テルナ村での出会い
ヴァルセーヌと暮らし始めてから、ノエルの毎日は少しずつ変わっていった。
朝、目を覚ますと、まず窓の外を見る。
金属の壁も、無機質な機械の音もない。
そこにあるのは、風に揺れる草木と、遠くから聞こえる鳥の声だった。
「起きたか、ノエル」
食卓に向かうと、ヴァルセーヌが温かいスープを用意していた。
「今日は何をするの?」
「そうだな。今日は土の中で水がどう動くのか、調べてみよう」
ヴァルセーヌは食事を終えると、家の裏手にある小さな空き地へノエルを連れていった。
そこには、土を掘った跡や石を並べた場所がいくつもあった。ノエルが土の魔法を学ぶための、いわば研究場所だった。
「土は、どこも同じだと思うか?」
「……違うと思う。硬いところと、柔らかいところがあるから」
「なら、なぜ違う?」
ノエルはすぐには答えなかった。
しゃがみ込んで土を指先で触り、少し掘り返してみる。表面は乾いているが、その下はわずかに湿っていた。さらに掘ると、小さな石が混じった層が現れる。
「水の量……石の量。それから、土の粒の大きさも関係しているのかな」
「いい着眼点だ。では、確かめてみよう」
ノエルは土の魔法を使い、地面を三つの区画に分けた。それぞれの土の硬さや石の量を変え、同じ量の水を流してみる。
最初の区画では、水が表面にたまった。
二つ目では、ゆっくりと土に染み込んでいく。
三つ目では、水が予想外の方向へ流れ、作った溝の端からこぼれてしまった。
「……失敗した」
ノエルは眉を寄せた。
「そうだな」
「どうして笑わないの?」
ヴァルセーヌは不思議そうに首を傾げた。
「失敗した理由が分かれば、それは研究が進んだということだろう?」
ノエルは水の流れた跡を見つめた。
アンティヴェラでは、できないことは価値がないことと同じだった。失敗すれば、努力する機会さえ与えられなくなる。
けれど、ここでは違う。
失敗しても、次を試せる。
「……もう一度やってみる」
「うむ。その意気だ」
ノエルは土を少しずつ動かし、溝の傾きを調整した。今度は水がゆっくりと流れ、最後まで溝の中を進んでいく。
ノエルの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「できた」
「できたな。だが、これで終わりではないぞ」
「分かってる。土が違えば、同じ形の溝でも水の流れ方が変わる。だから、形だけを覚えても意味がないんだ」
ヴァルセーヌは満足そうに笑った。
「その通りだ。土の理とは、決まった形を覚えることではない。土がどう在り、どう変わるのかを知ることだ」
ノエルは持ってきたノートを開き、今日の実験結果を書き留めた。
土の硬さ。石の量。水の流れ方。
そして、失敗した理由。
彼は何かを知るたびに、その記録を増やしていった。
かつては、魔法が使えないことばかりを考えていた。
今は違う。
知らないことが、まだこんなにもある。
その事実が、ノエルには少しだけ嬉しかった。
午後になると、ノエルはテルナ村へ向かった。
ヴァルセーヌの家から歩いてすぐ着く小さな村だ。ヴァルセーヌからは、研究ばかりしていても人の暮らしは分からないと言われている。
だから、できるだけ村を歩き、人々の仕事を見せてもらうことにしていた。
その日、ノエルが村の広場を通りかかると、木剣のぶつかる音が聞こえてきた。
「もう一回!」
声を上げていたのは、同い年くらいの少年だった。
少年は木剣を振り下ろす。しかし、剣先がぶれてしまう。
「数を振ればいいというものではない。足の位置からやり直せ」
向かいに立つ大柄な男が、厳しい声で言った。
少年は不満そうな顔をしながらも、素直に構え直す。
「……はい、父さん!」
ノエルはしばらく、その様子を見ていた。
少年は何度失敗しても、男から怒鳴られても、再び剣を握る。
やがて少年がノエルに気づいた。
「ん? 見ない顔だな!」
少年は木剣を下ろし、こちらへ駆け寄ってきた。
「俺はオーティス。よろしくな!」
「あ……ノエル」
「ノエルか! この村に住んでるのか?」
「ううん。少し離れたとこ。ヴァルセーヌと一緒に」
「そっか! なあ、剣の練習、見てたんだろ? どうだった?」
突然聞かれ、ノエルは少し困った。
「……剣のことは分からない。でも、さっきより足の位置を直したあとは、剣がぶれにくくなってた」
「えっ、そこを見てたのか?」
オーティスは目を丸くした。
「俺、剣ばっかり見てた……」
「剣を振るなら、足も大事なんじゃないの?」
「そうなのか! 父さん、そうなの?」
大柄な男――バルスは、少し離れた場所から二人を見ていた。
「今の指摘は間違っていない。だが、分かったつもりになるな。自分で確かめろ」
「はい!」
オーティスは元気よく返事をすると、また木剣を構えた。
ノエルはその姿を見ながら、朝の実験を思い出していた。
土も、剣も、表面だけを見ていては分からないことがある。
「なあ、ノエル!」
練習を終えたオーティスが、汗を拭いながら戻ってきた。
「明日も来るか?」
「……分からない」
「だったら、来たら一緒にやろうぜ! 剣が分からなくても、見てくれるだけでいいからさ!」
ノエルは、すぐには答えられなかった。
誰かに、また会いたいと言われたことがなかったからだ。
「……うん。来るよ」
そう答えると、オーティスは満面の笑みを浮かべた。
その笑顔が、なぜだかノエルの胸に残った。
別の日の午後。
ノエルは村の外れにある畑を訪れていた。
朝の研究で、水が土に染み込む速さは土質によって変わると分かった。ならば、実際の畑ではどうなのだろう。
そんな疑問を抱いて歩いていると、畑の中から少女の声がした。
「ちょっと待って! そこ、踏まないで!」
ノエルが足を止めると、土で汚れた手をした少女が駆け寄ってきた。
「ごめん。ここ、通っちゃ駄目だった?」
「ううん、通るだけならいいんだけど、そこは種を植えたばかりなの」
少女は足元を確認し、それからノエルを見上げた。
「あなた、ヴァルセーヌさんのところに来た子?」
「うん。ノエル」
「私はマリー。よろしくね!」
マリーは明るく笑ったあと、畑の一角を指差した。
「ねえ、ちょっと困ってるんだけど、手伝ってくれない?」
そこでは、作物に水を届けるための細い溝が、途中で途切れていた。土が固く、水がうまく流れないらしい。
ノエルはしゃがみ込み、土を指先で確かめた。
「……ここだけ、土が固まってる」
「そうなの。掘っても、すぐ崩れたり固まったりして……」
「少しだけ、魔法を使ってもいい?」
「もちろん!」
ノエルは土の魔法を使い、固まった土を細かくほぐした。溝の底をわずかに傾け、周囲の土が崩れないように形を整える。
マリーが水を流すと、今度は水がゆっくりと溝を進み、作物の根元へと届いた。
「わあ! すごい!」
マリーは目を輝かせた。
「こんなふうにできるんだね!」
「朝、似たようなことを調べてたから。土の硬さや溝の傾きで、水の流れ方が変わるんだ」
「へえ……そんなことまで考えてるんだ」
マリーは感心したように頷いた。
ノエルは少し戸惑った。
アンティヴェラでは、魔法が使えない自分に向けられる言葉は、いつも失望や嘲笑ばかりだった。
誰かに自分の考えを聞いてもらい、それを喜んでもらう。
そんなことは初めてだった。
「でもね」
マリーは畑の奥を指差した。
「水が流れれば、それで全部うまくいくわけじゃないんだよ。水が多すぎると、作物が弱っちゃうこともあるし、少なすぎても駄目なの」
「……土の中に水が残りすぎても、駄目ってこと?」
「そう! だから、どのくらい水をあげるかも大事なの」
ノエルは真剣な顔で頷いた。
魔法で土を変えることはできる。
けれど、作物が何を必要としているのかは、まだ知らない。
「もっと教えてくれる?」
「もちろん! お父さんにも聞いてみるといいよ。畑のことなら、私よりずっと詳しいから!」
その日、ノエルは水路を直したあとも、しばらく畑に残った。
マリーから作物の名前や育て方を教わり、分からないことをノートに書き留めた。
土の理を知ることと、土で生きるものを知ること。
その二つは、似ているようで違うのだと、ノエルは初めて気づいた。
さらに別の日。
ヴァルセーヌに頼まれ、ノエルは村の外れにある小さな家を訪ねた。
庭には木箱が並び、窓辺には乾燥させた草が吊るされている。玄関の脇には、古い本が何冊も積み上げられていた。
扉を叩くと、年老いた女性が顔を出した。
「あら、ヴァルセーヌのところの子だね?」
「ノエルです」
「そうかい。私はマティルダ。さあ、入りなさい」
家の中は本でいっぱいだった。
棚に収まりきらない本が机に積まれ、壁際には古い地図まで貼られている。
「文字は読めるかい?」
ノエルは少し俯いた。
「……あまり」
「そうかい。じゃあ、今日はそこから始めよう」
マティルダは、ノエルの前に一冊の本を置いた。
「知らないことは、恥ずかしいことじゃないよ。知ろうとしないことのほうが、ずっともったいない」
その言葉に、ノエルは顔を上げた。
マティルダは文字を一つずつ教えてくれた。読み方だけではなく、その文字がどんな言葉に使われるのかも。
ノエルが間違えても、彼女は笑わなかった。
「もう一度、読んでごらん」
「……ここは?」
「そう。よくできたね」
夕方までの短い時間だったが、ノエルは何度も本を開き、文字を書いた。
帰り際、マティルダは小さなノートを一冊くれた。
「研究の記録にも使えるだろう?」
「……いいの?」
「もちろん。知りたいことができたら、いつでもおいで。一緒に調べればいいんだから」
ノエルはノートを両手で受け取った。
「ありがとう」
その言葉は、以前よりも少しだけ自然に口から出た。
その夜。
ノエルはヴァルセーヌの家で、今日までの記録を整理していた。
朝には土を調べる。
午後には村を歩き、人と話す。
分かったことを書き留め、分からないことには印をつける。
明日になれば、また新しい疑問が生まれるだろう。
ノートの端には、オーティスの剣の振り方や、マリーの畑で聞いた作物の話、マティルダに教わった文字が並んでいた。
「……忙しくなったな」
背後から覗き込んだヴァルセーヌが、楽しそうに笑った。
「嫌か?」
「ううん」
ノエルは首を横に振った。
「知らないことが、たくさんあるから」
少し考えてから、もう一度口を開く。
「それに……明日も、みんなに会いたい」
言い終えたあと、ノエルは自分の言葉に驚いた。
誰かと会うことを楽しみにする。
明日が来ることを、待ち遠しいと思う。
そんな気持ちを、自分が持てるとは思っていなかった。
ヴァルセーヌは何も言わず、ノエルの頭に手を置いた。
「そうか。それは、いいことだ」
ノエルはノートを閉じた。
かつての自分は、できないことばかりを数えていた。
けれど今は、できるようになったことがある。
知らなかったことを知り、失敗した理由を考え、誰かの役に立つことができる。
そして、自分にまた会いたいと言ってくれる人がいる。
テルナ村で過ごす日々は、少しずつノエルの心に積み重なっていった。
まだ、ここを故郷と呼ぶことはできない。
それでも。
「明日も、頑張ろう」
小さく呟いたその声には、昨日までにはなかった温かさが宿っていた。




