った。まだ一緒に配信をしたばかりで、こうして家に来るのも初めてなのに、欲しいものだけが先へ進んでいる。
「ごめん。今のは、さすがに図々しいよね」
笑おうとしたが、うまくできなかった。断られても仕方がない。そう分かっているのに、冗談だったとは、どうしても言えなかった。
◇
俺は先輩を見てから、机の引き出しへ目を向けた。予備の鍵が一本、そこにある。部屋の中のものを確かめていたときに見つけ、なくさないようしまっておいたものだった。
合鍵を渡すということは、留守に入ることもできるようになるということだ。それくらいは、俺にも分かる。誰にでも渡せるものではないし、今日来た人だからといって、勢いだけで決めていい話でもない。
けれど先輩は、拾った免許証のことを黙っていてくれた。説明できないと言ったことを無理に聞かず、外へ出る俺を心配してくれた。今も、欲しいと言ったあとで、俺の返事を待っている。
ここに来ることで、少しでも休めるのなら。そう思ったとき、鍵をしまっておく理由より、渡しておきたい理由の方がはっきりした。
「来るときには、連絡をください。配信の予定もありますし、留守の日もあるので」
「……うん」
「それと、具合の悪い日に無理して来るのはなしです。そういうときは、別の方法を考えましょう」
先輩が頷くのを確かめ、俺は引き出しを開けた。取り出した鍵を掌に載せると、先輩は動かなくなった。俺が差し出してからも、すぐには受け取らなかった。
「本当に、いいの?」
「先輩なら。なくさないように、お願いしますね」
両手が伸びてきた。その中へ鍵を置くと、指がゆっくりと閉じられた。小さな金属片を受け取っただけにしては、先輩は長い間、自分の手元を見つめていた。
「ただいまって、言ってもいい?」
少しだけ、驚いた。けれど、今日この部屋へ入ってきたときの遠慮がちな挨拶を思い出すと、何を確かめたいのか分かる気がした。訪ねるたびに、歓迎されているか気にしなくて済む場所が欲しいのだろう。
「ええ。俺がいたら、お帰りって言いますよ」
先輩が俯いた。泣かせるようなことを言ったつもりはなかったが、さっきラウンジで見たときと似た間があった。慌てて顔を覗き込むより待った方がよさそうで、俺は黙って立っていた。
「……可憐ちゃんにも、言ってあげたいな」
「俺に?」
「うん。可憐ちゃんが帰ってきたときにも、お帰りって」
その場面は、考えていなかった。鍵を渡すのは先輩が休むためだと思っていたのに、自分の帰る部屋に誰かがいるところまで想像して、不意に胸の奥が温かくなった。
「それは……嬉しいですね」
思ったままに返すと、先輩が顔を上げた。先ほどまでの不安そうな様子が、少しずつほどけていく。俺まで安心して、つい、余計なことを付け加えた。
「でも、無理して家のことまでやろうとしないでくださいね。休みに来て、仕事を増やすことはないですから」
「もう。そこは、素直に任せてくれてもいいのに」
少しだけ拗ねたように言われ、二人で笑った。先輩は鍵を鞄の奥へしまい、何度か手を添えて、その場所を確かめていた。
◇
帰る支度をした可憐が、玄関で帽子を被り直している。駅へ向かう途中まで送ると言うので、若菜は隣で待っていた。髪が収まりきっていないところを教えると、可憐は鏡を見直して、ありがとうございますと笑った。
頼りにしてもらえることは、やっぱり嬉しい。それなのに、今日は頼れなかった時間の方を、何度も思い返していた。泣いてしまったことも、ご飯を作ってもらったことも、欲しいと言ってしまった鍵のことも。
鞄の中に、自分の部屋とは別の鍵がある。可憐は、疲れたときに寄れる場所をひとつ用意したつもりなのかもしれない。けれど若菜には、それだけのものとして持っていることはできなかった。
「忘れ物、ないですか?」
「うん。大事なもの、もらったから」
可憐は意味を確かめるように瞬きをして、それから、鍵ですねと頷いた。その反応だけで、受け取った重さが同じではないことは分かった。だからといって、返す気持ちには少しもならなかった。
今度は自分が温かいものを用意したい。可憐が帰ってきたら、最初に声を掛ける人になりたい。ほかの誰かを招く前に、この部屋で使う自分のカップを置かせてもらえたらいい。
次々に浮かぶ願いを、若菜はまだ口にしなかった。今日受け取ったばかりの鍵を、何度も確かめるだけにした。
玄関を出る前に、もう一度だけ部屋を見る。先ほどまで二人で食事をしていたテーブルには、何も残っていなかった。それでも今は、またあそこへ座れると思えた。
「また来ます」
「はい。待ってます」
その返事を聞いてから、若菜は扉の外へ出た。隣を歩く可憐は、次は何が食べたいかと尋ねている。若菜は答えを考えながら、鞄を抱える腕へ、ほんの少し力を込めた。




