泥だらけの相棒
ノエルがテルナの村で暮らし始めてから、いくつかの季節が過ぎた。
朝はヴァルセーヌと土魔法を学び、昼は村の人々の手伝いをする。夕方になると、ノエルは決まって村の広場へ向かうようになっていた。
そこには、いつも一人の少年がいた。
「ノエル! 遅いぞ!」
木剣を肩に担いだオーティスが、広場の向こうから手を振っている。
「遅くないよ。まだ約束の時間まである」
「俺が先に来てたんだから、遅いんだよ!」
「それはオーティスが早く来すぎなんだ」
「じゃあ、明日はもっと早く来る!」
ノエルは小さく息を吐いた。
最初は、どうしてこの少年が毎日のように自分を誘うのか分からなかった。
ノエルは口数が多いほうではない。話していても、相手の期待するような反応を返せないことがある。土のことを考え始めると周囲の声が耳に入らなくなるし、興味のない話にはうまく相槌も打てなかった。
それでもオーティスは気にしなかった。
「今日は何する?」
「昨日の水路をもう一度調べたい」
「よし、行こう!」
「……剣の稽古じゃないの?」
「それもやる!」
どうやら、オーティスにとっては何でもいいらしい。
ノエルと一緒に何かをする。それだけで十分なのだ。
その日、二人は村外れの小さな水路にいた。
ノエルはしゃがみ込み、土の表面を指でなぞっている。
「ここだけ水の流れが遅いんだ。昨日、少し土を動かしたんだけど、思ったほど変わらなかった」
「ふうん」
「だから、もう少し下を掘って――」
「よし、俺が掘る!」
「待って。そこじゃない」
ノエルが止めるより早く、オーティスは手近な棒を土に突き刺した。
ぼこり、と音がした。
次の瞬間、水が勢いよく噴き出した。
「うわっ!」
「だから、そこじゃないって言ったのに!」
水は二人の足元を濡らし、オーティスの服に泥を跳ね上げた。慌てて水の流れを止めようとしたノエルまで、顔に泥を浴びることになった。
二人はしばらく呆然とした。
先に吹き出したのはオーティスだった。
「ははっ! ノエル、顔がすごいぞ!」
「オーティスだって同じだよ!」
「本当か? どんな顔だ?」
「見せてあげる」
ノエルは足元の水たまりを指さした。
水面に映った自分たちの顔を見て、オーティスはまた笑った。ノエルも、つられるように笑った。
誰かと一緒に失敗して、笑ったのは初めてだった。
アンティヴェラでは、失敗は恥だった。
できないことを知られれば、見下される。間違えれば、期待に応えられない自分を思い知らされる。
けれど、ここでは違った。
失敗した水路は、二人で直せばいい。
泥だらけになった服は、洗えばいい。
オーティスは失敗したノエルを責めなかったし、ノエルも失敗したオーティスを嫌いにはならなかった。
それがノエルには、少し不思議だった。
「なあ、ノエル」
「何?」
「明日もやろうぜ!」
「……水路の実験?」
「それも!」
ノエルは笑った。
「うん。明日もやろう」
剣の稽古でも、二人はよく一緒にいた。
オーティスは木剣を振り、ノエルはその動きを観察した。
「今の、もう一回やって」
「え? いいけど」
オーティスが同じ動きを繰り返す。
「足を出すのと、剣を振るのが少しずれている気がする」
「そうなのか?」
「うん。先に足が動いて、それから剣が来る。たぶん、相手に動きが読まれやすい」
「じゃあ、どうすればいい?」
「それは……僕にも分からない」
「そっか!」
オーティスはあっさりうなずいた。
「じゃあ、二人で考えようぜ!」
ノエルは目を瞬かせた。
「僕、剣はほとんど使えないよ」
「でも、見て気づいたんだろ? だったら、何か分かるかもしれないじゃん!」
オーティスは木剣を構え直した。
ノエルはその足元を見て、動きを一つずつ確かめた。
土を操るときと同じように、よく見て、考える。
何度も試すうちに、オーティスの動きは少しずつ変わっていった。
「おっ、今のいい感じじゃないか?」
「さっきよりは」
「よし! もう十回!」
「今の動きを忘れないうちに、記録したほうがいいと思う」
「ええっ、まだやるのかよ!」
「オーティスが十回って言ったんだよ」
「そうだった!」
二人の声が、夕暮れの広場に響いた。
少し離れた場所では、バルスが腕を組んでその様子を見守っていた。
厳しい父親は、息子の剣の動きだけでなく、隣で真剣に考えているノエルの姿にも目を向けていた。
「……悪くないな」
誰にも聞こえないほどの声で、バルスはつぶやいた。
村での暮らしは、勉強も同じだった。
マティルダの家へ向かうときも、ノエルはオーティスと一緒だった。
「俺、今日は本を読むより外で剣を振りたいんだけどなあ」
「昨日、マティルダが地図を見せてくれるって言ってたよ」
「地図?」
「村の周りだけじゃなくて、もっと遠くの土地も載っているんだって」
「……それ、ちょっと見たいかも」
「じゃあ、行こう」
「おう!」
マティルダは二人を迎えると、机の上に大きな地図を広げた。
「今日は、世界がどんなふうにつながっているのかを見てみようかね」
オーティスは椅子に座り、身を乗り出した。
「こんなに広いのか?」
「ここに描かれているのは、人が知っている土地の一部にすぎないよ」
マティルダは地図の端を指でなぞった。
「山があって、森があって、海がある。その向こうにも、人々が暮らしている場所があるんだ」
「じゃあ、俺たちが知らない場所にも、俺より強い奴がいるかもしれないってことか?」
「ふふ。そうかもしれないねえ」
オーティスの目が輝いた。
「よし、いつか会ってみたいな!」
ノエルは地図を見つめていた。
知らない土地。
知らない人々。
アンティヴェラの外には、こんなにも広い世界があったのだ。
自分が知らなかったことは、恥ずかしいことではない。
知らないのなら、知ればいい。
マティルダにそう教えられてから、ノエルは何かを学ぶことが少しずつ楽しくなっていた。
そして、隣にはいつもオーティスがいた。
勉強に飽きれば、二人で外へ飛び出した。剣の稽古で意見が食い違えば、何度も試して確かめた。畑の手伝いでは、オーティスが力仕事を引き受け、ノエルが土や水の流れを調べた。
時には二人そろって失敗し、マリーに怒られることもあった。
「もう! せっかく植えた苗なんだから、踏まないでよ!」
「ごめん!」
「……僕は踏んでないよ」
「ノエル、そこも踏んでる!」
「……ごめん」
マリーの怒った声を聞きながら、オーティスは笑いをこらえていた。
ノエルはその横顔を見て、少しだけ口元を緩めた。
こういう日々が、いつまでも続けばいい。
その頃のノエルは、まだそう思っていた。
ノエルが九歳になった頃、オーティスの剣の稽古は以前よりも厳しくなっていた。
ある日の夕方、ノエルが広場へ向かうと、オーティスは一人で木剣を振っていた。
一度。
二度。
三度。
十回を超えても、オーティスは剣を振るのをやめなかった。
「オーティス?」
「ああ、ノエル。ちょっと待っててくれ」
オーティスは額の汗を拭い、再び構えた。
そこへバルスがやってきた。
「止まれ」
オーティスの動きが止まる。
「今の十回、最初からやり直しだ」
「えっ、全部?」
「数をこなすことが目的になっている。一本一本の動きを考えろ」
「……はーい」
オーティスはうなだれたが、すぐに木剣を構え直した。
バルスは息子の姿を見つめていた。
「剣を振る相手が、待ってくれると思うか?」
「思わないよ」
「なら、どうする」
「……正しい動きを、考えながら身につける?」
「分かっているなら、やれ」
厳しい言葉だった。
それでも、バルスはオーティスの剣を取り上げなかった。失敗したからといって、稽古をやめさせることもしなかった。
息子が自分で考え、もう一度立ち上がるのを待っていた。
ノエルは、その様子を静かに見ていた。
稽古が終わる頃には、空はすっかり赤く染まっていた。
「疲れた……」
オーティスは地面に座り込んだ。
「お疲れさま」
「ノエルも見てただろ? 父さん、厳しすぎると思わないか?」
「……うん。少し」
「だよなあ!」
オーティスは大げさに肩を落とした。
けれど、すぐに顔を上げた。
「でも、俺、父さんを超えたいんだ」
ノエルは隣に座ったまま、オーティスを見た。
「バルスを?」
「ああ。父さんは強い。村のみんなから頼りにされてるし、何かあったら真っ先に助けに行くんだ」
オーティスは自分の手を見つめた。
「俺も、ああなりたい。でも、父さんと同じくらい強くなるだけじゃ駄目なんだ」
「どうして?」
「いつか、父さんにもできないことが起きるかもしれないだろ? そのとき、俺が父さんを助けられるくらい強くなりたいんだ」
オーティスは顔を上げた。
「父さんが守ってきたものを、今度は俺が守りたい。それで、いつか父さんを超えたいんだ」
ノエルは、すぐには返事ができなかった。
オーティスの言葉が、胸の奥に引っかかっていた。
父親に認めてもらいたい。
父親のようになりたい。
そして、いつか父親を超えたい。
ノエルには、その気持ちが分からなかった。
自分の父親は、自分を見限った。
できないことがあると知っただけで、息子ではないと言った。
もし自分がアンティヴェラで優れた機械魔法を使えていたら、父親はあんなふうに笑いかけてくれただろうか。
そんな考えが頭をよぎり、ノエルは慌てて目を伏せた。
「……ノエル?」
「何でもない」
「そうか?」
「うん」
ノエルは立ち上がった。
「明日も稽古をするんだろう?」
「ああ!」
「だったら、今日の動きを忘れないように、今のうちに記録しておこう」
「ええっ、今から?」
「忘れたら、また最初からになるよ」
「それは嫌だ!」
オーティスは慌てて立ち上がった。
いつもの調子に戻った友人を見て、ノエルは胸の奥に残った感情を押し込めた。
まだ、この気持ちに名前をつけることはできなかった。
同じ頃、ヴァルセーヌは村から遠く離れた町にいた。
古い記録が保管された建物の中で、彼は一冊の帳簿をめくっていた。
何十年も前の記録だった。
町の名前。
発生した異変。
被害のあった場所。
そして、異変が起きた日付。
ヴァルセーヌは一つの記述を見つけると、指を止めた。
「……また、か」
しばらく考えた後、彼は手帳を取り出し、日付と場所を書き留めた。
その記録だけでは、何も断定できない。
偶然かもしれない。
似たような事件が、別々の理由で起きただけかもしれない。
だが、気になる点があった。
ヴァルセーヌは帳簿を閉じた。
まだ調べる必要がある。
そう判断すると、彼は町を後にした。
数日後、ヴァルセーヌが家へ戻ると、ノエルはすぐに気づいた。
「先生、どこへ行っていたの?」
「少し調べものをな」
「何を調べていたの?」
「古い記録だよ」
ヴァルセーヌはそれ以上、説明しなかった。
ノエルは気になったが、追及するのはやめた。
「……そう」
「それより、土魔法の研究はどうなった?」
「水を通しやすい土と、通しにくい土を比べていたんだ。石の量だけじゃなくて、土の粒の大きさも関係しているみたい」
「ほう。続きを聞かせてくれ」
ヴァルセーヌはいつもと変わらない顔で椅子に座った。
ノエルは手帳を開き、研究の結果を説明し始めた。
その日の夕食も、翌朝の稽古も、何も変わらなかった。
ただ、ヴァルセーヌの手帳には、新しい日付が一つ増えていた。
十歳になる少し前、ノエルとオーティスは、以前よりも一緒に過ごす時間が増えていた。
村の外れを探検し、マリーの畑を手伝い、マティルダの家で本を読んだ。
オーティスは相変わらず勉強が苦手だったが、分からないことをそのままにしておくのは嫌いだった。
「なあ、マティルダ。この地図だと、山の向こうにも道があるけど、そこには誰が住んでるんだ?」
「さあねえ。昔は人が行き来していたようだけれど、今は詳しいことが分からない場所も多いんだよ」
「じゃあ、調べれば分かるかもしれないんだな!」
「そうだね」
「ノエル、今度行ってみようぜ!」
「地図だけで道が安全かどうかは分からないよ」
「……それもそうか」
オーティスは少し考えた。
「じゃあ、まずヴァルセーヌ先生に聞いてみよう!」
ノエルは笑った。
「うん。それならいいと思う」
二人のやり取りを見ながら、マティルダも楽しそうに目を細めていた。
「ふふ。二人とも、知りたいことがたくさんあるんだねえ」
ノエルはうなずいた。
知りたいことは、確かに増えていた。
土のこと。
魔法のこと。
世界のこと。
そして、人のこと。
どうして誰かは厳しくても自分を大切にしてくれるのか。どうして誰かは、何もできない相手にも手を差し伸べられるのか。
ノエルはまだ、そのすべてに答えを出せていなかった。
けれど、オーティスと過ごす時間は、少しずつ彼の心を変えていた。
そんなある日。
ノエルはバルスとオーティスが稽古をしているところを見ていた。
稽古の終わり、オーティスは失敗した動きを何度も繰り返し、ようやく納得のいく一振りを見せた。
「……よし!」
オーティスが笑う。
バルスは腕を組んだまま、短く言った。
「今の動きを忘れるな」
「はい!」
それだけだった。
けれど、オーティスはとても嬉しそうだった。
バルスがその場を離れた後、オーティスはノエルのところへ駆け寄ってきた。
「見たか? 今の!」
「うん。さっきよりずっとよかった」
「だろ? 父さんにも認めてもらえたかな」
その言葉を聞いた瞬間、ノエルの胸がちくりと痛んだ。
認めてもらえる。
失敗しても、やり直せる。
努力すれば、見ていてくれる人がいる。
それはノエルが、ずっと欲しかったものだった。
「……いいよな、オーティスは」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
「え?」
「何でもない」
「いや、今、何か言っただろ?」
「何でもないって言ってるだろ!」
思った以上に強い声が出た。
オーティスが驚いた顔をする。
ノエルは自分でも、なぜこんなに苛立っているのか分からなかった。
オーティスは何も悪くない。
分かっている。
分かっているのに、目の前の友人がまぶしかった。
その日、ノエルは一人で家へ帰った。
そして、夜遅くまで手帳を開けなかった。
翌日、オーティスはいつも通りノエルを誘いに来た。
「ノエル、今日は村の外を探検しようぜ!」
「……今日はいい」
「え?」
「一人で研究したいんだ」
オーティスは戸惑った。
「昨日、何かあったか?」
「何もないよ」
「でも――」
「何もないって!」
ノエルは顔を背けた。
オーティスはしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。
「……分かった。また今度な」
足音が遠ざかっていく。
ノエルは、その場から動けなかった。
本当は、引き止めたかった。
いつものように一緒に出かけて、くだらない話をして、最後には笑っていたかった。
けれど、胸の中に渦巻く感情をどう扱えばいいのか分からなかった。
オーティスが悪いわけではない。
それでも、オーティスが父親に認められる姿を見るたびに、自分が失ったものを思い出してしまう。
その事実を、ノエルはまだ友人に伝えられなかった。
夕方、ヴァルセーヌは一人で座っているノエルを見つけた。
「今日はオーティスと一緒ではないのか?」
「……ちょっと、一人でいたいんだ」
「そうか」
ヴァルセーヌは隣に座った。
理由を尋ねることも、無理に話させることもしなかった。
しばらくしてから、ノエルは小さく口を開いた。
「先生は……自分が欲しかったものを持っている人を見ると、嫌な気持ちになることってある?」
ヴァルセーヌはすぐには答えなかった。
「あるだろうな」
「……そうなんだ」
「だが、そう思ったからといって、その相手を嫌いにならなければいけないわけでもない」
ノエルは足元を見た。
「僕は、そんな自分が嫌なんだ」
「自分の気持ちを、無理に好きになる必要はないさ。まずは、なぜそう思うのかを考えてみればいい」
ヴァルセーヌは穏やかに続けた。
「お前は、まだ自分の心についても学んでいる途中なんだよ」
ノエルは答えなかった。
けれど、その言葉を忘れないように、心の中にしまっておいた。
ノエルが十歳になった年、テルナの村には穏やかな春が訪れていた。
畑では新しい作物の準備が始まり、村の広場では子供たちが走り回っている。
ノエルとオーティスも、以前のように一緒に行動することが増えていた。
あの日以来、二人は何度か言い合いをした。
けれど、どちらも相手と離れたいわけではなかった。
まだ、胸の奥にあるものをうまく言葉にできない。
それでも、二人で過ごす時間をなくしたくないという気持ちは、同じだった。
「ノエル! マティルダのところに行こうぜ!」
ある日の朝、オーティスが声をかけてきた。
「今日は何を教えてもらうの?」
「古い歴史の本を見せてくれるんだってさ。前に話してたやつ!」
「そうなんだ」
「何か面白いことが書いてあるかもしれないだろ?」
「……うん。行こう」
二人は並んでマティルダの家へ向かった。
マティルダは、いつもより大きな木箱を机の上に置いていた。
「今日は、少し古い本を見てみようかね」
箱の中には、何冊もの書物が収められていた。表紙は色あせ、端が擦り切れているものもある。
「ずいぶん古そうだな……」
オーティスが一冊を手に取った。
「これは、どんな本なんですか?」
「昔の土地や国について書かれたものだよ。今では名前が変わってしまった場所もあるし、もう残っていない町もある」
マティルダは別の本を取り出した。
「歴史というのは、ただ昔の出来事を覚えるためだけにあるんじゃない。どうして人々がそうしたのか、何を恐れ、何を守ろうとしたのか。そういうことを考えるのも大切なんだよ」
ノエルは本を受け取った。
紙は古くなっていたが、文字はまだ読めた。
そこには、遠い土地で起きた争いや、人々が築いた都市、失われた街道のことが記されていた。
オーティスも隣でページをめくっていたが、あるところで手を止めた。
「なあ、マティルダ。ここに書いてある国は、今もあるのか?」
「国によるねえ。名前を変えて残っているところもあれば、滅びてしまったところもある」
「国が滅びるって、どういうことなんだ?」
「戦争や災害、食べ物の不足。理由は一つとは限らないよ。国というのも、人が集まって暮らしている場所だからね」
オーティスは真剣な顔でうなずいた。
ノエルは別のページを読んでいた。
そこには、ある地域で起きた大きな病の記録があった。人々が町を離れ、外との行き来を断ち、長い時間をかけて暮らしを立て直したという。
ノエルは、アンティヴェラのことを思い出した。
あの街もまた、何かを恐れ、外とのつながりを断っていた。
だが、その理由は本当に正しかったのだろうか。
ノエルが考え込んでいると、マティルダが静かに声をかけた。
「気になることがあったかい?」
「……人々が何かを恐れて、間違ったことを信じてしまうことはあるのかな」
マティルダは、ノエルの顔を見た。
「あるだろうねえ。恐ろしいことが起きたとき、人は理由を知りたくなるものだから」
「理由が分からないときは?」
「自分が納得できる答えを探すんだよ。それが正しいとは限らないけれどね」
ノエルは本のページに目を落とした。
「じゃあ、正しいかどうかを確かめるには、どうすればいいの?」
「記録を調べる。別の人の話を聞く。実際に起きたことと、誰かがそうだと信じていることを、分けて考えるんだよ」
マティルダは微笑んだ。
「ノエル。分からないことを、分からないままにしておくのは悪いことじゃない。でも、分からないからといって、誰かの答えをそのまま信じる必要もないんだ」
ノエルはうなずいた。
その言葉は、土魔法を学ぶときにも通じるものがあった。
土の表面だけを見ても、その下で何が起きているかは分からない。
水が流れない理由を知りたければ、土を調べ、石の位置を確かめ、何度も試さなければならない。
歴史も、人の心も、きっと同じなのだ。
そのとき、マティルダは木箱の底から、もう一冊の書物を取り出した。
ほかの本よりも厚く、表紙には見慣れない紋章が描かれていた。
「そういえば……この本にも、昔の国について書かれていたね」
彼女はページを慎重にめくった。
「今の時代にも名を残している、大きな帝国の記録だよ」
「帝国?」
オーティスが顔を上げた。
「王国とは違うんですか?」
「呼び方にはいろいろな歴史があるけれど、複数の地域や人々を支配下に置いて、大きな勢力を築いている国を帝国と呼ぶことがあるんだ」
マティルダは、古いページを開いた。
そこには、広大な領土と、強大な軍を持つ国について記されていた。
そして、その国の名があった。
「ドラグノア帝国」
ノエルは、その名前を声に出さずに読んだ。
マティルダは続けた。
「この帝国については、古い記録がいくつも残っている。広い領土を持ち、強い軍事力を背景に周辺地域へ影響を及ぼしてきた国だよ。ただし、ここに書かれているのは昔の記録も多い。今の状況を知るには、もっと新しい資料を調べなければいけないね」
「そんなに強い国なのか?」
オーティスが尋ねた。
「少なくとも、昔から大きな力を持っていたことは確かだね」
ノエルはページを見つめた。
そこには、軍隊や領土についての記述が並んでいた。
けれど、彼が気になったのは、その隅に書き込まれた短い一文だった。
古い記録を写したものらしく、文字はところどころ薄れている。
「死者を用いた軍勢について、調査の記録あり」
ノエルは眉を寄せた。
「マティルダ。これは、どういう意味?」
マティルダはページをのぞき込んだ。
そして、ほんの少しだけ表情を変えた。
「……それはね、死者に関する古い魔法の記録だよ」
「死者に関する魔法?」
オーティスの声から、いつもの明るさが消えた。
「死んだ人間を、魔法で動かすことができるってことですか?」
「記録には、そう解釈できる記述がある。ただ、これだけでは本当に何が行われたのかまでは分からないよ。伝承や誇張が混じっている可能性もあるからね」
マティルダは書物を閉じなかった。
その代わり、慎重にページの端を押さえた。
「この記録が書かれた時期も、詳しく調べる必要があるね。ドラグノア帝国が今も同じようなことをしていると、ここから決めつけることはできない」
ノエルは黙ってうなずいた。
死者を動かす魔法。
それは、土を操る自分の魔法とも、物に命を吹き込む魔法とも違うのだろうか。
そもそも、命とは何なのだろう。
土を動かすことと、生き物を動かすこと。その間には、どんな違いがあるのだろう。
ノエルの頭の中で、いくつもの疑問が生まれていた。
「なあ、ノエル」
隣でオーティスが小さく声をかけた。
「こういう魔法って、本当にあると思うか?」
「……分からない」
ノエルは正直に答えた。
「でも、記録があるなら、調べてみる価値はあると思う」
「そっか」
オーティスは古い書物を見つめた。
「もし本当にそんな軍隊があるなら……戦う相手は、生きている人間とは違うのかもしれないな」
ノエルは友人の言葉を聞き、考え込んだ。
そのときの二人には、まだ分からなかった。
古い記録の一文が、いつか自分たちの暮らしを大きく変えることになるなど。
その日の夜。
テルナから遠く離れた場所で、ヴァルセーヌは一人、机に向かっていた。
机の上には、各地で集めた記録と、書き留めた日付が並んでいる。
彼は新しく得た情報を手帳に書き足し、しばらく考え込んだ。
まだ、すべてがつながったわけではない。
確かなことと、推測にすぎないこと。その区別を誤れば、見当違いの結論にたどり着いてしまう。
ヴァルセーヌは手帳を閉じた。
「……もう少し、確かめる必要があるな」
窓の外では、夜の風が吹いていた。
彼は灯りを消す前に、机の隅に置かれた一枚の紙を見つめた。
そこには、ひとつの国の名が記されていた。
ドラグノア帝国。
ヴァルセーヌは、その名をしばらく見つめた後、紙を裏返した。
まだ、ノエルに話すことではない。
そう考え、彼は静かに部屋を出た。




