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第2話 深夜のコンビニエンス・エンカウント

 日付が変わった横浜の街で、四宮美緒は駅から自宅へ続く道を歩いていた。信号待ちの間だけでも足を休ませようと、片方の踵を靴から少し浮かせる。営業部から最後に届いた訂正依頼の数字が、まだ頭の中に残っていた。


「四宮さんに見てもらえてよかったよ」


 帰り際にかけられた言葉は、きっと素直な感想だったのだろう。分かっているからこそ、彼女もいつものように頷いた。次はもう少し早く出してほしいという一言は、結局飲み込んだままだった。


 中堅商社の営業事務として働く四宮美緒には、もう一つの名前がある。個人勢Vtuber、四ノ宮若菜。夜、自宅のマイクに向かえば、今度はその名前で誰かを迎える側になる。


 チャンネル登録者は、先日十万人を超えた。記念配信の準備も告知画像も自分で手配し、当日は予定していた時間を延ばして、届くお祝いの言葉を読み続けた。嬉しかったのは間違いないのに、配信を終えてからしばらく、椅子から立ち上がれなかった。


 リスナーからは、頼れるお姉さんと呼ばれている。話を聞くのは好きだったし、相談してきた人が少し明るい言葉を残して帰ると、配信してよかったと思えた。ただ、自分が誰かに話を聞いてほしい夜には、何から話せばいいか分からなくなる。


 若菜は鞄からスマートフォンを出し、夕方に投稿した配信休みのお知らせを開いた。仕事が長引きそうだと分った時点で連絡は済ませてある。それでも、待っていた人の顔も知らないまま、申し訳なさだけが膨らんでいった。


『了解、お仕事お疲れ様!』


『若菜ちゃん、ちゃんと休んでね』


 優しい返信に礼を返そうとして指を止めた。今始めたら、家に着いてからもずっと画面を見てしまう。スマートフォンを鞄へ戻し、コンビニの明かりへ目を向けた。


 温かいものを食べて、お風呂に入る。それから余裕があれば、花宮可憐の配信を少しだけ見よう。そう決めると、残っていた数十歩を歩く気力が戻ってきた。


 可憐は、登録者が一万人ほどの個人勢だった。最初に見つけたのは、寝付けない夜にたまたま開いたゲーム配信で、入り組んだ道に迷いながら同じ看板の前を何度も通っていた。可愛らしい声で取り繕うとしても、困っていることが隠しきれていなくて、若菜は枕に顔を埋めて笑った。


 その一方で、配信を抜ける視聴者には、いつも丁寧に言葉を掛ける。朝が早いと聞けば寝るように勧め、仕事が終わったというコメントには、お疲れ様ですと返す。わざとらしくないその気遣いが、画面の前で何も話さずにいる若菜にも届いていた。


 自分の配信では進行を気にする。誰かが退屈していないか。話に入りにくくなっていないかと、ついコメント欄を追い続ける。可憐の枠では、ただ見ていていいのが嬉しかった。


 ◇


 自動ドアが開くと、暖かな空気と揚げ物の匂いが流れてきた。若菜は棚から和風パスタを選び、小さなサラダも手に取る。せめて野菜ぐらいは食べようと自分に言い聞かせて、レジへ向かった。


 そこで、前に並ぶ人物の背中に目が止まった。大きめのパーカーから、艶のある黒髪が長く流れている。その中に混じった鮮やかな赤が見えた瞬間、若菜は歩幅を小さくした。


 よくある配色だと自分に言い聞かせた。黒髪にメッシュだけなら、それほど珍しくもない。けれど、小柄な身体が少し横を向き、店員の言葉に頷いたとき、その言い訳が続かなかった。


 頬から顎へ続く線も、目を伏せたときの表情も知っている。画面の中で何度も見てきた顔が、弁当を温めるかどうかを尋ねられている。若菜は思わず、腕に抱えたパスタを持ち直した。


 花宮可憐がレジに並んでいる。


 そう思った直後、自分でその考えを打ち消した。可憐の格好をしている人なのだろう。イベントの帰りか、撮影を終えたところなら、深夜にこんな姿で立ち寄ってもおかしくはない。


 自分だって、画面に映る四ノ宮若菜そのものの姿で暮らしている訳ではない。キャラクターに似た人を見かけたからといって、その演者と結びつける理由はなかった。分かっているのに、目の前の横顔から視線を外せない。


 近くで見ても髪は自然に揺れ、頬に落ちた一筋を指で払う仕草まで、画面の中で見慣れたモデルに重なった。こんなに似せられるものなのだろうかと考えるうち、前の客がパーカーのポケットに手を入れた。


 取り出した財布は、きちんと閉じていなかったらしい。指をかけなおした拍子に内側から一枚のカードが滑り、床を小さく跳ねた。若菜の靴先で止まったそれを、彼女は反射的に拾い上げた。


 花宮可憐。写真の中にも、今まさに目の前にいる顔があった。


 若菜はカードを持ったまま動けなくなった。似ている誰かだと納得しかけていたところへ、名前までも同じだと突きつけられたのだ。理解しようとするほど、さっきまで当然だったことが頼りなくなる。


 前の客が財布の中を探し始めて、ようやく我に返った。人の身分証を見つめ続けるなんて失礼だ。若菜は顔を上げ、カードを差し出した。


「あ、あの。落としましたよ」


 振り向いた顔を正面から見た途端、言葉が喉につかえた。画面で見ていた時には、こんなに近くで目が合うことなど無かった。相手はカードに気がつくと、ほっとしたように微笑んだ。


「あ、ありがとうございます。落としたの、気づきませんでした」


 若菜の指先が、かすかに震えた。返ってきたのは、聞きなれた高く可愛らしい声ではない。低めで落ち着いていて、すぐそばにいる自分へ急がずに届く声だった。


 名前と顔でいっぱいだった頭が、その響きに一気に攫われた。普段の配信では、声を作っているのだろうか。そんな疑問も浮かんだが、答えを考えるより先に、もう一度聞きたいと思っていた。


「拾っていただき助かりました。本当にありがとうございます」


 相手は免許証を受け取ると、きちんと財布へしまった。人から礼を言われることは、今日だって何度もあった。それなのに、何かを追加で頼まれるわけでも、次の仕事を期待されるわけでも感謝を、若菜はうまく受け取れなかった。


「いえ......その、よかったです」


 どうにか返した声は、自分でも驚くほど頼りなかった。相手はそれを笑うこともなく、もう一度軽く頭を下げてからレジへ向き直る。


「お待たせしました。袋もお願いします」


 何でもない買い物の言葉まで聞いてしまう自分に気付いて、若菜は慌てて視線を落とした。腕に抱えたパスタの容器が傾き、サラダが滑り落ちかける。持ち直している間に会計は終わり、袋を受け取った相手が一歩横へよけた。


 可憐ちゃん、と呼びかけそうになった。けれど、ここは配信のコメント欄ではない。名前を口にする前に唇を閉じると、相手は道を開けたことへの挨拶と受け取ったのか、柔らかく会釈して出口へ向かった。


 自動ドアが開き、夜風が長い髪を揺らす。マスクも帽子もなく、街灯の下へ歩いていく背中を見て、若菜は今更落ち着かなくなった。あんなに似ていて名前まで同じなのに、本人は誰かに気付かれることを考えていないようだった。


「お弁当、温めますか?」


「えっ......あ、はい。お願いします」


 店員の声に呼び戻され、若菜は商品を差し出した。追いかける理由も、呼び止めて話せる間柄もない。レジの向こうで電子レンジが動き始めると、張り詰めていた肩から、ようやく少し力が抜けた。


 あの人が、花宮可憐なのだろうか。確かめたい気持ちに、今の声で自分に話しかけてほしいという願いが混じっていた。二つを分けようとしても、うまくいかなかった。


 ◇


 帰宅した若菜は、買ってきた袋をテーブルに置いたままパソコンを起動した。靴を脱いで楽になったはずなのに、足元がまだ頼りない。コートを椅子の背にかけ、可憐のチャンネルを開く。


 見慣れたサムネイルの中で可憐が笑っていた。つい先ほど、自分に向けられた笑顔と重なってしまい、若菜は画面から一度目を逸らした。お茶を飲んで落ち着こうとしたが、カップを取りに立つのももどかしかった。


 好きな配信のアーカイブを再生すると、いつもの可愛らしい声が聞こえた。ゲームの失敗を笑ってごまかす、何度も聞いたやりとりだ。懐かしいとさえ思えるほどに安心したのに、その声の奥に、店先で聞いた低い響きを探してしまう。


「……ずるいよ、あれは」


 誰に向けられた不満なのか、自分でも分からなかった。ずっと見てきたつもりなのに、知らない顔があった。もちろん、配信者の私生活を知らないのは当然だ。それでも、あの声を一度聞いた後では、知らなかった頃には戻れそうになかった。


 直近の配信にも目を通すと、配信の終わり方を気にするコメントがいくつか残っていた。若菜は終盤を再生し、急に途切れた挨拶に眉を寄せる。さっきの人が本当に可憐なら元気そうに見えた。けれど、短い会話だけで大丈夫だったと決めつけることもできない。


 連絡してみようかと考え、すぐにその手を止めた。免許証を拾った相手から、活動用の窓口へ突然連絡が来たら驚くだろう。どこの店で何を見たかを、最初から並べるようなことはしたくはなかった。


 一方で、このまま何もしなければ、またいつもの視聴者に戻るだけだ。可憐が配信を始めるのを待ち、他の人と同じ挨拶を打って終わる。その想像が今夜に限って酷く寂しかった。


 若菜は活動用のアカウントに切り替えた。十万人という数字よりも、これまで積み重ねた配信やコラボの履歴が、今は頼もしく見える。四ノ宮若菜としてなら、仕事の話を入り口にして声をかけることができた。


 以前から配信を見ていたことは本当だ。一緒に話してみたいというのも嘘ではない。ただ、画面の向こうの誰とでも同じように話してほしいわけではなかった。


 あの落ち着いた声で、自分の言葉に返事をしてほしい。拾い物へのお礼だけではなく、もっと長く、自分に向けて話してほしかった。そこまで考えてから、若菜は熱くなった頬を両手で押さえた。


「……まずは、お話しするだけ。ちゃんと、お誘いをして」


 口に出せば穏当な考えに聞こえたので少し安心した。メッセージの入力欄を開き、名乗りとあいさつを書き込む。仕事で何度も使ってきた丁寧な言葉が、今日は妙によそよそしい。


 可憐ちゃん、と打った呼びかけを消して、可憐さんに直した。会いたいという言葉も消した。まだ一度も活動者として話したことのない相手に、伝えるには早すぎることばかりが浮かんでいる。


『初めまして。個人勢Vtuberの四ノ宮若菜と申します。以前から可憐さんの配信を拝見しており、いつかご一緒できたらと思っていました。もしよろしければ、近いうちに通話でお話しする機会をいただけないでしょうか。コラボについても、ご相談できればうれしいです』


 何度も読み返して、急がせないための一文も添えた。ご都合の良い時に、と書いた指が、その直後には送信ボタンの上で止まっている。返事を待つのが怖いなら、送らなければいい。それでも若菜は送信ボタンを押した。


 送信済みの表示を確かめてから、ようやく椅子へ深く座り直した。これで返事が来るかもしれない。喜びに胸が弾む一方、同じように連絡できる配信者が他にもいるのだと思うと、とたんに落ち着かなくなった。


 今日、あの声を聴いたのは自分だった。だから何か特別な権利がある訳ではないと分っていても、その偶然を手放したくなかった。


 テーブルの上には、温めてもらった和風パスタが残っていた。若菜はようやく蓋を開けたが、一口食べるたびに、通知のない画面へ目が戻った。


 ◇


「......うまかった。こんな時間にから揚げを食って、ちゃんとうまいと思えるんだな」


 俺は空になった弁当容器へ箸を置き、椅子の背にもたれた。カップラーメンまで買ったのは、少し勢いが良すぎたかもしれない。それでも、満腹になった腹をさすると、ただ満ち足りた気分になれた。


 買い物は思ったより普通に済んだ。財布を開けたとき、戻し方の甘かった免許証を落としてしまったが、後ろにいた女性が拾ってくれた。礼を言ったらひどく驚いた顔をしていたので、俺の声がこの姿に合っていなかったのかもしれない。


 その人の顔を思い浮かべかけ、先に机の上を片付けた。腹が満たされたら、確認することがいくらでもある。これから何をして暮らすにしても、まずは自分が使える者を把握しなければならなかった。


 パソコンはいつもの手順で起動した。見慣れた壁紙が現れ、保存していた配信素材も残っている、Vチューブの管理画面に入ると、花宮可憐のチャンネルには、以前と変わらない名前と数字が並んでいた。


 アーカイブの一覧に、最後の配信も残っている。終了時刻を見たところで、マウスを握る手が一度止まった。あの痛みを思い出しかけたが、胸へ息を入れてみれば何の苦しさもなかった。


 心配するコメントには、明日配信で一言伝えよう。今は無事だと知らせる短い投稿をピヨッターに出してから、俺は画面を見直した。事情を自分でも説明できない以上、まずは余計に驚かせない言葉を選ぶしかない。


 過去の投稿も、配信も、ちゃんと残っていた。俺がここで過ごしてきた時間まで失われた訳ではなかったのだ。モニターの中の可憐を見て、やっと少し落ち着いて笑えた。


 そのとき、メッセージの通知欄に新着メッセージが届いているのに気づいた。仕事に忙殺されていた頃の癖で背筋が伸び、差出人を見て今度は本当に椅子から身を起こす。


「四ノ宮若菜……さん?」


 同じ名前の別人かと思い、プロフィール欄を開いた。本人のチャンネルへのリンクも、十万人を祝う告知もある。以前、配信の話し方を参考にしようと見たことのある、あの四ノ宮若菜だった。


 視聴者から話題を拾うのがうまく、初めて来た人にも自然に話を向ける。俺がうっかり話し続けてしまうような場面でも、彼女は相手の言葉を待っている。そんな彼女が、俺の配信を以前から見ていたと書いている。


 嬉しさのあとから、一気に緊張が押し寄せてきた。コラボの相談ということは、向こうは自分の時間とチャンネルを使って、俺と何かしようとしてくれている。ありがとうございますだけ返して、その行為を持て余すわけにはいかなかった。


「落ち着け。まずは、お誘いへのお礼。それから話せる日時と……」


 独り言が妙に落ち着いた声で部屋に響く。こんなときだけ、自分の声に励まされるのもおかしな話だった。俺は姿勢を正し、返事を書き始めた。


 最初に打った『平素より大変お世話になっております』を見つめ、そっと消した。初めての相手に送る文章として、出だしから会社のメールになっている。もう会社へ行かなくてもいいと喜んだばかりなのに、手は勝手に仕事を始めようとしていた。


 相手の配信に合う企画も少しは考えておきたい。雑談でもゲームでも、若菜さんが話しやすい流れを作れれば、きっと楽しい時間になるだろう。気づけば俺は別の画面にメモを開き、挨拶文と企画の候補を交互に眺めていた。


 先方はきっと、いくつもの予定を抱えている。こちらだけ浮かれて、準備不足のまま時間を取らせるようなことはしたくなかった。俺は返信を三度読み直しながら、画面の前で小さく頷いた。


 身体も名前も変わった日に、こんな話まで舞い込んでくるとは思わなかった。まずは、このご縁を大切にしよう。そう決めて、すっかり仕事用になっていた固い結びの挨拶を、もう一度書き直したのだった。

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