↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ノエル・ヴァース  作者: ひむひりか


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/21

リーゼとマリー

テルナ村の入り口が見えてきたのは、日が傾き始めたころだった。


見慣れた木々。畑の向こうに並ぶ家々。風に揺れる草の音。


ノエルは、ゆっくりと息を吐いた。


「……戻ってきた」


隣を歩くヴァルセーヌが、ちらりと彼を見た。


「疲れたかい?」


「少し。でも、大丈夫」


ノエルは後ろを振り返った。


そこには、リーゼがいた。


彼女は二人から少し距離を取り、うつむきながら歩いていた。長い道のりで疲れているはずなのに、休みたいとも、足が痛いとも言わない。


ただ、黙ってついてくる。


その姿を見て、ノエルは以前の自分を思い出した。


何かを頼めば、迷惑だと思われる。

弱音を吐けば、役に立たないと思われる。

だから、何も言わずに耐える。


リーゼも、同じように考えているのかもしれない。


「リーゼ」


名前を呼ぶと、彼女の肩が小さく跳ねた。


「……はい」


「もうすぐ村に着くよ」


「……そう」


リーゼは村の方を見た。


畑のそばを歩く人々。荷物を運ぶ大人たち。家の前で遊ぶ子どもたち。


誰もが、自分の生活を送っている。


その光景は、リーゼにとって遠い世界のものだった。


帝国の施設では、一日の始まりも終わりも、命令によって決まっていた。


何をするのか。

いつ魔法を使うのか。

いつ食事を与えられるのか。


すべて、誰かが決めていた。


けれど、目の前の人々は違う。


誰かに命じられているようには見えなかった。


それが不思議で、同時に怖かった。


「……私が、ここにいてもいいの?」


ぽつりとこぼれた言葉に、ノエルは足を止めた。


「うん」


彼は迷わず答えた。


「ここなら、少し休めると思う」


リーゼは、何か言おうとして口を開き、結局閉じた。


いてもいい。


その言葉を、どう受け取ればいいのかわからなかった。


それでも、ノエルはそれ以上何も求めなかった。


三人は、ゆっくりと村の入り口へ向かった。




「おーい! ノエル!」


村に入ってすぐ、聞き慣れた声が飛んできた。


顔を上げると、オーティスがこちらへ駆けてくるところだった。


その後ろには、マリーもいる。


「ノエル! 帰ってきたのか!」


オーティスは勢いよく走ってきて、ノエルの目の前で足を止めた。


「遅かったじゃないか! ヴァルセーヌ様と出かけるって聞いてたけど、こんなにかかるなんて思わなかったぞ!」


「……ちょっと、いろいろあって」


「いろいろって何だよ?」


「それは……あとで話すよ」


ノエルがそう答えると、オーティスは少しだけ不満そうな顔をした。


だが、すぐに笑顔へ戻る。


「まあ、いいや! とにかく、無事に帰ってきてよかった!」


その言葉に、ノエルは一瞬、返事を忘れた。


無事に帰ってきてよかった。


ただ、それだけのこと。


それなのに、胸の奥がじんわりと温かくなった。


「……うん。ただいま」


「おう! おかえり!」


オーティスは、いつもの調子でノエルの肩を軽く叩いた。


そのやり取りを見ていたマリーも、ほっとしたように笑った。


「ノエル、おかえりなさい。ヴァルセーヌ様も、お疲れさまです」


「ありがとう、マリー。留守の間、変わりはなかったかい?」


「はい。畑も大丈夫ですし、オーティスもちゃんとお手伝いしてましたよ」


「おい! なんでそこを強調するんだよ!」


「だって、いつもノエルと遊びに行っちゃうんだもの」


「遊びじゃないぞ! 剣の稽古とか、村の見回りとか……」


「この前は川で魚を追いかけてたじゃない」


「それも大事な調査だ!」


二人のやり取りに、ノエルは思わず笑った。


いつもと変わらない。


自分がいない間も、この村では同じように時間が流れていたのだ。


そのことが、今はひどくありがたかった。


けれど。


ふと、マリーの視線がノエルの後ろへ向いた。


「……あれ?」


オーティスも気づいたようだった。


「ノエル、その子は?」


二人の視線が、リーゼに集まる。


リーゼは、びくりと肩を震わせた。


とっさにノエルの後ろへ隠れる。


その反応を見て、オーティスは驚いたように目を丸くした。


マリーは、すぐには近づかなかった。


ただ、リーゼの顔を見て、それからノエルを見た。


「……新しいお友達?」


ノエルは少し考えてから答えた。


「うん。リーゼっていうんだ」


「リーゼちゃん?」


マリーの顔が、ぱっと明るくなった。


「女の子なんだ!」


思わず声が大きくなり、リーゼがさらに身を縮める。


「あっ、ごめんね!」


マリーは慌てて口元を押さえた。


それから、今度は少し声を落として、リーゼに向き直った。


「私、マリーっていうの。よろしくね」


リーゼは、すぐには答えなかった。


何を言えばいいのだろう。


初対面の人間に、どう接すればいいのだろう。


自分が何者なのかを知られたら、嫌われるのではないか。


そんな考えが、頭の中をぐるぐると回っていた。


「……リーゼです」


ようやく、それだけを口にした。


「うん! よろしくね、リーゼちゃん!」


マリーは、にこっと笑った。


それだけだった。


名前を聞いて、それに答えて、笑いかけてくれた。


それ以上、何も聞かなかった。


どこから来たのか。

なぜノエルたちと一緒にいるのか。

どうしてそんなに怯えているのか。


何も。


リーゼは、困惑したようにマリーを見つめた。


「……怒らないの?」


小さな声だった。


「え?」


「……私が、ここにいても」


マリーはきょとんとした。


そして、少し考えてから首をかしげた。


「どうして怒るの?」


リーゼは答えられなかった。


マリーには、本当にわからないようだった。


「だって、リーゼちゃんはリーゼちゃんでしょう?」


何でもないことのように、マリーは続けた。


「ここに来たばかりなら、わからないこともいっぱいあるよね。私も案内するし、困ったことがあったら言ってね!」


その言葉に、リーゼは目を伏せた。


優しくされる理由がわからない。


何かを求められるわけでもない。


ただ、困っていたら助けると言われた。


それが、どうしようもなく不思議だった。


「……ありがとう」


リーゼは、かすかな声で答えた。


マリーは嬉しそうに笑った。


「うん!」


その様子を見ていたオーティスが、腕を組んだ。


「俺はオーティス。ノエルの親友だ!」


「……親友?」


「そう! 一番の友達ってこと!」


「自分で言うんだ……」


ノエルが呆れたように言う。


「なんだよ! 違うのか?」


「……違うとは言ってないよ」


「だろ!」


オーティスは満足そうに胸を張った。


「リーゼも、困ったことがあったら言ってくれよ! 俺にできることなら手伝うからさ!」


リーゼは戸惑いながらも、小さくうなずいた。


「……うん」


まだ、笑顔を返すことはできなかった。


それでも、先ほどより少しだけ、二人の顔を見られるようになっていた。




ヴァルセーヌの家に着くころには、空が茜色に染まっていた。


「しばらくは、ここで休むといい」


ヴァルセーヌが扉を開けながら言った。


「部屋もあるし、食事も用意できる。必要なものがあれば、遠慮なく言いなさい」


リーゼは、家の中を見回した。


木の床。

古い家具。

本の積まれた棚。

窓から差し込む夕日。


どれも、帝国の施設とは違っていた。


あそこでは、何もかもが冷たく、整然としていた。


ここには、使い込まれた道具や、少し傾いた椅子、読みかけの本がある。


誰かが暮らしている場所なのだと、感じられた。


「……私、何をすればいいですか?」


リーゼが尋ねると、ヴァルセーヌは不思議そうに振り返った。


「何もしなくてもよい」


「……え?」


「まずは休みなさい。疲れているだろう?」


リーゼは、立ち尽くした。


何もしなくていい。


その言葉が、理解できなかった。


帝国では、何もしなければ叱られた。


命令に従わなければ罰を受けた。


期待された力を使えなければ、価値がないと言われた。


だから、休むことさえ怖かった。


「……でも」


「でも?」


「私、何もできないと……」


言いかけて、リーゼは口を閉じた。


その先を口にするのが、怖かった。


ヴァルセーヌは、彼女の言葉を急かさなかった。


「今は、何もできなくてもいいんだ」


静かな声だった。


「ここでは、何かができるかどうかで、君がここにいていいかどうかを決めたりはしない」


リーゼは、顔を上げた。


老人は、穏やかな目で彼女を見つめていた。


「……本当に?」


「ああ」


ヴァルセーヌはうなずいた。


「少なくとも、私はそう考えているよ」


リーゼは、何も答えなかった。


信じたい。


けれど、信じるのが怖い。


もし信じて、また裏切られたら。


もしここでも、役に立たないと判断されたら。


そう考えると、胸の奥が締めつけられた。


「……少し、休ませてください」


「もちろんだとも」


ヴァルセーヌは、空いている部屋へ案内した。


部屋には、簡素な寝台と、小さな机が置かれていた。


窓からは、村の畑が見える。


「何かあれば、すぐに呼びなさい」


そう言い残して、ヴァルセーヌは部屋を出ていった。


リーゼは、ゆっくりと寝台に腰を下ろした。


柔らかな布が、体を受け止める。


それだけのことなのに、どうしていいかわからなかった。


しばらくして、彼女は膝を抱えた。


「……ここに、いてもいいのかな」


誰に聞かせるでもなく、つぶやく。


答えは返ってこない。


けれど、追い出されることもなかった。


その夜、リーゼは久しぶりに、誰かの命令を待たずに眠ることになった。




翌朝。


ヴァルセーヌが朝食の支度をしていると、家の扉が勢いよく叩かれた。


「ヴァルセーヌ様ー!」


聞き慣れた声に、老人は苦笑した。


「おや、朝から元気だねえ」


扉を開けると、マリーが立っていた。


その手には、小さな籠がある。


「おはようございます! 母さんが、パンを焼いたから持っていってって!」


「それはありがたい。お母さんにお礼を伝えておくよ」


「はい!」


マリーは籠を渡すと、家の中をちらりと見た。


「……あの、リーゼちゃんは?」


ヴァルセーヌは、少しだけ目を細めた。


「まだ休んでいるよ」


「そうなんですか……」


マリーは、残念そうに肩を落とした。


「昨日、ちゃんとお話しできなかったから。もう少し仲良くなりたいなって思って」


「そうかい」


「だって、私と同じくらいの女の子が村に来るなんて、初めてなんです!」


マリーは、嬉しそうに笑った。


「いつもノエルやオーティスと一緒にいるから、女の子同士でお話しできたらいいなって思ってたんです」


ヴァルセーヌは、マリーの顔を見つめた。


彼女にとっては、本当にそれだけなのだろう。


リーゼがどんな過去を持っているのか、まだ知らない。


それでも、同じ歳くらいの女の子と友達になりたい。


ただ、それだけなのだ。


「リーゼは、まだ人と話すのに慣れていないんだ」


ヴァルセーヌは、優しく告げた。


「だから、あまり急がずに接してあげてくれると助かるよ」


「はい! わかりました!」


マリーは元気よくうなずいた。


「じゃあ、また来てもいいですか?」


「ああ。もちろん」


「やった!」


マリーは両手を握りしめた。


「それじゃあ、またお昼に来ますね!」


そう言って、彼女は駆けていった。


ヴァルセーヌは、その後ろ姿を見送りながら、小さく笑った。


「……あの子なら、きっと大丈夫だろう」




その日の昼過ぎ。


リーゼが部屋から出てくると、居間にマリーがいた。


机の上には、布に包まれた焼き菓子が置かれている。


「こんにちは、リーゼちゃん!」


マリーは、ぱっと顔を輝かせた。


リーゼは足を止めた。


「……こんにちは」


「これね、うちで作ったの! よかったら一緒に食べない?」


マリーは布を開いた。


中には、小さな焼き菓子がいくつも並んでいた。


リーゼは、それをじっと見つめた。


「……私が、食べてもいいの?」


「もちろん!」


マリーは不思議そうに答えた。


「リーゼちゃんの分も持ってきたんだよ?」


リーゼは、戸惑った。


自分の分。


自分のために用意されたもの。


そんなものを、受け取っていいのだろうか。


「……ありがとう」


リーゼは、そっと焼き菓子を手に取った。


一口かじる。


甘い味が、口の中に広がった。


「おいしい……」


思わず、声が漏れた。


マリーの顔が明るくなる。


「本当? よかった! 母さんにも伝えておくね!」


リーゼは、小さくうなずいた。


それから、マリーを見た。


「……どうして、私にこんなに親切にしてくれるの?」


マリーは、少し考えた。


「うーん……」


首をかしげてから、にっこり笑う。


「だって、リーゼちゃんと仲良くなりたいから!」


あまりにもまっすぐな答えだった。


リーゼは、言葉を失った。


何かをしてもらうには、理由が必要だと思っていた。


役に立つこと。

期待に応えること。

相手の望むものを差し出すこと。


そうしなければ、自分には何の価値もない。


ずっと、そう教えられてきた。


けれど、マリーは違う。


仲良くなりたい。


それだけで、焼き菓子を持ってきた。


それだけで、また会いに来てくれた。


リーゼは、焼き菓子を両手で包むように持った。


「……私、人と仲良くなるのが、あまり得意じゃないの」


「そっか」


マリーは、すぐに答えた。


「じゃあ、ゆっくり仲良くなろうよ!」


リーゼは、顔を上げた。


「……ゆっくり?」


「うん! 今日、いっぱいお話しできなくてもいいし、明日も、その次の日もあるから!」


マリーは、指を折りながら言った。


「私、明日も来るね。明後日も来るかも!」


「……毎日?」


「うん!」


マリーは笑った。


「迷惑だったら言ってね。でも、私はリーゼちゃんと仲良くなりたいから!」


リーゼは、しばらく彼女を見つめていた。


胸の奥に、今まで感じたことのない温かさが生まれていた。


それが何なのか、まだわからない。


けれど、嫌な気持ちではなかった。


「……明日も、来てくれるの?」


リーゼが尋ねると、マリーは満面の笑みを浮かべた。


「もちろん!」


その答えを聞いて、リーゼの口元がほんの少しだけ緩んだ。


ほんのわずかな変化だった。


けれど、マリーはそれを見逃さなかった。


「……あっ、リーゼちゃん、今、笑った?」


「えっ?」


リーゼは慌てて口元を押さえた。


「わ、笑ってない……」


「笑ったよ!」


「……笑ってないもん」


自分でも驚くほど、小さな反論が口から出た。


マリーは一瞬きょとんとし、それから楽しそうに笑った。


「そっか! じゃあ、今度はもっと笑ってもらえるように頑張るね!」


リーゼは困ったように目を伏せた。


それでも、今度は口元を隠さなかった。


窓の外では、風が草を揺らしていた。


テルナ村の穏やかな昼下がり。


帝国で過ごした日々の記憶が消えることはない。


自分がしたことへの罪悪感も、簡単にはなくならない。


それでも、この村には、自分と仲良くなりたいと言ってくれる人がいた。


明日も来ると、約束してくれる人がいた。


リーゼは、手の中の焼き菓子をもう一口かじった。


「……マリーちゃん」


「ん? なあに?」


「……また、明日」


マリーは、嬉しそうにうなずいた。


「うん! また明日ね、リーゼちゃん!」


その日、リーゼは初めて、自分から明日を待ちたいと思った。


まだ、ここを自分の居場所だとは思えない。


けれど、明日もマリーに会いたい。


その小さな願いが、リーゼの新しい生活の始まりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。