失いたくないもの
ノエルが十二歳になった春、テルナ村には穏やかな風が吹いていた。
畑には新しい芽が顔を出し、村の人々は忙しそうに働いている。広場では子供たちの声が響き、遠くからマリーが父親を呼ぶ声も聞こえた。
そんな村の景色を、ノエルは少し離れた丘の上から眺めていた。
「おーい、ノエル!」
振り返ると、オーティスが駆け寄ってきた。
「こんなところにいたのか。探したぞ!」
「少し考え事をしていたんだ」
「また魔法のことか?」
「……まあね」
「本当に好きだなあ」
オーティスはノエルの隣に座った。
以前なら、ノエルはこうして誰かと並んで座ることすら落ち着かなかった。何を話せばいいのか分からず、沈黙が続くことを恐れていた。
今は違う。
話すことがなくても、隣にオーティスがいることを不思議だとは思わなくなっていた。
「なあ、ノエル」
「何?」
「俺、もっと強くなりたいんだ」
「知ってるよ」
「いや、そうじゃなくてさ」
オーティスは膝を抱え、遠くに見える村の家々を見つめた。
「父さんみたいに強くなりたいって、ずっと思ってた。でも最近、それだけじゃ駄目なんじゃないかって思うんだ」
「どうして?」
「父さんが守っている人たちを、俺も守れるようになりたいんだ。父さんがいなくても、みんなが安心して暮らせるように」
ノエルは黙って聞いていた。
「そのためには、父さんを超えなきゃいけないと思う。剣の腕だけじゃなくて、何が起きても逃げずに考えられるようになりたいんだ」
「……オーティスらしいね」
「そうか?」
「うん」
ノエルは笑った。
オーティスも笑い返した。
けれど、その笑顔を見た瞬間、ノエルの胸の奥に、あの感情が再び顔を出した。
父親に認められるオーティス。
失敗しても、やり直すことを許されるオーティス。
自分には、決して与えられなかったもの。
ノエルは目を伏せた。
「……いいよね、オーティスは」
「え?」
「父さんがいて。失敗しても、ちゃんと見てくれる人がいて」
オーティスは困惑した顔をした。
「ノエル?」
「何でもない」
「いや、何でもないって顔じゃないだろ」
「いいんだよ」
「よくないだろ。何かあるなら話してくれよ」
心配してくれている。
ただ、それだけだ。
ノエルにも分かっていた。
分かっているのに、止められなかった。
「お前には分からないよ!」
ノエルは立ち上がった。
「できないだけで、いらないって言われる気持ちなんて!」
オーティスの表情が固まった。
「……ノエル」
「僕は、何もできなかったんだ。魔法が使えないだけで、家族から捨てられた。僕がどれだけ頑張っても、何も見てもらえなかった!」
言葉があふれ出した。
今まで誰にも話せなかったこと。
思い出すたびに胸が痛くなり、考えないようにしてきたこと。
それらが、目の前の友人に向かってぶつけられていた。
「お前は違うだろ! 父さんに認めてもらって、家に帰れば家族がいて……そんなお前に、僕の気持ちなんて分かるわけない!」
オーティスは唇をかんだ。
「俺だって、お前のこと何も知らないわけじゃない!」
彼もまた、声を荒らげた。
「でも、俺の父さんが俺を大事にしてくれることまで、悪いことみたいに言うなよ!」
ノエルは息をのんだ。
「俺は、父さんに認めてもらえるのが嬉しいよ。厳しいし、失敗したら何度でもやり直しだけど、それでも俺を見てくれてる。俺はそれを、大事にしたいんだ!」
オーティスの手が震えていた。
「お前が苦しかったことは、俺には全部分からない。そんなの、当たり前だろ。でも、だからって俺まで、自分の家族を大事に思っちゃいけないのかよ!」
「……違う。僕は……」
言い返そうとしたノエルの口が止まった。
違う。
そんなことを言いたかったわけではない。
ただ、羨ましかった。
自分にも、あんな父親がいたら。
失敗した自分を見捨てず、何度でもやり直させてくれる家族がいたら。
そんな願いを、ずっと心の奥に押し込めてきた。
「……もういい」
オーティスは顔を背けた。
「今は、話したくない」
彼は立ち上がり、その場を離れていった。
ノエルは引き止められなかった。
丘の上に、一人だけが残った。
それから数日間、二人は一緒に行動しなかった。
オーティスは剣の稽古に打ち込んでいた。
ノエルはヴァルセーヌとの研究に没頭した。
けれど、どちらも以前のようには集中できなかった。
ノエルは土の形を変えながら、何度も同じことを考えた。
自分は、オーティスにひどいことを言った。
彼が家族を大切に思うことは、何も悪くない。
それなのに、自分はその幸せを妬んでしまった。
「……先生」
ある日の夕方、ノエルはヴァルセーヌに尋ねた。
「自分ではどうにもできない気持ちって、どうすればいいんだろう」
ヴァルセーヌは研究の手を止めた。
「どうにもできない気持ち、か」
「分かっているんだ。相手が悪くないことも、自分が間違ったことを言ったことも。でも、どうしても嫌な気持ちになるんだ」
「そうか」
ヴァルセーヌはしばらく考えた。
「ノエル。感情というものは、正しいか間違っているかだけで分けられるものではないよ」
「……でも、僕はオーティスを傷つけた」
「それは、きちんと向き合わなければいけないことだね」
ヴァルセーヌは穏やかに言った。
「お前が苦しかったことと、オーティスを傷つけたこと。その二つは、どちらか一方だけが本当というわけではない」
ノエルは顔を上げた。
「自分の苦しみを認めることは、相手を傷つけたことを正当化する理由にはならない。だが、相手を傷つけたからといって、自分の苦しみまで否定する必要もないんだ」
「……僕は、どうすればいい?」
「自分が本当は何を伝えたかったのか、考えてみるといい。そして、伝えられると思ったときに、相手と話してみなさい」
ノエルはうつむいた。
「……もし、許してもらえなかったら?」
「それは、オーティスが決めることだよ」
ヴァルセーヌは答えた。
「だが、何も伝えなければ、お前が何を考えているのかも伝わらない」
ノエルは長い間、黙っていた。
やがて、小さくうなずいた。
翌日の夕方、ノエルは広場へ向かった。
オーティスは一人で木剣を振っていた。
ノエルに気づくと、動きを止めた。
「……何か用か?」
以前のように、明るく声をかけてはくれなかった。
それでも、追い払おうとはしなかった。
ノエルは拳を握りしめた。
「この前は、ごめん」
オーティスは黙っていた。
「オーティスが悪いわけじゃないのに、ひどいことを言った。オーティスがお父さんを大切に思っていることまで、否定するつもりはなかったんだ」
ノエルは一度、言葉を切った。
「……本当は、羨ましかったんだ」
胸が痛かった。
それでも、目をそらさなかった。
「僕にも、オーティスみたいに自分を見てくれる家族がいたらよかったって。失敗しても、何もできなくても、それでも僕を必要としてくれる人がいたらって……ずっと思ってた」
声が震えた。
「オーティスが悪いわけじゃない。分かってる。でも、オーティスを見ていると、自分にはなかったものを思い出して……それが、苦しかった」
オーティスは木剣を下ろした。
ノエルは続けた。
「オーティスのことが嫌いになったわけじゃないんだ。むしろ……一緒にいたかった。だから、あんなことを言った自分が嫌なんだ」
沈黙が流れた。
やがて、オーティスが小さく息を吐いた。
「……俺も、ごめん」
「え?」
「お前がどれだけ苦しかったのか、ちゃんと分かってなかった。分からないのに、分かってるつもりになってたのかもしれない」
オーティスは頭をかいた。
「でもさ、ノエル。俺はお前と一緒にいたいんだ」
ノエルの目が揺れた。
「お前といると、俺一人じゃ気づかないことが分かる。剣のことだって、魔法のことだって、お前と一緒に考えると面白いんだ」
「……オーティス」
「だから、俺の家族のことを羨ましいと思ってもいいよ。でも、俺が家族を大切に思う気持ちも、分かってほしい」
「……うん」
「それと、これからは嫌なことがあったら、ちゃんと言ってくれよ。俺も言うからさ」
オーティスは、少しだけ笑った。
「そのほうが、二人で考えられるだろ?」
ノエルは顔を伏せた。
涙がこぼれそうになった。
けれど、今度は隠さなかった。
「……ありがとう」
「おう」
オーティスは木剣をノエルに差し出した。
「で、今日はどうする?」
「……何が?」
「剣の稽古。最近、お前とやってなかっただろ」
「僕は剣なんてほとんど使えないよ」
「知ってる!」
「だったら……」
「だから、一緒に練習するんだろ!」
ノエルは思わず笑った。
オーティスも笑った。
二人は並んで木剣を構えた。
以前とまったく同じではない。
けれど、以前よりも少しだけ、お互いのことが分かるようになっていた。
この先、また喧嘩をすることもあるだろう。
考え方が違い、傷つけ合うこともあるかもしれない。
それでも、何も言わずに離れるのではなく、言葉にして伝えよう。
二人は、そうやって少しずつ大人になっていくのだった。
同じ頃、ヴァルセーヌは再び村を離れていた。
今度の目的地は、かつて交易で栄えた古い町だった。
町の外れには、半ば崩れた建物が残っていた。昔の記録を保管していた場所らしいが、長い年月の間に多くの書物が失われていた。
ヴァルセーヌは残された記録を調べ、町に住む老人たちから話を聞いて回った。
その中で、彼は奇妙な話を耳にした。
数年前、ある土地で亡くなった兵士たちの遺体が、戦場からまとめて運び出されたという。
葬送のためだったのか。
身元を調べるためだったのか。
それとも、別の理由があったのか。
話をした老人にも、それ以上のことは分からなかった。
ヴァルセーヌは手帳に記録を残した。
その数日後、別の町で似た話を聞いた。
さらに別の土地では、死者に関する魔法を調べていた学者が、突然姿を消したという記録が見つかった。
ひとつひとつは、偶然で説明できるかもしれない。
だが、同じような話が別々の場所で続いている。
ヴァルセーヌは手帳を閉じた。
「……まだ、断定するには早いな」
彼は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
手がかりは増えている。
しかし、それらを結びつける決定的な証拠は、まだなかった。
テルナ村へ戻ったヴァルセーヌは、ノエルに旅先で見聞きしたことをすべて話すことはしなかった。
代わりに、いつものように土魔法の研究を手伝った。
「今日は、水を通した後の土の変化を調べてみよう」
「昨日と同じ場所で?」
「いや、今日は別の土を使う。条件を変えなければ、何が原因なのか分からないからな」
ノエルはうなずいた。
土を崩し、粒の大きさを比べ、水を流して変化を記録する。
研究は地味だった。
思った通りの結果が出ないことも多い。
それでもノエルは、一つひとつの違いを見逃さないようにしていた。
「先生」
「何だ?」
「土魔法って、土を操るだけじゃないんだね」
「ほう?」
「土がどうしてその形になっているのか、どうすれば変化するのかを知ることも必要なんだ。分からないまま動かしても、うまくいかない」
ヴァルセーヌは満足そうに笑った。
「よく気づいたな」
ノエルは少し照れくさそうに目を伏せた。
自分が学んでいることは、確かに少しずつ身についている。
そして、その知識を使えば、できることも増えていく。
ノエルはまだ知らなかった。
いつかその力が、誰かの命を救うために必要になることを。




