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ノエル・ヴァース  作者: ひむひりか


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7/21

命を吹き込む少女

 リーゼが初めて自分の魔法を使ったのは、まだ幼い頃だった。

 目の前にあった小さな木片に触れたとき、それはほんの一瞬、意思を持ったように動いた。

 最初は、偶然だと思った。

 だが、何度試しても同じことが起きた。

 形あるものに、命を吹き込む。

 それがリーゼの魔法だった。

 幼いリーゼにとって、魔法は不思議で、楽しいものだった。

 小さな木の人形を動かしたり、壊れた道具を持ち上げさせたりするだけで、胸が弾んだ。

 自分の魔法で誰かが笑ってくれる。

 それが嬉しかった。

 しかし、成長するにつれ、リーゼの魔法は周囲の想像を超えていった。

 一体の人形だけではない。

 複数の物体に命を吹き込み、それぞれを動かすことができる。

 練習を重ねるたびに、扱える数が増えていく。

 やがてリーゼの力は、遠く離れた土地にまで知られるようになった。

 そして、その噂に目をつけたのが、ドラグノア帝国だった。

     

 帝国の施設に連れてこられたリーゼは、初めのうち、自分が何を期待されているのか理解していなかった。

 大人たちは彼女の力を調べ、能力を測り、繰り返し魔法を使わせた。

 リーゼは言われた通りにした。

 自分の魔法が役に立つのなら、それでいいと思っていたからだ。

 やがて、彼女の前に運ばれてきたのは、人間の遺体だった。

 リーゼは後ずさった。

「……これは、何?」

「お前の魔法で動かせ」

 命令した男は、感情のない声で言った。

「死者に命を吹き込むのだ」

「でも、この人たちは……」

「命令に従え」

 リーゼは震える手を見つめた。

 物に命を吹き込むことと、死んだ人間を動かすこと。

 それが同じ魔法なのか、彼女には分からなかった。

 けれど、拒めばどうなるのかも分からなかった。

 リーゼは命令に従った。

 死者の体が動き始めたとき、彼女は息をのんだ。

 それは、自分が知っていた魔法とは違って見えた。

 生きていたときの意思も、声も、戻ってこない。

 ただ、命令に従って動く。

 リーゼはその光景を忘れられなかった。

 それでも帝国は、彼女に繰り返し魔法を使わせた。

 一体。

 十体。

 百体。

 さらに多くの死者へ。

 リーゼが扱える数は、成長とともに増えていった。

 十歳を過ぎる頃には、その力の伸びがはっきりと分かるようになっていた。

 帝国は彼女を訓練し、能力を測定し、より多くの死者を動かす方法を探り続けた。

 リーゼは、そのたびに自分の魔法を使った。

 使わなければならなかった。

 そうして十三歳になる頃、リーゼは同時に五千体分の命を扱えるほどの力を身につけていた。

 だが、彼女が得たのは力だけではなかった。

 自分の魔法で動く死者たちを見るたびに、心の中に重いものが積み重なっていった。

 自分は、いったい何をしているのだろう。

 この魔法は、本当に誰かを幸せにするためのものだったのだろうか。

 その問いに、リーゼは答えを見つけられなかった。

     

 ある日、帝国はリーゼに五千体の死者を動かすよう命じた。

 彼女は命令に従い、すべてを動かした。

 しかし、それ以上の数を求められたとき、リーゼは動けなかった。

「……できません」

 男が眉をひそめた。

「何だと?」

「今、動かしている数が……私の限界です」

 リーゼはうつむいた。

「もっと練習すれば、いつかは……」

「もういい」

 男は冷たく言い放った。

「役に立たないな」

 リーゼは顔を上げた。

「待ってください。私は、もっと頑張ります。もう少し時間をもらえれば――」

「連れていけ」

 男は彼女の言葉を聞かなかった。

 リーゼはそのまま連れ出され、暗い牢獄へと押し込められた。

 重い扉が閉じる。

 鍵の音が響く。

 彼女は扉の前に座り込んだ。

 五千体。

 それが、自分にできることの限界だった。

 自分の魔法が必要とされていると思っていた。

 役に立てば、ここにいてもいいのだと思っていた。

 けれど、限界があると分かった途端、見捨てられた。

「……ごめんなさい」

 誰に向けた言葉なのか、リーゼにも分からなかった。

 死者たちに。

 自分がしてきたことに。

 それとも、何もできない自分自身に。

 リーゼは膝を抱えた。

 ここから出られる日が来るとは、もう思えなかった。


 ヴァルセーヌがリーゼの存在を知ったのは、帝国の古い記録を調べていたときだった。

 記録には、死者を動かす魔法に関する実験の記述があった。

 そして、その実験に関わった一人の少女についても触れられていた。

 少女の名前は、リーゼ。

 命を吹き込む魔法を持ち、帝国の施設に収容されているという。

 ヴァルセーヌは何度も記録を読み返した。

 これまで調べてきた異変。

 各地から運び出された遺体。

 死者に関する魔法を研究していた者たちの失踪。

 それらが、一つの方向へつながり始めていた。

 だが、記録だけでは、リーゼが今どうなっているのか分からない。

 確かめる必要があった。

 ヴァルセーヌは村へ戻ると、ノエルを呼んだ。

 ノエルは十三歳になり、背もだいぶ伸びた。

「ノエル。少し、話がある」

 ノエルは土魔法の研究資料を見る手を止めた。

「どうしたの?」

「ドラグノア帝国について、以前よりも詳しいことが分かってきた」

 ノエルの表情が変わった。

 マティルダの家で見た、古い記録を思い出したのだ。

「死者を動かす魔法のこと?」

「ああ。それに関わっている少女がいるらしい」

「少女?」

「リーゼという名前だ。命を吹き込む魔法を持ち、帝国の施設に収容されているという情報がある」

 ノエルは考え込んだ。

「……その子は、帝国に捕まっているの?」

「そこまでは断言できない。だが、自由に暮らしているとは考えにくいな」

 ヴァルセーヌは机に手を置いた。

「私は、直接確かめに行こうと思う」

「僕も行く」

 返事は早かった。

 ヴァルセーヌはノエルを見つめた。

「危険な場所だ。相手は大きな軍事力を持つ帝国だぞ」

「分かってる」

「何が起きるかも分からない」

「それでも、行きたい」

 ノエルは拳を握った。

「もし、その子が本当に助けを必要としているなら……僕は、見て見ぬふりをしたくない」

 ヴァルセーヌは、しばらく黙っていた。

 ノエルの顔には、迷いがなかった。

 かつてアンティヴェラで、誰にも助けてもらえなかった少年。

 今は、自分の意志で誰かを助けようとしている。

「……分かった」

 ヴァルセーヌは静かにうなずいた。

「ただし、私の指示には従うこと。無理だと判断したら、すぐに引き返す。いいな?」

「うん」

「約束だぞ」

「約束する」

 こうして、ノエルとヴァルセーヌは二人だけで帝国の支配下にある施設に向かうことになった。

     

 旅の途中、二人は帝国の支配地域に近づいていった。

 街道には兵士の姿が増え、町の入口には厳重な検問が設けられていた。

 ヴァルセーヌは人々の会話に耳を傾け、施設の位置や兵士の動きを調べた。

 ノエルもまた、周囲を注意深く観察していた。

 土の状態。

 建物の構造。

 壁の厚さ。

 いざというとき、どこを崩せば道を作れるのか。

 彼は無意識のうちに、地面や壁を見て考えていた。

「ノエル」

 ヴァルセーヌが声をかけた。

「何?」

「焦る必要はない。救い出すことだけを考えて、帰り道を忘れてはいけないぞ」

「……うん」

 ノエルはうなずいた。

 自分一人でできることには限界がある。

 だからこそ、よく考える。

 よく見る。

 そして、自分で決める。

 かつてガルドに教わった言葉が、胸の奥によみがえった。

     

 施設は、町から離れた岩山の近くに建っていた。

 外から見れば、ただの軍事施設に見える。

 だが、地下へ続く通路の先には、いくつもの牢獄が並んでいた。

 ヴァルセーヌは兵士たちの動きを見極め、ノエルとともに内部へ進んだ。

 途中、二人は何度か足を止めた。

 遠くから聞こえる足音。

 扉の向こうから漏れる声。

 ノエルは心臓の鼓動を抑えながら、ヴァルセーヌの後に続いた。

 やがて、通路の奥に一つの牢獄が見えた。

 その中に、一人の少女が座っていた。

 薄暗い部屋の隅で、少女は膝を抱えている。

 ノエルは足を止めた。

「……リーゼ?」

 少女が顔を上げた。

 怯えた瞳が、二人を見つめる。

「……誰?」

 声はかすれていた。

「どうして、ここに……」

 ノエルは牢獄の壁を見た。

 厚い土壁。

 頑丈な扉。

 外から鍵をかけられ、逃げることを許されない場所。

 自分がかつて暮らしていたアンティヴェラを思い出した。

 あの街にも、目に見えない壁があった。

 できない者を拒み、違う者を閉じ込める壁。

 そして今、目の前の少女もまた、誰かによって閉じ込められていた。

「助けに来たんだ」

 ノエルは答えた。

 リーゼは、すぐには理解できなかったようだった。

「……助ける?」

「うん。ここから出よう」

 リーゼは首を横に振った。

「無理だよ……」

「どうして?」

「私は、役に立たなかったから……」

 少女の声が震えた。

「もう、必要ないって言われたの。だから、ここにいるの……」

 ノエルは息をのんだ。

 必要ない。

 その言葉を、彼は知っていた。

 自分もまた、同じ言葉を向けられたことがある。

「……君は、何をしたの?」

 リーゼは顔を伏せた。

「死んだ人たちを、動かしたの……」

 声が小さくなった。

「たくさんの人を……。私の魔法で、命令された通りに……」

 リーゼの肩が震えた。

「私は、嫌だった。でも、逆らえなかった。もっと頑張れば、いつか終わると思ってた……」

 涙が床に落ちた。

「でも、できなくなったら、捨てられたの……。私がもっと強ければ、こんなことにはならなかったのかな……」

 ノエルは、すぐには答えられなかった。

 リーゼが何をしてきたのか、すべてを知っているわけではない。

 彼女が操った死者たちのことも、どんな命令に従わされたのかも、まだ分からない。

 それでも、一つだけ分かることがあった。

 この少女は、自分の力だけで価値を決められ、限界に達した途端に捨てられたのだ。

「……君が何をしてきたのか、僕はまだ全部知らない」

 ノエルは言った。

「だから、何もかも大丈夫だなんて、簡単には言えない」

 リーゼは顔を上げた。

「でも……君がここに閉じ込められていることを、当たり前だとは思わない」

 ノエルは牢獄の壁に手を触れた。

「君がどんな魔法を使えるかだけで、君がここにいる理由を決めていいはずがない」

 彼は目を閉じた。

 壁の中にある土や石の構造を思い描く。

 どこに力を加えれば崩れるのか。

 どこを残せば、崩れた壁が通路を塞がずに済むのか。

 土魔法を使い、慎重に力を流し込む。

 低い音が響いた。

 土壁に亀裂が走る。

 次の瞬間、壁の一部が崩れ落ち、外へ続く道が開いた。

 リーゼは呆然と、その光景を見つめていた。

「……どうして?」

「何が?」

「どうして、私を助けるの?」

 ノエルは少しだけ考えた。

「……僕も昔、いらないって言われたことがあるから」

 リーゼの瞳が揺れた。

「でも、僕を助けてくれた人がいた。その人がいなかったら、僕は今、ここにはいなかったと思う」

 ノエルは手を差し伸べた。

「だから、今度は僕が助けたいんだ」

 リーゼは、その手を見つめた。

 すぐには動かなかった。

 信じていいのか分からなかった。

 また裏切られるのではないか。

 助けられたと思った後で、再び捨てられるのではないか。

 そんな恐怖が、彼女の心を縛っていた。

 それでも、差し伸べられた手は引っ込められなかった。

 リーゼは震える手を伸ばし、ノエルの手を取った。

「……私を、連れていってくれるの?」

「うん」

「私が、また間違ったことをしても……?」

 ノエルは、リーゼの目を見つめた。

「間違えたら、そのときに考えよう。何が起きたのか、一緒に考えればいい」

 リーゼの目から、涙があふれた。

 彼女は声を殺して泣いた。

 ノエルは急かさなかった。

 ヴァルセーヌも、何も言わずに待っていた。

 やがてリーゼが立ち上がると、ヴァルセーヌが静かに告げた。

「行こう。ここに長くはいられない」

 三人は、崩れた壁を通り抜けた。

 ノエルは振り返らなかった。

 もう、ここには戻らない。

 そう決めていた。


 施設を離れた三人は、夜のうちに岩山を下りた。

 ヴァルセーヌは追跡を警戒し、なるべく人目につかない道を選んだ。

 ノエルはリーゼの歩幅に合わせて進んだ。

 彼女はほとんど話さなかった。

 長い間、牢獄の中に閉じ込められていたせいか、歩くことさえ苦しそうだった。

「少し休もう」

 ヴァルセーヌが足を止めた。

 三人は岩陰に腰を下ろした。

 ノエルは水筒を差し出した。

「飲む?」

 リーゼはためらいながら受け取った。

「……ありがとう」

 それだけ言って、少しずつ水を飲んだ。

 沈黙が続いた。

 ノエルは無理に話しかけなかった。

 リーゼが今、どんな気持ちでいるのか、すべてを理解することはできない。

 だから、まずは彼女が安心して休めるようにしたかった。

     

 その頃、帝国の施設では異変が発覚していた。

 牢獄の壁が破壊されている。

 壁の一部が崩され、外へ続く通路が作られている。

 そして、収容されていた少女の姿が消えていた。

 報告を受けた兵士たちは、すぐに周辺の捜索を始めた。

「侵入者は何人だ?」

「詳しくは分かりません。ただ、壁の破壊跡から、土や石を操る魔法が使われた可能性があります」

「少女はどこへ向かった?」

「現在、周辺の街道を調べています」

 指揮官は報告書を見つめた。

「リーゼを見つけろ。必ず連れ戻せ」

 兵士たちは一斉に動き始めた。

 帝国は、リーゼを見捨てたはずだった。

 だが、彼女がいなくなったことで、失われたものの大きさを改めて認識したのだ。

 五千体分の命を扱える魔法。

 それを持つ少女を、他国や反抗勢力に渡すわけにはいかない。

 リーゼが何を望んでいるのか。

 彼女がどれほど苦しんでいるのか。

 そのことを気にかける者は、そこにはいなかった。

 帝国が求めていたのは、リーゼという人間ではない。

 彼女の持つ力だった。

     

 数日後、ヴァルセーヌは街道沿いの町で、新しい情報を得た。

 兵士たちが各地で人相を調べ、少女を探しているという。

 まだ、ノエルたちの正確な居場所までは知られていない。

 しかし、時間の問題だろう。

 ヴァルセーヌは宿の一室でノエルに話した。

「帝国がリーゼの逃亡に気づいた」

 ノエルは表情を引き締めた。

「……追ってくるんだね」

「ああ。だから、ここからは慎重に進まなければならない」

 リーゼは二人の話を聞き、顔を青ざめさせた。

「……私が逃げたから?」

「君のせいじゃない」

 ノエルはすぐに答えた。

「帝国が君を連れ戻そうとしている。それだけだよ」

「でも、私がいなければ……」

「リーゼ」

 ノエルは彼女を見つめた。

「君を助けると決めたのは、僕だ」

 リーゼは言葉を失った。

「だから、君一人の責任にしないでほしい」

 ノエルは続けた。

「僕たちは、これからどうするかを考えなきゃいけない。帝国が追ってくるなら、追いつかれない方法を考える。もし追いつかれたら、そのときは守る方法を考える」

 ヴァルセーヌがうなずいた。

「まずはテルナ村へ戻ろう。村なら、協力してくれる人たちがいる」

 ノエルはリーゼに手を差し出した。

「一緒に帰ろう」

 リーゼは、その手を見つめた。

 まだ、恐怖は消えていない。

 帝国が追ってくるという事実も、自分がしてきたことへの罪悪感も、何一つ解決していない。

 それでも、彼女は今、一人ではなかった。

「……うん」

 リーゼはノエルの手を取った。

 三人は再び歩き始めた。

 目指す場所は、テルナ村。

 ノエルが自分の居場所を見つけた場所。

 そして今度は、リーゼが新しい人生を始めるための場所だった。

 ただし、ノエルはまだ知らなかった。

 リーゼを村へ連れ帰るという決断が、やがてテルナ村そのものを戦いへ巻き込むことになるのを。

 彼らの背後では、ドラグノア帝国の追跡が、静かに始まっていた。

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