リーゼとマリー
テルナ村の入り口が見えてきたのは、日が傾き始めたころだった。
見慣れた木々。畑の向こうに並ぶ家々。風に揺れる草の音。
ノエルは、ゆっくりと息を吐いた。
「……戻ってきた」
隣を歩くヴァルセーヌが、ちらりと彼を見た。
「疲れたかい?」
「少し。でも、大丈夫」
ノエルは後ろを振り返った。
そこには、リーゼがいた。
彼女は二人から少し距離を取り、うつむきながら歩いていた。長い道のりで疲れているはずなのに、休みたいとも、足が痛いとも言わない。
ただ、黙ってついてくる。
その姿を見て、ノエルは以前の自分を思い出した。
何かを頼めば、迷惑だと思われる。
弱音を吐けば、役に立たないと思われる。
だから、何も言わずに耐える。
リーゼも、同じように考えているのかもしれない。
「リーゼ」
名前を呼ぶと、彼女の肩が小さく跳ねた。
「……はい」
「もうすぐ村に着くよ」
「……そう」
リーゼは村の方を見た。
畑のそばを歩く人々。荷物を運ぶ大人たち。家の前で遊ぶ子どもたち。
誰もが、自分の生活を送っている。
その光景は、リーゼにとって遠い世界のものだった。
帝国の施設では、一日の始まりも終わりも、命令によって決まっていた。
何をするのか。
いつ魔法を使うのか。
いつ食事を与えられるのか。
すべて、誰かが決めていた。
けれど、目の前の人々は違う。
誰かに命じられているようには見えなかった。
それが不思議で、同時に怖かった。
「……私が、ここにいてもいいの?」
ぽつりとこぼれた言葉に、ノエルは足を止めた。
「うん」
彼は迷わず答えた。
「ここなら、少し休めると思う」
リーゼは、何か言おうとして口を開き、結局閉じた。
いてもいい。
その言葉を、どう受け取ればいいのかわからなかった。
それでも、ノエルはそれ以上何も求めなかった。
三人は、ゆっくりと村の入り口へ向かった。
「おーい! ノエル!」
村に入ってすぐ、聞き慣れた声が飛んできた。
顔を上げると、オーティスがこちらへ駆けてくるところだった。
その後ろには、マリーもいる。
「ノエル! 帰ってきたのか!」
オーティスは勢いよく走ってきて、ノエルの目の前で足を止めた。
「遅かったじゃないか! ヴァルセーヌ様と出かけるって聞いてたけど、こんなにかかるなんて思わなかったぞ!」
「……ちょっと、いろいろあって」
「いろいろって何だよ?」
「それは……あとで話すよ」
ノエルがそう答えると、オーティスは少しだけ不満そうな顔をした。
だが、すぐに笑顔へ戻る。
「まあ、いいや! とにかく、無事に帰ってきてよかった!」
その言葉に、ノエルは一瞬、返事を忘れた。
無事に帰ってきてよかった。
ただ、それだけのこと。
それなのに、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「……うん。ただいま」
「おう! おかえり!」
オーティスは、いつもの調子でノエルの肩を軽く叩いた。
そのやり取りを見ていたマリーも、ほっとしたように笑った。
「ノエル、おかえりなさい。ヴァルセーヌ様も、お疲れさまです」
「ありがとう、マリー。留守の間、変わりはなかったかい?」
「はい。畑も大丈夫ですし、オーティスもちゃんとお手伝いしてましたよ」
「おい! なんでそこを強調するんだよ!」
「だって、いつもノエルと遊びに行っちゃうんだもの」
「遊びじゃないぞ! 剣の稽古とか、村の見回りとか……」
「この前は川で魚を追いかけてたじゃない」
「それも大事な調査だ!」
二人のやり取りに、ノエルは思わず笑った。
いつもと変わらない。
自分がいない間も、この村では同じように時間が流れていたのだ。
そのことが、今はひどくありがたかった。
けれど。
ふと、マリーの視線がノエルの後ろへ向いた。
「……あれ?」
オーティスも気づいたようだった。
「ノエル、その子は?」
二人の視線が、リーゼに集まる。
リーゼは、びくりと肩を震わせた。
とっさにノエルの後ろへ隠れる。
その反応を見て、オーティスは驚いたように目を丸くした。
マリーは、すぐには近づかなかった。
ただ、リーゼの顔を見て、それからノエルを見た。
「……新しいお友達?」
ノエルは少し考えてから答えた。
「うん。リーゼっていうんだ」
「リーゼちゃん?」
マリーの顔が、ぱっと明るくなった。
「女の子なんだ!」
思わず声が大きくなり、リーゼがさらに身を縮める。
「あっ、ごめんね!」
マリーは慌てて口元を押さえた。
それから、今度は少し声を落として、リーゼに向き直った。
「私、マリーっていうの。よろしくね」
リーゼは、すぐには答えなかった。
何を言えばいいのだろう。
初対面の人間に、どう接すればいいのだろう。
自分が何者なのかを知られたら、嫌われるのではないか。
そんな考えが、頭の中をぐるぐると回っていた。
「……リーゼです」
ようやく、それだけを口にした。
「うん! よろしくね、リーゼちゃん!」
マリーは、にこっと笑った。
それだけだった。
名前を聞いて、それに答えて、笑いかけてくれた。
それ以上、何も聞かなかった。
どこから来たのか。
なぜノエルたちと一緒にいるのか。
どうしてそんなに怯えているのか。
何も。
リーゼは、困惑したようにマリーを見つめた。
「……怒らないの?」
小さな声だった。
「え?」
「……私が、ここにいても」
マリーはきょとんとした。
そして、少し考えてから首をかしげた。
「どうして怒るの?」
リーゼは答えられなかった。
マリーには、本当にわからないようだった。
「だって、リーゼちゃんはリーゼちゃんでしょう?」
何でもないことのように、マリーは続けた。
「ここに来たばかりなら、わからないこともいっぱいあるよね。私も案内するし、困ったことがあったら言ってね!」
その言葉に、リーゼは目を伏せた。
優しくされる理由がわからない。
何かを求められるわけでもない。
ただ、困っていたら助けると言われた。
それが、どうしようもなく不思議だった。
「……ありがとう」
リーゼは、かすかな声で答えた。
マリーは嬉しそうに笑った。
「うん!」
その様子を見ていたオーティスが、腕を組んだ。
「俺はオーティス。ノエルの親友だ!」
「……親友?」
「そう! 一番の友達ってこと!」
「自分で言うんだ……」
ノエルが呆れたように言う。
「なんだよ! 違うのか?」
「……違うとは言ってないよ」
「だろ!」
オーティスは満足そうに胸を張った。
「リーゼも、困ったことがあったら言ってくれよ! 俺にできることなら手伝うからさ!」
リーゼは戸惑いながらも、小さくうなずいた。
「……うん」
まだ、笑顔を返すことはできなかった。
それでも、先ほどより少しだけ、二人の顔を見られるようになっていた。
ヴァルセーヌの家に着くころには、空が茜色に染まっていた。
「しばらくは、ここで休むといい」
ヴァルセーヌが扉を開けながら言った。
「部屋もあるし、食事も用意できる。必要なものがあれば、遠慮なく言いなさい」
リーゼは、家の中を見回した。
木の床。
古い家具。
本の積まれた棚。
窓から差し込む夕日。
どれも、帝国の施設とは違っていた。
あそこでは、何もかもが冷たく、整然としていた。
ここには、使い込まれた道具や、少し傾いた椅子、読みかけの本がある。
誰かが暮らしている場所なのだと、感じられた。
「……私、何をすればいいですか?」
リーゼが尋ねると、ヴァルセーヌは不思議そうに振り返った。
「何もしなくてもよい」
「……え?」
「まずは休みなさい。疲れているだろう?」
リーゼは、立ち尽くした。
何もしなくていい。
その言葉が、理解できなかった。
帝国では、何もしなければ叱られた。
命令に従わなければ罰を受けた。
期待された力を使えなければ、価値がないと言われた。
だから、休むことさえ怖かった。
「……でも」
「でも?」
「私、何もできないと……」
言いかけて、リーゼは口を閉じた。
その先を口にするのが、怖かった。
ヴァルセーヌは、彼女の言葉を急かさなかった。
「今は、何もできなくてもいいんだ」
静かな声だった。
「ここでは、何かができるかどうかで、君がここにいていいかどうかを決めたりはしない」
リーゼは、顔を上げた。
老人は、穏やかな目で彼女を見つめていた。
「……本当に?」
「ああ」
ヴァルセーヌはうなずいた。
「少なくとも、私はそう考えているよ」
リーゼは、何も答えなかった。
信じたい。
けれど、信じるのが怖い。
もし信じて、また裏切られたら。
もしここでも、役に立たないと判断されたら。
そう考えると、胸の奥が締めつけられた。
「……少し、休ませてください」
「もちろんだとも」
ヴァルセーヌは、空いている部屋へ案内した。
部屋には、簡素な寝台と、小さな机が置かれていた。
窓からは、村の畑が見える。
「何かあれば、すぐに呼びなさい」
そう言い残して、ヴァルセーヌは部屋を出ていった。
リーゼは、ゆっくりと寝台に腰を下ろした。
柔らかな布が、体を受け止める。
それだけのことなのに、どうしていいかわからなかった。
しばらくして、彼女は膝を抱えた。
「……ここに、いてもいいのかな」
誰に聞かせるでもなく、つぶやく。
答えは返ってこない。
けれど、追い出されることもなかった。
その夜、リーゼは久しぶりに、誰かの命令を待たずに眠ることになった。
翌朝。
ヴァルセーヌが朝食の支度をしていると、家の扉が勢いよく叩かれた。
「ヴァルセーヌ様ー!」
聞き慣れた声に、老人は苦笑した。
「おや、朝から元気だねえ」
扉を開けると、マリーが立っていた。
その手には、小さな籠がある。
「おはようございます! 母さんが、パンを焼いたから持っていってって!」
「それはありがたい。お母さんにお礼を伝えておくよ」
「はい!」
マリーは籠を渡すと、家の中をちらりと見た。
「……あの、リーゼちゃんは?」
ヴァルセーヌは、少しだけ目を細めた。
「まだ休んでいるよ」
「そうなんですか……」
マリーは、残念そうに肩を落とした。
「昨日、ちゃんとお話しできなかったから。もう少し仲良くなりたいなって思って」
「そうかい」
「だって、私と同じくらいの女の子が村に来るなんて、初めてなんです!」
マリーは、嬉しそうに笑った。
「いつもノエルやオーティスと一緒にいるから、女の子同士でお話しできたらいいなって思ってたんです」
ヴァルセーヌは、マリーの顔を見つめた。
彼女にとっては、本当にそれだけなのだろう。
リーゼがどんな過去を持っているのか、まだ知らない。
それでも、同じ歳くらいの女の子と友達になりたい。
ただ、それだけなのだ。
「リーゼは、まだ人と話すのに慣れていないんだ」
ヴァルセーヌは、優しく告げた。
「だから、あまり急がずに接してあげてくれると助かるよ」
「はい! わかりました!」
マリーは元気よくうなずいた。
「じゃあ、また来てもいいですか?」
「ああ。もちろん」
「やった!」
マリーは両手を握りしめた。
「それじゃあ、またお昼に来ますね!」
そう言って、彼女は駆けていった。
ヴァルセーヌは、その後ろ姿を見送りながら、小さく笑った。
「……あの子なら、きっと大丈夫だろう」
その日の昼過ぎ。
リーゼが部屋から出てくると、居間にマリーがいた。
机の上には、布に包まれた焼き菓子が置かれている。
「こんにちは、リーゼちゃん!」
マリーは、ぱっと顔を輝かせた。
リーゼは足を止めた。
「……こんにちは」
「これね、うちで作ったの! よかったら一緒に食べない?」
マリーは布を開いた。
中には、小さな焼き菓子がいくつも並んでいた。
リーゼは、それをじっと見つめた。
「……私が、食べてもいいの?」
「もちろん!」
マリーは不思議そうに答えた。
「リーゼちゃんの分も持ってきたんだよ?」
リーゼは、戸惑った。
自分の分。
自分のために用意されたもの。
そんなものを、受け取っていいのだろうか。
「……ありがとう」
リーゼは、そっと焼き菓子を手に取った。
一口かじる。
甘い味が、口の中に広がった。
「おいしい……」
思わず、声が漏れた。
マリーの顔が明るくなる。
「本当? よかった! 母さんにも伝えておくね!」
リーゼは、小さくうなずいた。
それから、マリーを見た。
「……どうして、私にこんなに親切にしてくれるの?」
マリーは、少し考えた。
「うーん……」
首をかしげてから、にっこり笑う。
「だって、リーゼちゃんと仲良くなりたいから!」
あまりにもまっすぐな答えだった。
リーゼは、言葉を失った。
何かをしてもらうには、理由が必要だと思っていた。
役に立つこと。
期待に応えること。
相手の望むものを差し出すこと。
そうしなければ、自分には何の価値もない。
ずっと、そう教えられてきた。
けれど、マリーは違う。
仲良くなりたい。
それだけで、焼き菓子を持ってきた。
それだけで、また会いに来てくれた。
リーゼは、焼き菓子を両手で包むように持った。
「……私、人と仲良くなるのが、あまり得意じゃないの」
「そっか」
マリーは、すぐに答えた。
「じゃあ、ゆっくり仲良くなろうよ!」
リーゼは、顔を上げた。
「……ゆっくり?」
「うん! 今日、いっぱいお話しできなくてもいいし、明日も、その次の日もあるから!」
マリーは、指を折りながら言った。
「私、明日も来るね。明後日も来るかも!」
「……毎日?」
「うん!」
マリーは笑った。
「迷惑だったら言ってね。でも、私はリーゼちゃんと仲良くなりたいから!」
リーゼは、しばらく彼女を見つめていた。
胸の奥に、今まで感じたことのない温かさが生まれていた。
それが何なのか、まだわからない。
けれど、嫌な気持ちではなかった。
「……明日も、来てくれるの?」
リーゼが尋ねると、マリーは満面の笑みを浮かべた。
「もちろん!」
その答えを聞いて、リーゼの口元がほんの少しだけ緩んだ。
ほんのわずかな変化だった。
けれど、マリーはそれを見逃さなかった。
「……あっ、リーゼちゃん、今、笑った?」
「えっ?」
リーゼは慌てて口元を押さえた。
「わ、笑ってない……」
「笑ったよ!」
「……笑ってないもん」
自分でも驚くほど、小さな反論が口から出た。
マリーは一瞬きょとんとし、それから楽しそうに笑った。
「そっか! じゃあ、今度はもっと笑ってもらえるように頑張るね!」
リーゼは困ったように目を伏せた。
それでも、今度は口元を隠さなかった。
窓の外では、風が草を揺らしていた。
テルナ村の穏やかな昼下がり。
帝国で過ごした日々の記憶が消えることはない。
自分がしたことへの罪悪感も、簡単にはなくならない。
それでも、この村には、自分と仲良くなりたいと言ってくれる人がいた。
明日も来ると、約束してくれる人がいた。
リーゼは、手の中の焼き菓子をもう一口かじった。
「……マリーちゃん」
「ん? なあに?」
「……また、明日」
マリーは、嬉しそうにうなずいた。
「うん! また明日ね、リーゼちゃん!」
その日、リーゼは初めて、自分から明日を待ちたいと思った。
まだ、ここを自分の居場所だとは思えない。
けれど、明日もマリーに会いたい。
その小さな願いが、リーゼの新しい生活の始まりだった。




