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第1話 終わりの始まりは、神の気まぐれから

第1部 王子様は、世界に居場所を見つける

「はい!申し訳ございません。こちらで確認いたしまして、折り返しご連絡いたします」


 受話器を置いてからも、俺はしばらく頭を下げていた。電話の向こう側の相手には見えないと分ってはいても、謝る時に背筋を伸ばしているのは、どうにも落ち着かない。視界の端に入った隣の席の後輩が何か言いかけたので、先に笑っておいた。


「先方の資料、それ俺に送って。今日はもう上がっていいよ」


「でも、それ。僕が受けた案件ですし……」


「お前、明日も朝から外回りだろ。寝不足で運転される方が困る」


 半分は本音。残り半分は、若いのをこれ以上この部屋に置いておきたくなかったからだ。後輩が申し訳なさそうに鞄を持つのを見送り、届いた資料を開く。画面の隅の時計は、終電から逆算して許される時間を、とうに過ぎていた。


 四十代役職無し。給料明細の額よりも先に残業時間の桁が増えた。困った客への説明も、社内で行き場を失ってしまった仕事も、最後には俺の机へ回ってくる。自分が受ければ早く済むと引き取ってるうちに、どうも断り方を忘れてしまったようだ。


 訂正箇所を打ち込んでいた指を止め、無意識に胸元を押さえた。 最近、ときどきだが息が詰まるような感じがする。椅子に深く座り直してやり過ごし、鞄から取り出した充電器をスマートフォンにつないだ。


 通知欄には、仕事とは関係のないアカウントへの返信が届いていた。今日の配信を休むと告げた短い投稿に、いつもの名前が並んでいた。


『了解。ゆっくり休んでね』


『次の配信楽しみにしてる!』


 休むという言葉を、誰にも責められずに受け取ってもらえる。それだけで肩の力が少し抜けた。俺は変身の画面を閉じて、もう一度資料に向き合った。


 この案件が片付けば週末は配信ができる。そんな小さな約束が、疲れた指を動かしていた。


 ◇


 横浜の古いアパートにある六畳間には、家賃に不釣り合いな機材がひしめいていた。四枚のモニターと自作PC、少しだけ背伸びして買ったマイク。椅子を引くたびにベッドへぶつかる狭い部屋で、机の周囲だけはいつも整えてある。


 俺はここで個人勢のVtuberをやっていた。活動名は『花宮可憐』。仕事帰りのくたびれた男がカメラの前で手を振ると、画面の中では黒髪に赤いメッシュを入れた美少女が微笑み手を振る。


 モデルは自分で作った。最初は髪が肩を突き抜け、笑わせれば頬が不自然に吊り上がり、直すたびに他の場所がおかしくなった。それでも気の遠くなるような修正を重ね、長い髪がするりと背中へ落ちた瞬間は、客先で大きな契約を取れた時よりも嬉しかった。


 小柄で華奢な身体に、柔らかな表情を組み合わせた。衣装の飾りを足しては引き算をし、ワンポイントの赤いメッシュも、顔の動きに合わせてチラリと見える位置に落ち着かせた。誰かに注文された訳でも、納期を決められた訳でもない作業に、俺は時間を忘れて没頭するくらいにのめり込んでいた。


 声の調整は更に苦労した。ボイスチェンジャーで音を高くするだけでは、どうしても無理が出る。息の抜き方を変え、録音しては聞き返すを繰り返す。そうしてようやく可憐に似合う、柔らかく可愛らしい声を見つけたのだ。


 設定上は十八歳の女子校生ぐらいにした。大人しいけれど芯があり、少し世間知らずな女の子。四十代ブラック企業の営業マンが考えた設定としては、我ながら願望が透けている。だが、せめてこの子には何にでも先に謝ってしまうような人生を送ってほしくなかった。


 今現在のチャンネル登録者数は、およそ一万人に少し届かないくらい。大きな事務所の人気配信者と比べれば小さな数字だが、当然ではあるが俺の部屋に一万人が入りきるはずがない。画面の向こうで誰かが待っているという事実は、それだけで十分すぎるほどの支えになっていた。


「あ、今のは見なかったことにして。可憐、ちゃんと足場があると思ったんだよ?」


 久しぶりにまとまった時間が取れた終末、背中に羽を生やした少女が、不安定な足場を飛び移りながら、手紙をポストへ運ぶといったゲームの耐久配信を行っていた。配信は予定よりも少し長引いていた。俺の操るキャラクターが谷底へ消えていくと、コメント欄に笑いが重なる。つられて笑う俺の顔をカメラが拾い、画面の中の可憐も恥ずかしそうに目を細めた。


『今の落ち方、芸術点が高かった』


『大丈夫、そこ俺も落ちた』


「だよね。あそこ、絶対もう一歩いけると思うよね」


 誰かの失敗を報告書にまとめる必要も、責任所在を決める必要もない。一緒に笑って、もう一度やってみればいい。たったそれだけのことが、ここでは許されていた。


 飲み物を取ろうとして、手元のマグカップが空なのに気付いた。時計を見ると、開始から随分と時間が経っている。目の奥が重いのはいつものことだったが、今日は画面の端が妙にちらついていた。


『そろそろ休憩する?』


「そうだね。次のセーブポイントまで行ったら、今日はおしまいにしようかな」


 心配してくれたコメントに頷き、ゲームの画面に視線を戻した。その直後、胸の奥を強く握りつぶされたような痛みが走った。息を吸おうとしたのに途中で止まってしまい、マウスを持つ手から急に感覚が遠のいていく。


「……ごめん、やっぱり、今日は……」


 続きの言葉が出てこなかった。キャラクターが壁へぶつかったまま動かなくなり、コメント欄に短い問いかけが流れる。俺は震える手で配信ソフトを手前に出した。


 何度も押してきたボタンなのに、カーソルがうまく合わない。もう片方の腕で机にすがると、椅子が後ろへずれた。身体が滑り落ちる寸前、ようやく終了の表示にカーソルが触れ、マウスのクリック部に乗せた指を力いっぱい押し込む。


 配信中を示す印が消えた。それを確かめたところで肘が机から外れ、床が近づいてきた。


 みんなに変な終わり方をしたことを謝らないと。そんな考えと明日の仕事への連絡まで重なりかけたが、もう頭の中で文章を組み立てられなかった。


 最後に見えたモニターの端で、可憐がまだ笑っていた。そこへ手を伸ばすこともできないまま、俺の意識は途切れたのだった。


 ◇


「......終わり? 今ので?」


 白亜の柱が並ぶ神界の一角で、娯楽神はモニターへ顔を寄せていた。終了した配信の画面には、花宮可憐の名前が残っている。いつもの挨拶も、名残惜しそうに手を振る姿もない終わり方に、彼は再生位置を少し戻した。


 言葉が途切れる直前の、ほんのわずかな間。人間なら聞き流したかもしれないそれに気づき、娯楽神は配信とは別の窓を開いた。下界の一室を移した途端、浮かびかけていた不満が顔から消える。


「……待て。おい、待ってくれ!」


 倒れた男の肉体は、もう魂を繋ぎ止めておけなかった。長く積み重なった無理が、ついに身体を壊したのだと、娯楽神は分かった。事情を理解する力と、それを受け入れる余裕は、まるで別のものだった。


「まだ四十代だぞ。可憐ちゃんだって、もっとこれから……」


 無数の画面に囲まれた部屋には、下界から集めた娯楽の記録が積みあがっていた。その中でも花宮可憐の配信だけは、最初から欠かさずに見ていた。眠そうに笑う日も、ゲームの難所を超えて素で喜ぶ日も、彼にとっては何度でも見返したい時間だった。


 神であっても、好きな人間の命を勝手に引き延ばしてよいわけではない。魂の行く先を変えるには、しかるべき手続きがある。まして、本人の意思を確かめずに、新たな身体に魂を押し込むなど許されるはずもなかった。


 娯楽神は、一瞬だけその手順を思い浮かべた。審問を受け、理由を説明し、返答を待っている間に、この魂が自分の手の届かない場所へ去ってしまう。その想像に耐えられず、彼は宙へ手を伸ばした。


「身体が駄目なら、新しい身体を作ればいい」


 指先に引き寄せられた光が、かすかに揺れた。娯楽神は空いた手で、可憐のモデルの記録を開く。長い黒髪が画面いっぱいに広がり、赤いメッシュが光を受けた。


「君が、あれほど大切に作った姿だ。これなら、きっと気に入るはずだ」


 返事をする者はいなかった。それでも彼は、自分の思いつきを励ますように頷き、現実に生きるための身体を編み上げ始めた。画面の中でしか揺れなかった神に重さを与え、笑顔を作っていた輪郭に温もりを宿す。


 身体だけがあっても、人の世では暮らせない。娯楽神の指が動くたび、花宮可憐という名に社会の記録が結び付き、住まいに関わる人々の認識が整えられていった。以前の男を知るものが、その経歴を辿って新たな生を受ける可憐に行きつくことの内容、二つの人生の接点も隠していく。


「今度は、あんなふうに働かなくていい。好きなだけ配信してくれれば、それで……」


 言いかけた娯楽神は、目の前で形になった姿に見入った。救いたいという願いと、もう一度見たいという欲望を、彼自身も分けられてはいなかった。


 性器の許可を求める窓は、開かれないままであった。誰にも相談しない神の手で、ひとつの魂が、本来とは異なる行く先へ送り込まれた。


 ◇


 目を開けると、頬に柔らかな布が触れていた。床に倒れたはずなのに、身体は布団に包まれている。寝返りを打とうとして、俺は思わず動きを止めた。


 腰が痛くなかった。方にも首にも、起き上がる前から覚悟するようになっていた重さが全くない。胸を手を当ててみると、息は何にも邪魔されずに、ゆっくりと奥まで入ってきた。


「……病院?」


 呟いた声が妙に澄んでいたが、それより先に、手の感触がおかしいことに気づいた。布越しの身体の輪郭が、記憶にあるものと違う。目の前に持ち上げた手も、関節の荒れた男の手ではなく、白く小さなものだった。


 指を曲げれば、ちゃんと曲がる。頬に触れれば、自分の頬に触れた感覚が返ってくる。何度か確かめているうちに、長い髪が肩から滑り落ち、手の甲をくすぐった。


「いや、待て。これは……」


 布団をはねのけ、立ち上がった拍子に足元がふらついた。いつもの高さにあるつもりで伸ばした手が、机の端を外れて慌てて掴みなおす。見慣れたはずの椅子も、モニターも、今日は少し大きく見えた。


 部屋の隅の姿見へ顔を向けて、俺はその場で固まった。鏡の中の少女も、同じように口を開けている。漆黒の髪は腰の近くまで流れ、その中に、見間違えようのない赤い筋があった。


 目尻の形も、頬から顎へ続く輪郭も知っていた。ほんの少し首を傾けたとき、神が顔にかかりすぎないよう調整した、そのこだわりの位置まで同じだった。自分の指で何度も作り直した顔を、自分が間違えるはずがない。


「……可憐?」


 鏡の中の少女の唇が、その名前を呼んだ。俺は頬をつまみ、痛みに顔をしかめる。画面で見慣れた困り顔よりずっと情けない顔が、鏡な中に現れた。


 そっと髪をすくうと、指の間を流れていく感覚があった。モデルの表面をなぞっているのではない。頭皮からつながった自分の髪で、引っ張れば当然のように痛い。


「……なんで、本人になってるんだよ」


 その言葉を聞いて、ようやく声の違いをまともに意識した。俺がボイスチェンジャーで調整していた、高く可愛らしい声ではない。少し低めで落ち着いていて、それでいて濁りがなく、耳に心地よく残る響きであった。


 試しに背筋を伸ばし、客先で話すときのように息を整えた。中身が混乱しているときほど、慣れた動作をしてしまう。


「お待たせいたしました。本日はよろしくお願いいたします」


 狭い部屋に、ひどく場違いな声が響いた。落ち着いた接客のつもりが、親しい相手に耳元で語りかけるような柔らかさまでついてくる。俺は反射的に口を押さえ、鏡の中の自分を見つめた。


 いわゆるイケボというやつであろう。よその配信で聞けば、いい声だと素直に感心したはずだ。それが自分の喉から出ているとなると、どこに感情を置けばいいのか分からない。


 少なくとも、今のは加工された音ではなかった。マイクの前にさえ座っていないのだから、機材を疑う余地もない。俺は喉元に手を添えたまま、長いため息をついた。


 部屋を見回すと、机に並ぶ機材には見覚えがあった。マイクの台座に付けた小さな傷も、机の下でまとめたケーブルもそのままだ。一方で寝具やカーテンは清潔な明るい色へ変わり、壁際には知らない収納棚が増えている。


 窓を開ければ、遠くを走る車の音が聞こえた。向かいの建物も、角の街灯も見慣れたものだった。別の世界へ飛ばされたというより、自分の部屋と自分自身だけが、誰かに作り直された……そんな感じがした。


 机に置かれた財布を開き、中に入っていた免許証を引き抜いた。氏名欄には、花宮可憐と記されていた。隣の顔写真を鏡に近づけて見比べると、そこにも同じ顔がある。


「名前まで……か」


 財布の中には現金もあり、日常生活を送るためのものが一通り収まっていた。誰の仕業かは知らないが、姿だけ変えて放り出した訳ではないらしい。そう考えたところで、会社へ連絡しなければという習慣が頭をもたげた。


 けれど、何と名乗ればいいのだろうか。花宮可憐です、身体が変わってしまったので遅刻します……とでも言うのか。あの上司の顔を思い浮かべた途端、あまりに現実味のない報告に、乾いた笑いが漏れた。


 鏡の中には、会社から呼び出されるたび、鞄を掴んで飛び出していた男はそこにいなかった。いつも胸の奥に居座っていた焦りも今は遠い。何より、こうして立っているだけで、身体がどこも痛まない。


「……会社、行かなくていいのか」


 確かめるように口にすると、胸の奥がじわりと熱くなった。目覚めた瞬間に、京の謝罪先を数えなくていい。食事を途中で切り上げ、電話を取る支度をしなくていい。


 性別も姿も変わっているのに、まず最初に嬉しくなったのがそれだった。さすがに順序がおかしいと自分でも思う。けれど笑いながら鏡を見ているうちに、目の端が少し濡れた。


 分からないことは山ほどある。暮らしをどうするかも、配信を続けられるかも、落ち着いて確かめなければならない。それでも、明日も同じ場所で頭を下げている自分しか想像できなかった昨日とは違い、何をするか考える余地があった。


 その余地に、盛大に腹の音が割り込んできた。鏡の中の可憐まで気まずそうな顔をしていて、今度は本当に笑ってしまう。胃が重いわけでも、気持ちが悪いわけでもない。ただ、腹が減っていた。


「そうだな。まず飯にしよう」


 冷蔵庫を開けても、すぐ食べられそうなものは無かった。棚から見つけたパーカーを羽織り、デニムに足を通す。髪を背中へ払う動作には手間取ったが、服は不思議なくらい身体に合った。


 鏡で確かめたのは、裾を踏まないかということだけだった。財布とスマートフォン、鍵をポケットへ入れる手順は、これまでの買い出しと変わらない。画面の中の姿を隠す必要などなかった頃の習慣が、そのまま俺を玄関まで運んでいた。


 時計は、日付が変わったばかりの時刻を示していた。外へ出ると夜風が髪を揺らし、赤いメッシュが街灯の下で頬をかすめる。長い髪は案外邪魔だなと思いながら、俺は真夜中に煌々と輝くコンビニの看板の方へを足を向けた。


 今夜は、何を食べても美味そうだった。

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