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ノエル・ヴァース  作者: ひむひりか


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4/20

テルナ村での出会い

ヴァルセーヌと暮らし始めてから、ノエルの毎日は少しずつ変わっていった。

朝、目を覚ますと、まず窓の外を見る。

金属の壁も、無機質な機械の音もない。

そこにあるのは、風に揺れる草木と、遠くから聞こえる鳥の声だった。

「起きたか、ノエル」

食卓に向かうと、ヴァルセーヌが温かいスープを用意していた。

「今日は何をするの?」

「そうだな。今日は土の中で水がどう動くのか、調べてみよう」

ヴァルセーヌは食事を終えると、家の裏手にある小さな空き地へノエルを連れていった。

そこには、土を掘った跡や石を並べた場所がいくつもあった。ノエルが土の魔法を学ぶための、いわば研究場所だった。

「土は、どこも同じだと思うか?」

「……違うと思う。硬いところと、柔らかいところがあるから」

「なら、なぜ違う?」

ノエルはすぐには答えなかった。

しゃがみ込んで土を指先で触り、少し掘り返してみる。表面は乾いているが、その下はわずかに湿っていた。さらに掘ると、小さな石が混じった層が現れる。

「水の量……石の量。それから、土の粒の大きさも関係しているのかな」

「いい着眼点だ。では、確かめてみよう」

ノエルは土の魔法を使い、地面を三つの区画に分けた。それぞれの土の硬さや石の量を変え、同じ量の水を流してみる。

最初の区画では、水が表面にたまった。

二つ目では、ゆっくりと土に染み込んでいく。

三つ目では、水が予想外の方向へ流れ、作った溝の端からこぼれてしまった。

「……失敗した」

ノエルは眉を寄せた。

「そうだな」

「どうして笑わないの?」

ヴァルセーヌは不思議そうに首を傾げた。

「失敗した理由が分かれば、それは研究が進んだということだろう?」

ノエルは水の流れた跡を見つめた。

アンティヴェラでは、できないことは価値がないことと同じだった。失敗すれば、努力する機会さえ与えられなくなる。

けれど、ここでは違う。

失敗しても、次を試せる。

「……もう一度やってみる」

「うむ。その意気だ」

ノエルは土を少しずつ動かし、溝の傾きを調整した。今度は水がゆっくりと流れ、最後まで溝の中を進んでいく。

ノエルの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。

「できた」

「できたな。だが、これで終わりではないぞ」

「分かってる。土が違えば、同じ形の溝でも水の流れ方が変わる。だから、形だけを覚えても意味がないんだ」

ヴァルセーヌは満足そうに笑った。

「その通りだ。土の理とは、決まった形を覚えることではない。土がどう在り、どう変わるのかを知ることだ」

ノエルは持ってきたノートを開き、今日の実験結果を書き留めた。

土の硬さ。石の量。水の流れ方。

そして、失敗した理由。

彼は何かを知るたびに、その記録を増やしていった。

かつては、魔法が使えないことばかりを考えていた。

今は違う。

知らないことが、まだこんなにもある。

その事実が、ノエルには少しだけ嬉しかった。


午後になると、ノエルはテルナ村へ向かった。

ヴァルセーヌの家から歩いてすぐ着く小さな村だ。ヴァルセーヌからは、研究ばかりしていても人の暮らしは分からないと言われている。

だから、できるだけ村を歩き、人々の仕事を見せてもらうことにしていた。

その日、ノエルが村の広場を通りかかると、木剣のぶつかる音が聞こえてきた。

「もう一回!」

声を上げていたのは、同い年くらいの少年だった。

少年は木剣を振り下ろす。しかし、剣先がぶれてしまう。

「数を振ればいいというものではない。足の位置からやり直せ」

向かいに立つ大柄な男が、厳しい声で言った。

少年は不満そうな顔をしながらも、素直に構え直す。

「……はい、父さん!」

ノエルはしばらく、その様子を見ていた。

少年は何度失敗しても、男から怒鳴られても、再び剣を握る。

やがて少年がノエルに気づいた。

「ん? 見ない顔だな!」

少年は木剣を下ろし、こちらへ駆け寄ってきた。

「俺はオーティス。よろしくな!」

「あ……ノエル」

「ノエルか! この村に住んでるのか?」

「ううん。少し離れたとこ。ヴァルセーヌと一緒に」

「そっか! なあ、剣の練習、見てたんだろ? どうだった?」

突然聞かれ、ノエルは少し困った。

「……剣のことは分からない。でも、さっきより足の位置を直したあとは、剣がぶれにくくなってた」

「えっ、そこを見てたのか?」

オーティスは目を丸くした。

「俺、剣ばっかり見てた……」

「剣を振るなら、足も大事なんじゃないの?」

「そうなのか! 父さん、そうなの?」

大柄な男――バルスは、少し離れた場所から二人を見ていた。

「今の指摘は間違っていない。だが、分かったつもりになるな。自分で確かめろ」

「はい!」

オーティスは元気よく返事をすると、また木剣を構えた。

ノエルはその姿を見ながら、朝の実験を思い出していた。

土も、剣も、表面だけを見ていては分からないことがある。

「なあ、ノエル!」

練習を終えたオーティスが、汗を拭いながら戻ってきた。

「明日も来るか?」

「……分からない」

「だったら、来たら一緒にやろうぜ! 剣が分からなくても、見てくれるだけでいいからさ!」

ノエルは、すぐには答えられなかった。

誰かに、また会いたいと言われたことがなかったからだ。

「……うん。来るよ」

そう答えると、オーティスは満面の笑みを浮かべた。

その笑顔が、なぜだかノエルの胸に残った。


別の日の午後。

ノエルは村の外れにある畑を訪れていた。

朝の研究で、水が土に染み込む速さは土質によって変わると分かった。ならば、実際の畑ではどうなのだろう。

そんな疑問を抱いて歩いていると、畑の中から少女の声がした。

「ちょっと待って! そこ、踏まないで!」

ノエルが足を止めると、土で汚れた手をした少女が駆け寄ってきた。

「ごめん。ここ、通っちゃ駄目だった?」

「ううん、通るだけならいいんだけど、そこは種を植えたばかりなの」

少女は足元を確認し、それからノエルを見上げた。

「あなた、ヴァルセーヌさんのところに来た子?」

「うん。ノエル」

「私はマリー。よろしくね!」

マリーは明るく笑ったあと、畑の一角を指差した。

「ねえ、ちょっと困ってるんだけど、手伝ってくれない?」

そこでは、作物に水を届けるための細い溝が、途中で途切れていた。土が固く、水がうまく流れないらしい。

ノエルはしゃがみ込み、土を指先で確かめた。

「……ここだけ、土が固まってる」

「そうなの。掘っても、すぐ崩れたり固まったりして……」

「少しだけ、魔法を使ってもいい?」

「もちろん!」

ノエルは土の魔法を使い、固まった土を細かくほぐした。溝の底をわずかに傾け、周囲の土が崩れないように形を整える。

マリーが水を流すと、今度は水がゆっくりと溝を進み、作物の根元へと届いた。

「わあ! すごい!」

マリーは目を輝かせた。

「こんなふうにできるんだね!」

「朝、似たようなことを調べてたから。土の硬さや溝の傾きで、水の流れ方が変わるんだ」

「へえ……そんなことまで考えてるんだ」

マリーは感心したように頷いた。

ノエルは少し戸惑った。

アンティヴェラでは、魔法が使えない自分に向けられる言葉は、いつも失望や嘲笑ばかりだった。

誰かに自分の考えを聞いてもらい、それを喜んでもらう。

そんなことは初めてだった。

「でもね」

マリーは畑の奥を指差した。

「水が流れれば、それで全部うまくいくわけじゃないんだよ。水が多すぎると、作物が弱っちゃうこともあるし、少なすぎても駄目なの」

「……土の中に水が残りすぎても、駄目ってこと?」

「そう! だから、どのくらい水をあげるかも大事なの」

ノエルは真剣な顔で頷いた。

魔法で土を変えることはできる。

けれど、作物が何を必要としているのかは、まだ知らない。

「もっと教えてくれる?」

「もちろん! お父さんにも聞いてみるといいよ。畑のことなら、私よりずっと詳しいから!」

その日、ノエルは水路を直したあとも、しばらく畑に残った。

マリーから作物の名前や育て方を教わり、分からないことをノートに書き留めた。

土の理を知ることと、土で生きるものを知ること。

その二つは、似ているようで違うのだと、ノエルは初めて気づいた。


さらに別の日。

ヴァルセーヌに頼まれ、ノエルは村の外れにある小さな家を訪ねた。

庭には木箱が並び、窓辺には乾燥させた草が吊るされている。玄関の脇には、古い本が何冊も積み上げられていた。

扉を叩くと、年老いた女性が顔を出した。

「あら、ヴァルセーヌのところの子だね?」

「ノエルです」

「そうかい。私はマティルダ。さあ、入りなさい」

家の中は本でいっぱいだった。

棚に収まりきらない本が机に積まれ、壁際には古い地図まで貼られている。

「文字は読めるかい?」

ノエルは少し俯いた。

「……あまり」

「そうかい。じゃあ、今日はそこから始めよう」

マティルダは、ノエルの前に一冊の本を置いた。

「知らないことは、恥ずかしいことじゃないよ。知ろうとしないことのほうが、ずっともったいない」

その言葉に、ノエルは顔を上げた。

マティルダは文字を一つずつ教えてくれた。読み方だけではなく、その文字がどんな言葉に使われるのかも。

ノエルが間違えても、彼女は笑わなかった。

「もう一度、読んでごらん」

「……ここは?」

「そう。よくできたね」

夕方までの短い時間だったが、ノエルは何度も本を開き、文字を書いた。

帰り際、マティルダは小さなノートを一冊くれた。

「研究の記録にも使えるだろう?」

「……いいの?」

「もちろん。知りたいことができたら、いつでもおいで。一緒に調べればいいんだから」

ノエルはノートを両手で受け取った。

「ありがとう」

その言葉は、以前よりも少しだけ自然に口から出た。


その夜。

ノエルはヴァルセーヌの家で、今日までの記録を整理していた。

朝には土を調べる。

午後には村を歩き、人と話す。

分かったことを書き留め、分からないことには印をつける。

明日になれば、また新しい疑問が生まれるだろう。

ノートの端には、オーティスの剣の振り方や、マリーの畑で聞いた作物の話、マティルダに教わった文字が並んでいた。

「……忙しくなったな」

背後から覗き込んだヴァルセーヌが、楽しそうに笑った。

「嫌か?」

「ううん」

ノエルは首を横に振った。

「知らないことが、たくさんあるから」

少し考えてから、もう一度口を開く。

「それに……明日も、みんなに会いたい」

言い終えたあと、ノエルは自分の言葉に驚いた。

誰かと会うことを楽しみにする。

明日が来ることを、待ち遠しいと思う。

そんな気持ちを、自分が持てるとは思っていなかった。

ヴァルセーヌは何も言わず、ノエルの頭に手を置いた。

「そうか。それは、いいことだ」

ノエルはノートを閉じた。

かつての自分は、できないことばかりを数えていた。

けれど今は、できるようになったことがある。

知らなかったことを知り、失敗した理由を考え、誰かの役に立つことができる。

そして、自分にまた会いたいと言ってくれる人がいる。

テルナ村で過ごす日々は、少しずつノエルの心に積み重なっていった。

まだ、ここを故郷と呼ぶことはできない。

それでも。

「明日も、頑張ろう」

小さく呟いたその声には、昨日までにはなかった温かさが宿っていた。

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