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ノエル・ヴァース  作者: ひむひりか


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5/20

泥だらけの相棒

ノエルがテルナの村で暮らし始めてから、いくつかの季節が過ぎた。

 朝はヴァルセーヌと土魔法を学び、昼は村の人々の手伝いをする。夕方になると、ノエルは決まって村の広場へ向かうようになっていた。

 そこには、いつも一人の少年がいた。

「ノエル! 遅いぞ!」

 木剣を肩に担いだオーティスが、広場の向こうから手を振っている。

「遅くないよ。まだ約束の時間まである」

「俺が先に来てたんだから、遅いんだよ!」

「それはオーティスが早く来すぎなんだ」

「じゃあ、明日はもっと早く来る!」

 ノエルは小さく息を吐いた。

 最初は、どうしてこの少年が毎日のように自分を誘うのか分からなかった。

 ノエルは口数が多いほうではない。話していても、相手の期待するような反応を返せないことがある。土のことを考え始めると周囲の声が耳に入らなくなるし、興味のない話にはうまく相槌も打てなかった。

 それでもオーティスは気にしなかった。

「今日は何する?」

「昨日の水路をもう一度調べたい」

「よし、行こう!」

「……剣の稽古じゃないの?」

「それもやる!」

 どうやら、オーティスにとっては何でもいいらしい。

 ノエルと一緒に何かをする。それだけで十分なのだ。

     

 その日、二人は村外れの小さな水路にいた。

 ノエルはしゃがみ込み、土の表面を指でなぞっている。

「ここだけ水の流れが遅いんだ。昨日、少し土を動かしたんだけど、思ったほど変わらなかった」

「ふうん」

「だから、もう少し下を掘って――」

「よし、俺が掘る!」

「待って。そこじゃない」

 ノエルが止めるより早く、オーティスは手近な棒を土に突き刺した。

 ぼこり、と音がした。

 次の瞬間、水が勢いよく噴き出した。

「うわっ!」

「だから、そこじゃないって言ったのに!」

 水は二人の足元を濡らし、オーティスの服に泥を跳ね上げた。慌てて水の流れを止めようとしたノエルまで、顔に泥を浴びることになった。

 二人はしばらく呆然とした。

 先に吹き出したのはオーティスだった。

「ははっ! ノエル、顔がすごいぞ!」

「オーティスだって同じだよ!」

「本当か? どんな顔だ?」

「見せてあげる」

 ノエルは足元の水たまりを指さした。

 水面に映った自分たちの顔を見て、オーティスはまた笑った。ノエルも、つられるように笑った。

 誰かと一緒に失敗して、笑ったのは初めてだった。

 アンティヴェラでは、失敗は恥だった。

 できないことを知られれば、見下される。間違えれば、期待に応えられない自分を思い知らされる。

 けれど、ここでは違った。

 失敗した水路は、二人で直せばいい。

 泥だらけになった服は、洗えばいい。

 オーティスは失敗したノエルを責めなかったし、ノエルも失敗したオーティスを嫌いにはならなかった。

 それがノエルには、少し不思議だった。

「なあ、ノエル」

「何?」

「明日もやろうぜ!」

「……水路の実験?」

「それも!」

 ノエルは笑った。

「うん。明日もやろう」

     

 剣の稽古でも、二人はよく一緒にいた。

 オーティスは木剣を振り、ノエルはその動きを観察した。

「今の、もう一回やって」

「え? いいけど」

 オーティスが同じ動きを繰り返す。

「足を出すのと、剣を振るのが少しずれている気がする」

「そうなのか?」

「うん。先に足が動いて、それから剣が来る。たぶん、相手に動きが読まれやすい」

「じゃあ、どうすればいい?」

「それは……僕にも分からない」

「そっか!」

 オーティスはあっさりうなずいた。

「じゃあ、二人で考えようぜ!」

 ノエルは目を瞬かせた。

「僕、剣はほとんど使えないよ」

「でも、見て気づいたんだろ? だったら、何か分かるかもしれないじゃん!」

 オーティスは木剣を構え直した。

 ノエルはその足元を見て、動きを一つずつ確かめた。

 土を操るときと同じように、よく見て、考える。

 何度も試すうちに、オーティスの動きは少しずつ変わっていった。

「おっ、今のいい感じじゃないか?」

「さっきよりは」

「よし! もう十回!」

「今の動きを忘れないうちに、記録したほうがいいと思う」

「ええっ、まだやるのかよ!」

「オーティスが十回って言ったんだよ」

「そうだった!」

 二人の声が、夕暮れの広場に響いた。

 少し離れた場所では、バルスが腕を組んでその様子を見守っていた。

 厳しい父親は、息子の剣の動きだけでなく、隣で真剣に考えているノエルの姿にも目を向けていた。

「……悪くないな」

 誰にも聞こえないほどの声で、バルスはつぶやいた。

     

 村での暮らしは、勉強も同じだった。

 マティルダの家へ向かうときも、ノエルはオーティスと一緒だった。

「俺、今日は本を読むより外で剣を振りたいんだけどなあ」

「昨日、マティルダが地図を見せてくれるって言ってたよ」

「地図?」

「村の周りだけじゃなくて、もっと遠くの土地も載っているんだって」

「……それ、ちょっと見たいかも」

「じゃあ、行こう」

「おう!」

 マティルダは二人を迎えると、机の上に大きな地図を広げた。

「今日は、世界がどんなふうにつながっているのかを見てみようかね」

 オーティスは椅子に座り、身を乗り出した。

「こんなに広いのか?」

「ここに描かれているのは、人が知っている土地の一部にすぎないよ」

 マティルダは地図の端を指でなぞった。

「山があって、森があって、海がある。その向こうにも、人々が暮らしている場所があるんだ」

「じゃあ、俺たちが知らない場所にも、俺より強い奴がいるかもしれないってことか?」

「ふふ。そうかもしれないねえ」

 オーティスの目が輝いた。

「よし、いつか会ってみたいな!」

 ノエルは地図を見つめていた。

 知らない土地。

 知らない人々。

 アンティヴェラの外には、こんなにも広い世界があったのだ。

 自分が知らなかったことは、恥ずかしいことではない。

 知らないのなら、知ればいい。

 マティルダにそう教えられてから、ノエルは何かを学ぶことが少しずつ楽しくなっていた。

 そして、隣にはいつもオーティスがいた。

 勉強に飽きれば、二人で外へ飛び出した。剣の稽古で意見が食い違えば、何度も試して確かめた。畑の手伝いでは、オーティスが力仕事を引き受け、ノエルが土や水の流れを調べた。

 時には二人そろって失敗し、マリーに怒られることもあった。

「もう! せっかく植えた苗なんだから、踏まないでよ!」

「ごめん!」

「……僕は踏んでないよ」

「ノエル、そこも踏んでる!」

「……ごめん」

 マリーの怒った声を聞きながら、オーティスは笑いをこらえていた。

 ノエルはその横顔を見て、少しだけ口元を緩めた。

 こういう日々が、いつまでも続けばいい。

 その頃のノエルは、まだそう思っていた。


 ノエルが九歳になった頃、オーティスの剣の稽古は以前よりも厳しくなっていた。

 ある日の夕方、ノエルが広場へ向かうと、オーティスは一人で木剣を振っていた。

 一度。

 二度。

 三度。

 十回を超えても、オーティスは剣を振るのをやめなかった。

「オーティス?」

「ああ、ノエル。ちょっと待っててくれ」

 オーティスは額の汗を拭い、再び構えた。

 そこへバルスがやってきた。

「止まれ」

 オーティスの動きが止まる。

「今の十回、最初からやり直しだ」

「えっ、全部?」

「数をこなすことが目的になっている。一本一本の動きを考えろ」

「……はーい」

 オーティスはうなだれたが、すぐに木剣を構え直した。

 バルスは息子の姿を見つめていた。

「剣を振る相手が、待ってくれると思うか?」

「思わないよ」

「なら、どうする」

「……正しい動きを、考えながら身につける?」

「分かっているなら、やれ」

 厳しい言葉だった。

 それでも、バルスはオーティスの剣を取り上げなかった。失敗したからといって、稽古をやめさせることもしなかった。

 息子が自分で考え、もう一度立ち上がるのを待っていた。

 ノエルは、その様子を静かに見ていた。

 稽古が終わる頃には、空はすっかり赤く染まっていた。

「疲れた……」

 オーティスは地面に座り込んだ。

「お疲れさま」

「ノエルも見てただろ? 父さん、厳しすぎると思わないか?」

「……うん。少し」

「だよなあ!」

 オーティスは大げさに肩を落とした。

 けれど、すぐに顔を上げた。

「でも、俺、父さんを超えたいんだ」

 ノエルは隣に座ったまま、オーティスを見た。

「バルスを?」

「ああ。父さんは強い。村のみんなから頼りにされてるし、何かあったら真っ先に助けに行くんだ」

 オーティスは自分の手を見つめた。

「俺も、ああなりたい。でも、父さんと同じくらい強くなるだけじゃ駄目なんだ」

「どうして?」

「いつか、父さんにもできないことが起きるかもしれないだろ? そのとき、俺が父さんを助けられるくらい強くなりたいんだ」

 オーティスは顔を上げた。

「父さんが守ってきたものを、今度は俺が守りたい。それで、いつか父さんを超えたいんだ」

 ノエルは、すぐには返事ができなかった。

 オーティスの言葉が、胸の奥に引っかかっていた。

 父親に認めてもらいたい。

 父親のようになりたい。

 そして、いつか父親を超えたい。

 ノエルには、その気持ちが分からなかった。

 自分の父親は、自分を見限った。

 できないことがあると知っただけで、息子ではないと言った。

 もし自分がアンティヴェラで優れた機械魔法を使えていたら、父親はあんなふうに笑いかけてくれただろうか。

 そんな考えが頭をよぎり、ノエルは慌てて目を伏せた。

「……ノエル?」

「何でもない」

「そうか?」

「うん」

 ノエルは立ち上がった。

「明日も稽古をするんだろう?」

「ああ!」

「だったら、今日の動きを忘れないように、今のうちに記録しておこう」

「ええっ、今から?」

「忘れたら、また最初からになるよ」

「それは嫌だ!」

 オーティスは慌てて立ち上がった。

 いつもの調子に戻った友人を見て、ノエルは胸の奥に残った感情を押し込めた。

 まだ、この気持ちに名前をつけることはできなかった。

     

 同じ頃、ヴァルセーヌは村から遠く離れた町にいた。

 古い記録が保管された建物の中で、彼は一冊の帳簿をめくっていた。

 何十年も前の記録だった。

 町の名前。

 発生した異変。

 被害のあった場所。

 そして、異変が起きた日付。

 ヴァルセーヌは一つの記述を見つけると、指を止めた。

「……また、か」

 しばらく考えた後、彼は手帳を取り出し、日付と場所を書き留めた。

 その記録だけでは、何も断定できない。

 偶然かもしれない。

 似たような事件が、別々の理由で起きただけかもしれない。

 だが、気になる点があった。

 ヴァルセーヌは帳簿を閉じた。

 まだ調べる必要がある。

 そう判断すると、彼は町を後にした。

     

 数日後、ヴァルセーヌが家へ戻ると、ノエルはすぐに気づいた。

「先生、どこへ行っていたの?」

「少し調べものをな」

「何を調べていたの?」

「古い記録だよ」

 ヴァルセーヌはそれ以上、説明しなかった。

 ノエルは気になったが、追及するのはやめた。

「……そう」

「それより、土魔法の研究はどうなった?」

「水を通しやすい土と、通しにくい土を比べていたんだ。石の量だけじゃなくて、土の粒の大きさも関係しているみたい」

「ほう。続きを聞かせてくれ」

 ヴァルセーヌはいつもと変わらない顔で椅子に座った。

 ノエルは手帳を開き、研究の結果を説明し始めた。

 その日の夕食も、翌朝の稽古も、何も変わらなかった。

 ただ、ヴァルセーヌの手帳には、新しい日付が一つ増えていた。


 十歳になる少し前、ノエルとオーティスは、以前よりも一緒に過ごす時間が増えていた。

 村の外れを探検し、マリーの畑を手伝い、マティルダの家で本を読んだ。

 オーティスは相変わらず勉強が苦手だったが、分からないことをそのままにしておくのは嫌いだった。

「なあ、マティルダ。この地図だと、山の向こうにも道があるけど、そこには誰が住んでるんだ?」

「さあねえ。昔は人が行き来していたようだけれど、今は詳しいことが分からない場所も多いんだよ」

「じゃあ、調べれば分かるかもしれないんだな!」

「そうだね」

「ノエル、今度行ってみようぜ!」

「地図だけで道が安全かどうかは分からないよ」

「……それもそうか」

 オーティスは少し考えた。

「じゃあ、まずヴァルセーヌ先生に聞いてみよう!」

 ノエルは笑った。

「うん。それならいいと思う」

 二人のやり取りを見ながら、マティルダも楽しそうに目を細めていた。

「ふふ。二人とも、知りたいことがたくさんあるんだねえ」

 ノエルはうなずいた。

 知りたいことは、確かに増えていた。

 土のこと。

 魔法のこと。

 世界のこと。

 そして、人のこと。

 どうして誰かは厳しくても自分を大切にしてくれるのか。どうして誰かは、何もできない相手にも手を差し伸べられるのか。

 ノエルはまだ、そのすべてに答えを出せていなかった。

 けれど、オーティスと過ごす時間は、少しずつ彼の心を変えていた。

 そんなある日。

 ノエルはバルスとオーティスが稽古をしているところを見ていた。

 稽古の終わり、オーティスは失敗した動きを何度も繰り返し、ようやく納得のいく一振りを見せた。

「……よし!」

 オーティスが笑う。

 バルスは腕を組んだまま、短く言った。

「今の動きを忘れるな」

「はい!」

 それだけだった。

 けれど、オーティスはとても嬉しそうだった。

 バルスがその場を離れた後、オーティスはノエルのところへ駆け寄ってきた。

「見たか? 今の!」

「うん。さっきよりずっとよかった」

「だろ? 父さんにも認めてもらえたかな」

 その言葉を聞いた瞬間、ノエルの胸がちくりと痛んだ。

 認めてもらえる。

 失敗しても、やり直せる。

 努力すれば、見ていてくれる人がいる。

 それはノエルが、ずっと欲しかったものだった。

「……いいよな、オーティスは」

 気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。

「え?」

「何でもない」

「いや、今、何か言っただろ?」

「何でもないって言ってるだろ!」

 思った以上に強い声が出た。

 オーティスが驚いた顔をする。

 ノエルは自分でも、なぜこんなに苛立っているのか分からなかった。

 オーティスは何も悪くない。

 分かっている。

 分かっているのに、目の前の友人がまぶしかった。

 その日、ノエルは一人で家へ帰った。

 そして、夜遅くまで手帳を開けなかった。

     

 翌日、オーティスはいつも通りノエルを誘いに来た。

「ノエル、今日は村の外を探検しようぜ!」

「……今日はいい」

「え?」

「一人で研究したいんだ」

 オーティスは戸惑った。

「昨日、何かあったか?」

「何もないよ」

「でも――」

「何もないって!」

 ノエルは顔を背けた。

 オーティスはしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。

「……分かった。また今度な」

 足音が遠ざかっていく。

 ノエルは、その場から動けなかった。

 本当は、引き止めたかった。

 いつものように一緒に出かけて、くだらない話をして、最後には笑っていたかった。

 けれど、胸の中に渦巻く感情をどう扱えばいいのか分からなかった。

 オーティスが悪いわけではない。

 それでも、オーティスが父親に認められる姿を見るたびに、自分が失ったものを思い出してしまう。

 その事実を、ノエルはまだ友人に伝えられなかった。

 夕方、ヴァルセーヌは一人で座っているノエルを見つけた。

「今日はオーティスと一緒ではないのか?」

「……ちょっと、一人でいたいんだ」

「そうか」

 ヴァルセーヌは隣に座った。

 理由を尋ねることも、無理に話させることもしなかった。

 しばらくしてから、ノエルは小さく口を開いた。

「先生は……自分が欲しかったものを持っている人を見ると、嫌な気持ちになることってある?」

 ヴァルセーヌはすぐには答えなかった。

「あるだろうな」

「……そうなんだ」

「だが、そう思ったからといって、その相手を嫌いにならなければいけないわけでもない」

 ノエルは足元を見た。

「僕は、そんな自分が嫌なんだ」

「自分の気持ちを、無理に好きになる必要はないさ。まずは、なぜそう思うのかを考えてみればいい」

 ヴァルセーヌは穏やかに続けた。

「お前は、まだ自分の心についても学んでいる途中なんだよ」

 ノエルは答えなかった。

 けれど、その言葉を忘れないように、心の中にしまっておいた。


 ノエルが十歳になった年、テルナの村には穏やかな春が訪れていた。

 畑では新しい作物の準備が始まり、村の広場では子供たちが走り回っている。

 ノエルとオーティスも、以前のように一緒に行動することが増えていた。

 あの日以来、二人は何度か言い合いをした。

 けれど、どちらも相手と離れたいわけではなかった。

 まだ、胸の奥にあるものをうまく言葉にできない。

 それでも、二人で過ごす時間をなくしたくないという気持ちは、同じだった。

「ノエル! マティルダのところに行こうぜ!」

 ある日の朝、オーティスが声をかけてきた。

「今日は何を教えてもらうの?」

「古い歴史の本を見せてくれるんだってさ。前に話してたやつ!」

「そうなんだ」

「何か面白いことが書いてあるかもしれないだろ?」

「……うん。行こう」

 二人は並んでマティルダの家へ向かった。

     

 マティルダは、いつもより大きな木箱を机の上に置いていた。

「今日は、少し古い本を見てみようかね」

 箱の中には、何冊もの書物が収められていた。表紙は色あせ、端が擦り切れているものもある。

「ずいぶん古そうだな……」

 オーティスが一冊を手に取った。

「これは、どんな本なんですか?」

「昔の土地や国について書かれたものだよ。今では名前が変わってしまった場所もあるし、もう残っていない町もある」

 マティルダは別の本を取り出した。

「歴史というのは、ただ昔の出来事を覚えるためだけにあるんじゃない。どうして人々がそうしたのか、何を恐れ、何を守ろうとしたのか。そういうことを考えるのも大切なんだよ」

 ノエルは本を受け取った。

 紙は古くなっていたが、文字はまだ読めた。

 そこには、遠い土地で起きた争いや、人々が築いた都市、失われた街道のことが記されていた。

 オーティスも隣でページをめくっていたが、あるところで手を止めた。

「なあ、マティルダ。ここに書いてある国は、今もあるのか?」

「国によるねえ。名前を変えて残っているところもあれば、滅びてしまったところもある」

「国が滅びるって、どういうことなんだ?」

「戦争や災害、食べ物の不足。理由は一つとは限らないよ。国というのも、人が集まって暮らしている場所だからね」

 オーティスは真剣な顔でうなずいた。

 ノエルは別のページを読んでいた。

 そこには、ある地域で起きた大きな病の記録があった。人々が町を離れ、外との行き来を断ち、長い時間をかけて暮らしを立て直したという。

 ノエルは、アンティヴェラのことを思い出した。

 あの街もまた、何かを恐れ、外とのつながりを断っていた。

 だが、その理由は本当に正しかったのだろうか。

 ノエルが考え込んでいると、マティルダが静かに声をかけた。

「気になることがあったかい?」

「……人々が何かを恐れて、間違ったことを信じてしまうことはあるのかな」

 マティルダは、ノエルの顔を見た。

「あるだろうねえ。恐ろしいことが起きたとき、人は理由を知りたくなるものだから」

「理由が分からないときは?」

「自分が納得できる答えを探すんだよ。それが正しいとは限らないけれどね」

 ノエルは本のページに目を落とした。

「じゃあ、正しいかどうかを確かめるには、どうすればいいの?」

「記録を調べる。別の人の話を聞く。実際に起きたことと、誰かがそうだと信じていることを、分けて考えるんだよ」

 マティルダは微笑んだ。

「ノエル。分からないことを、分からないままにしておくのは悪いことじゃない。でも、分からないからといって、誰かの答えをそのまま信じる必要もないんだ」

 ノエルはうなずいた。

 その言葉は、土魔法を学ぶときにも通じるものがあった。

 土の表面だけを見ても、その下で何が起きているかは分からない。

 水が流れない理由を知りたければ、土を調べ、石の位置を確かめ、何度も試さなければならない。

 歴史も、人の心も、きっと同じなのだ。

     

 そのとき、マティルダは木箱の底から、もう一冊の書物を取り出した。

 ほかの本よりも厚く、表紙には見慣れない紋章が描かれていた。

「そういえば……この本にも、昔の国について書かれていたね」

 彼女はページを慎重にめくった。

「今の時代にも名を残している、大きな帝国の記録だよ」

「帝国?」

 オーティスが顔を上げた。

「王国とは違うんですか?」

「呼び方にはいろいろな歴史があるけれど、複数の地域や人々を支配下に置いて、大きな勢力を築いている国を帝国と呼ぶことがあるんだ」

 マティルダは、古いページを開いた。

 そこには、広大な領土と、強大な軍を持つ国について記されていた。

 そして、その国の名があった。

「ドラグノア帝国」

 ノエルは、その名前を声に出さずに読んだ。

 マティルダは続けた。

「この帝国については、古い記録がいくつも残っている。広い領土を持ち、強い軍事力を背景に周辺地域へ影響を及ぼしてきた国だよ。ただし、ここに書かれているのは昔の記録も多い。今の状況を知るには、もっと新しい資料を調べなければいけないね」

「そんなに強い国なのか?」

 オーティスが尋ねた。

「少なくとも、昔から大きな力を持っていたことは確かだね」

 ノエルはページを見つめた。

 そこには、軍隊や領土についての記述が並んでいた。

 けれど、彼が気になったのは、その隅に書き込まれた短い一文だった。

 古い記録を写したものらしく、文字はところどころ薄れている。

 「死者を用いた軍勢について、調査の記録あり」

 ノエルは眉を寄せた。

「マティルダ。これは、どういう意味?」

 マティルダはページをのぞき込んだ。

 そして、ほんの少しだけ表情を変えた。

「……それはね、死者に関する古い魔法の記録だよ」

「死者に関する魔法?」

 オーティスの声から、いつもの明るさが消えた。

「死んだ人間を、魔法で動かすことができるってことですか?」

「記録には、そう解釈できる記述がある。ただ、これだけでは本当に何が行われたのかまでは分からないよ。伝承や誇張が混じっている可能性もあるからね」

 マティルダは書物を閉じなかった。

 その代わり、慎重にページの端を押さえた。

「この記録が書かれた時期も、詳しく調べる必要があるね。ドラグノア帝国が今も同じようなことをしていると、ここから決めつけることはできない」

 ノエルは黙ってうなずいた。

 死者を動かす魔法。

 それは、土を操る自分の魔法とも、物に命を吹き込む魔法とも違うのだろうか。

 そもそも、命とは何なのだろう。

 土を動かすことと、生き物を動かすこと。その間には、どんな違いがあるのだろう。

 ノエルの頭の中で、いくつもの疑問が生まれていた。

「なあ、ノエル」

 隣でオーティスが小さく声をかけた。

「こういう魔法って、本当にあると思うか?」

「……分からない」

 ノエルは正直に答えた。

「でも、記録があるなら、調べてみる価値はあると思う」

「そっか」

 オーティスは古い書物を見つめた。

「もし本当にそんな軍隊があるなら……戦う相手は、生きている人間とは違うのかもしれないな」

 ノエルは友人の言葉を聞き、考え込んだ。

 そのときの二人には、まだ分からなかった。

 古い記録の一文が、いつか自分たちの暮らしを大きく変えることになるなど。

     

 その日の夜。

 テルナから遠く離れた場所で、ヴァルセーヌは一人、机に向かっていた。

 机の上には、各地で集めた記録と、書き留めた日付が並んでいる。

 彼は新しく得た情報を手帳に書き足し、しばらく考え込んだ。

 まだ、すべてがつながったわけではない。

 確かなことと、推測にすぎないこと。その区別を誤れば、見当違いの結論にたどり着いてしまう。

 ヴァルセーヌは手帳を閉じた。

「……もう少し、確かめる必要があるな」

 窓の外では、夜の風が吹いていた。

 彼は灯りを消す前に、机の隅に置かれた一枚の紙を見つめた。

 そこには、ひとつの国の名が記されていた。

 ドラグノア帝国。

 ヴァルセーヌは、その名をしばらく見つめた後、紙を裏返した。

 まだ、ノエルに話すことではない。

 そう考え、彼は静かに部屋を出た。

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