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ノエル・ヴァース  作者: ひむひりか


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3/19

ノエルの魔法

ヴァルセーヌと出会ってから数日が経った。

ノエルはいつもと同じ時間に目を覚ました。

金属の壁の向こうから、機械の駆動音が聞こえてくる。

街は今日も動いている。

何事もなかったかのように。

見知らぬ老人と話したことも。

自分の生き方について尋ねられたことも。

この街にいる限り、きっと何も変わらない。

ノエルはそう思いながら、身支度を整えた。

首には、幼い頃から身につけている鉄の鎖。

顔には、無地の鉄仮面。

アンティヴェラで生まれた子供たちは、三歳になる頃から、それらを身につけることになっていた。

機械魔法を学び、制御するためのもの。

街の人々はそう説明していた。

ノエルも、ずっとそれを信じていた。

けれど、今朝はなぜか、鎖の重さがいつも以上に気になった。

「話がある」

朝食の席で、父が言った。

ノエルは手を止めた。

父の声は、いつもと変わらなかった。

怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。

ただ、事務的だった。

「ヴァルセーヌという老人が、お前を引き取りたいと言っているそうだ」

ノエルは目を見開いた。

「……ヴァルセーヌ?」

「何日か前、街でお前に接触した男だ」

父は淡々と続けた。

「お前を連れていきたいらしい」

母が小さく息を吐いた。

「ちょうどいいじゃない。私たちにも、もうこの子をどうすればいいのかわからないもの」

ノエルは、二人の顔を交互に見た。

何かを期待していたわけではない。

それでも、ほんの少しだけ考えてしまった。

行くな、と言ってくれるのではないか。

もう少し頑張れ、と言ってくれるのではないか。

けれど、そんな言葉はどこからも出てこなかった。

ノエルがうつむき、何も言えずにいると屋敷の扉を開ける音が聞こえた。

ノエルが振り返るとそこにはヴァルセーヌが立っていた。

「この子を連れていく、とおっしゃいましたね」

父親はヴァルセーヌを見据え、淡々と口を開いた。

「ええ。ノエルを私に預けていただきたい」

「異論はありません。機械魔法を扱えない失敗作を、これ以上この家に置いておく理由もありませんから」

ノエルは、何も言えず下を見ている。

自分のことを話しているはずなのに、まるで自分などそこにいないかのようだった。

「……理由がない、か」

ヴァルセーヌの声が、わずかに低くなった。

「七年です。七年もの間、私たちはこの子に機械魔法を教えてきました。それでも何ひとつ習得できなかった。これ以上、何を望めというのです」

「教えた、と言うのか」

「何か?」

「この子に鎖をつけ、仮面をかぶせ、ただ機械魔法を使えるようになることだけを求めた。それを教えたと言うのか」

父親の眉が、ほんのわずかに動いた。

「アンティヴェラでは、それが当然です。機械魔法を扱えなければ、この街で生きていくことは難しい」

「だから、扱えない者には価値がないと?」

「そうは言っていません。ただ、才能のない者に、才能のある者と同じものを求めることはできないというだけです」

ヴァルセーヌは、しばらく父親を見つめていた。

やがて、ゆっくりと首を振る。

「……金属に囲まれて、なにもかも忘れてしまったのか」

「何をおっしゃっているのです?」

「この街が、何を大切にしていたのか。人が何のために技術を磨いてきたのか。お前たちは、もう何も覚えていないのか」

「この街が大切にしているものなら、はっきりしています。機械魔法と、それによって築かれた繁栄です」

「繁栄、か」

ヴァルセーヌは窓の向こうへ目を向けた。

そこに見えるのは、金属の壁と、幾重にも張り巡らされた管。そして、絶え間なく動き続ける機械の姿だった。

「鉄の重さで、過去もなにもかも押しつぶすつもりか」

「過去など、今のアンティヴェラには関係ありません」

父親は即座に答えた。

「我々は今を生きています。この街を支えているのは、現実に役立つ技術です。失われたものを懐かしんでも、何も生まれません」

その言葉を聞いた瞬間、ヴァルセーヌの目から、わずかに温かみが消えた。

「……そうか」

静かな声だった。

「お前たちは、本当に忘れてしまったのだな」

「話は終わりですか?」

母親が、退屈そうに口を挟んだ。

「ノエルを連れていくのでしょう。でしたら、早く連れていってください。もう、この子のことで時間を使いたくありません」

ノエルは母親を見た。

何か言ってほしかったわけではない。

ただ、最後くらいは、自分の顔を見てほしかった。

けれど母親は、一度もノエルを見なかった。

「ひとつ、聞かせてくれ」

ヴァルセーヌが言った。

「この子が機械魔法を使えなかったことを、お前たちは失敗だと言ったな」

「事実です」

父親は迷いなく答えた。

「ならば、お前たちはこれから先、この子が何者になるのかを知ることもない」

「知る必要がありませんから」

その返答に、ヴァルセーヌは何も言わなかった。

ただ、ノエルの肩にそっと手を置いた。

「行こう、ノエル」

ノエルはうなずいた。

父親はもう書類に目を落としていた。母親は部屋を出ていこうとしていた。

二人とも、ノエルが去ることを惜しんではいなかった。

「待ってください」

ノエルは、驚き振り返る。

ほんの一瞬、胸の奥に期待が生まれた。

けれど、父親が口にしたのは、別れの言葉ではなかった。

「二度と、コバルティの名を名乗るな」

母親も続けた。

「あなたは、もう私たちの息子ではありません」

ノエルは唇を結んだ。

返事はできなかった。

ヴァルセーヌは、何も言わずにノエルの手を取った。

二人が部屋を出ても、背後から呼び止める声は聞こえなかった。


ヴァルセーヌとともに屋敷を出たノエルは、しばらく何も話さなかった。

何を言えばいいのか、わからなかった。

悲しいのか、悔しいのか、それとも怒っているのか。

胸の中にはいろいろな感情があるはずなのに、どれも形にならず、ただ重たいものだけが残っていた。

「……ガルドのところに行ってもいい……ですか?」

ようやく口にした言葉は、それだった。

ヴァルセーヌはノエルの顔を見た。

「もちろんだ。別れを告げておいで」

ノエルは小さくうなずいた。

工房の扉を開けると、いつもの音が聞こえた。

金属を打つ音。火のはぜる音。工具が触れ合う音。

何度も聞いてきた音だった。

「……来たか」

ガルドは作業台から顔を上げた。

ノエルの後ろにいるヴァルセーヌを見て、それからノエルへ視線を戻す。

「今日、街を出るんだな」

「うん」

「そうか」

それだけだった。

ガルドは手にしていた工具を置いた。

「飯は食ったか」

ノエルは首を横に振った。

「なら、食っていけ」

まるで、いつもの昼食に誘うような言い方だった。

ノエルは少しだけ迷い、それからうなずいた。

「……うん」

ガルドは工房の奥にある小さな食卓へ向かった。

そこには簡素な椅子が二脚と、古びた木の机があった。何度もここで食事をした。ガルドが仕事の手を休め、ノエルが今日覚えたことを話した場所だった。

食事は質素なものだった。

温めたスープと、固めのパン。それに少しばかりの肉。

「熱いぞ」

「うん」

ノエルはスープを口に運んだ。

いつもと変わらない味だった。

けれど今日は、なかなか喉を通らなかった。

「……ガルド」

「なんだ」

「僕がいなくなったら、ここは静かになっちゃうね」

ガルドはパンをちぎる手を止めた。

「もともと、静かな工房だ」

「でも、僕がいつも質問していたから」

「……ああ。そうだったな」

ガルドは再びパンを口に運んだ。

「お前は、ひとつ答えると十個は聞いてきた」

「ごめん」

「謝れとは言っていない」

少しだけ、いつもの調子が戻った。

ノエルも、かすかに笑った。

ガルドはその顔を見て、ほんの一瞬だけ目を細めた。

そして、スープの残りを飲み干した。

「おかわりはあるぞ」

「……食べようかな」

本当は、それほどお腹が空いていたわけではなかった。

それでもノエルは、おかわりをもらった。

もう少しだけ、ここにいたかったからだ。

食事を終えても、ガルドはノエルを帰そうとしなかった。

「そこの工具を片づけろ」

「うん」

「違う。そっちは先に使う。こっちへ置け」

「こっち?」

「そうだ」

ノエルは言われたとおりに工具を並べた。

いつもなら、片づけながら工具の用途を尋ねたり、壊れかけた部品を見つけて質問したりしただろう。


今日は、あまり話さなかった。

ガルドも、無理に話しかけることはしなかった。

二人で工具を整理し、作業台を拭き、部品を種類ごとに分けていく。

ただそれだけの時間だった。

それでもノエルにとっては、何よりも大切な時間だった。

やがて、ガルドは棚の奥から小さな金属部品を取り出した。

「これを覚えているか」

ノエルは受け取った。

以前、自分で修理した機械に使われていた部品だった。

「……覚えてるよ。最初、無理に動かそうとして、余計に壊しちゃったやつだよね」

「ああ」

「ガルドに、まず原因を考えろって言われたよ」

「そうだったな」

ガルドは部品を見つめるノエルを眺めた。

「お前は、壊れたものを見ると、どうして壊れたのか知りたがった」

「気になるんだもん」

「知っている」

短い返事だった。

けれど、その声にはいつもより少しだけ柔らかさがあった。

「その癖は、直さなくていい」

ノエルは顔を上げた。

「……うん」

「わからないことがあったら、考えろ。考えてもわからなければ、別の方法を試せ。力任せに壊すなよ」

「うん」

「それから、わかったつもりになるな。直せたからといって、次も同じように直せるとは限らん」

「……うん」

ノエルは何度もうなずいた。

その言葉を忘れないように、ひとつずつ胸の中へしまい込むように。

午後を過ぎても、ガルドは普段どおりに仕事を続けた。

ノエルもそばにいて、工具を渡したり、部品を磨いたりした。

時折、ガルドが短い指示を出す。

ノエルがそれに応える。

それだけで時間が過ぎていった。

やがて、工房の高い窓から差し込む光が傾き始めた。

夕方が近づいていた。

ヴァルセーヌが入口から声をかけた。

「そろそろ行こう、ノエル」

ノエルの手が止まった。

わかっていた。

いつまでも、ここにいるわけにはいかない。

それでも、すぐには動けなかった。

「……はい」

ノエルは返事をしたものの、足はその場に残ったままだった。

ガルドは作業台の上を片づけ始めた。

「行け」

ぶっきらぼうな声だった。

「……ガルド」

「なんだ」

「僕……」

その先が続かなかった。

ありがとう、と言いたかった。

今まで教えてくれてありがとう。

僕に何度も付き合ってくれてありがとう。

僕を、できないことだけで決めつけないでくれてありがとう。

けれど、言葉にしようとすると、喉の奥が詰まった。

ガルドはノエルを見た。

そして、少しだけ困ったように息を吐いた。

「……まったく。お前は、最後まで手のかかるやつだな」

ノエルはうつむいた。

ガルドは作業台を回り込み、ノエルの前まで歩いてきた。

そして、その頭に大きな手を置いた。

「よく考えろ。よく見ろ。そして、自分で決めろ」

ノエルは、何度もうなずいた。

「……うん」

「お前の人生だ。今度は、自分で選べ」

そう言うと、ガルドはノエルの顔を見つめた。

そして、ふと、その顔を覆う鉄の仮面に目を向けた。

「……少し、じっとしていろ」

「え?」

ガルドはノエルの背後に回った。

仮面を固定している留め具に手をかけ、ひとつずつ外していく。長い間、ノエルの顔を覆っていた鉄の仮面が、かすかな金属音を立てて外れた。

続いて、首元と身体につながれた鎖にも手を伸ばす。

ガルドは慣れた手つきで留め具を外し、ノエルの身体から鎖を取り除いた。

重い鉄が床に落ちた。

乾いた音が、工房に響いた。

ノエルは、しばらく動かなかった。

三歳の頃から、当たり前のように身につけていたもの。

自分がこの街の子供である証であり、機械魔法を使えるようになるためのものでもあった。

けれど、ノエルにとっては、何よりも自分が周囲と違うことを思い知らされるものだった。

それが今、なくなった。

「……ガルド」

「なんだ」

「僕は、もうこれをつけなくてもいいの?」

ガルドは床に落ちた鎖を拾い上げた。

「もう、お前にこれは必要ない」

ノエルは、何も言えなかった。

ガルドは鎖と仮面をまとめ、作業台の隅に置いた。

それから、いつものぶっきらぼうな声で言った。

「行け。いつまでもここにいるんじゃない」

「……うん」

ノエルは一歩、出口へ向かおうとした。

けれど、足が止まった。

振り返ると、ガルドは作業台の上に置かれた仮面を見つめていた。

その横顔が、いつもより少しだけ寂しそうに見えた。

ノエルは何か言おうとした。

しかし、言葉が見つからなかった。

ガルドは顔を上げ、ノエルを見た。

「……ノエル」

「なに?」

「壊れたなら、直せばいい」

ノエルは目を見開いた。

それは、以前、壊れた機械を前にした自分に教えてくれた考え方だった。

けれど、今のガルドが何を伝えようとしているのか、ノエルにはまだわからなかった。

「何もかも、元どおりになるとは限らん。直したところで、前と同じようには動かないこともある」

ガルドは、床に置かれた鉄の鎖を見下ろした。

「それでも、どうすればいいか考えることはできる。諦めるかどうかは、自分で決めろ」

ノエルは、唇を強く結んだ。

「……うん」

今度は、さっきよりもはっきりと答えた。

ガルドは、ほんのわずかに口元を緩めた。

「よし。行ってこい」

ノエルは深く頭を下げた。

「今まで……本当にありがとう……ガルド」

ガルドは返事をしなかった。

ただ、ノエルが扉へ向かう背中を、静かに見送っていた。

ノエルが外へ出る直前、ガルドはもう一度だけ口を開いた。

「……飯を食いに来るくらいなら、いつでも来い」

ノエルは振り返った。

ガルドは、もう作業台へ戻っていた。

「……うん」

ノエルは小さく笑い、工房を後にした。


ガルドの工房を出たノエルは、ヴァルセーヌとともに街の出口へ向かった。

振り返れば、そこには見慣れた金属の建物が立ち並んでいる。

幼い頃からずっと見てきた景色だった。

好きではなかった。

それでも、七年間暮らした場所だった。

両親の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。

――二度と、コバルティの名を名乗るな。

ノエルは、無意識に自分の胸元へ手を当てた。

そこには、もう鎖はなかった。

顔を覆っていた仮面もない。

けれど、身体が軽くなったはずなのに、胸の奥には重たいものが残っていた。

機械魔法のこと、両親のこと、ガルドのこと、様々なことがノエルの頭をよぎる。

そしてノエルはその場に泣き崩れた。

アンティヴェラの金属音が響く中、ノエルの泣き叫ぶ声はヴァルセーヌにしか届かなかった。


「……行こうか、ノエル」

ヴァルセーヌの声に、ノエルは顔を上げた。

「はい」

それだけ答えて、歩き出した。

アンティヴェラの巨大な鉄の扉を前にした時、ヴァルセーヌは言った。

「ノエル、今日は疲れただろ」

「……大丈夫です」

ヴァルセーヌは小さく息を吐き、ノエルを抱き抱えた。

ノエルは驚き、固まった。

「今日はもう休め」

ヴァルセーヌのぬくもりを感じたノエルは、何も言わず何も考えずヴァルセーヌの肩に頭を乗せた。

ヴァルセーヌが扉の前で門兵と話をしている。

ノエルは、いつのまにか眠りに落ちていた。

扉を出てすぐ、ノエルが眠ったことに気づくヴァルセーヌ。

ヴァルセーヌは、その寝顔をしばらく見つめていた。

「……ひどい街だ」

誰に聞かせるでもなく、そうつぶやいた。

「だが、お前はもう、あそこに戻らなくていい」

ヴァルセーヌが片手を掲げると、周囲の空間がかすかに揺らいだ。

複雑な魔法陣が足元に広がり、淡い光が二人を包み込む。

転移魔法。

遠く離れた場所へ、一瞬で移動するための魔法だった。

ヴァルセーヌは眠るノエルをしっかりと抱き直す。

「さあ、帰ろう」

光が強まり、二人の姿が消えた。

その場には、もう誰もいなかった。

ノエルが七年間暮らした街は、何事もなかったかのように、機械の音を響かせ続けていた。


ノエルが目を覚ましたとき、見知らぬ天井が目に入った。

しばらくの間、何も考えられなかった。

身体の下には柔らかな寝具があり、近くには小さな机と椅子が置かれている。窓から差し込む光が、部屋の壁を淡く照らしていた。

「……ここは?」

ゆっくりと身体を起こす。

アンティヴェラではない。

そう気づくまでに、少し時間がかかった。

両親との会話。ヴァルセーヌの怒った声。ガルドの工房。外した鎖と仮面。そして、街を出たときのこと。

記憶が一つずつ戻ってくる。

「そうだ……僕は……」

ノエルは自分の首元に触れた。

鎖はない。

顔に手を当てても、鉄の仮面には触れなかった。

そのときだった。

ふと、何かを感じた。

外からだった。

胸の奥を、かすかに引かれるような感覚。

音ではない。声でもない。

けれど、確かに何かがある。

ノエルは顔を上げた。

「……何だ?」

もう一度、意識を向ける。

すると、その感覚は先ほどよりもはっきりとした。

外に何かがある。

自分が知らない何かが。

それなのに、なぜか懐かしいような、ずっと探していたものに近づいているような気がした。

ノエルはベッドから飛び降りた。

急いで扉を開け、廊下を駆け抜ける。

「おい、ノエル?」

奥の部屋からヴァルセーヌの声がした。

けれど、ノエルには答える余裕がなかった。

扉を開け、外へ飛び出す。

そして――。

ノエルは、初めて土を見た。

足元には、金属ではない地面が広がっていた。

茶色く、柔らかく、ところどころに小さな石が混じっている。

その先には、見慣れない景色が広がっていた。

けれど、ノエルは景色を眺めている場合ではなかった。

胸の奥で感じていたものが、今ははっきりとわかる。

地面の中に、何かがある。

石の位置。土の重なり。固いところと柔らかいところ。深い場所にあるものと、表面に近いもの。

目で見ているわけではないのに、それらが自然と頭の中に浮かんでくる。

ノエルは、ゆっくりとしゃがみ込んだ。

そして、地面に手を伸ばした。

指先が土に触れる。

その瞬間、ノエルの中で何かがつながった。

「……わかる」

自分でも、なぜそう言ったのかわからなかった。

ただ、わかったのだ。

どうすれば動くのか。

どこに力を加えればいいのか。

何をどう組み合わせれば、望んだ形になるのか。

ノエルは地面に手をついたまま、顔を上げた。

「これ……僕が、動かせるのか?」

試してみたい。

確かめたい。

その気持ちが、抑えきれないほど大きくなっていく。

ノエルは立ち上がり、両手を地面へ向けた。

すると、足元の土が震えた。

最初は小さな揺れだった。

やがて地面の一部が盛り上がり、土が石を巻き込みながら上へと伸び始める。

ノエル自身も驚いていた。

止めようとは思わなかった。

どうすればいいのか、考える必要もなかった。

土の中にあるものが、まるで自分の身体の一部であるかのように感じられた。

もっと高く。

もっと厚く。

そう思うだけで、土は応える。

地面が大きくせり上がり、土と石が絡み合いながら形を変えていく。

やがて、ノエルの目の前に巨大な壁がそびえ立った。

人の背丈をはるかに超える、高く、厚い壁。

その表面には大小の石が埋め込まれ、崩れることなく、確かな形を保っていた。

静寂が訪れた。

ノエルは呆然と壁を見上げた。

自分が作った。

自分の手で。

魔法など一度も使えなかった自分が、これほど大きなものを作り出した。

「……僕が?」

背後から、足音が聞こえた。

ヴァルセーヌだった。

彼は巨大な壁を見上げ、次にノエルへ視線を移した。

そして、数秒の沈黙の後――。

「はははっ!」

大きな笑い声を上げた。

ノエルは驚いて振り返った。

「えっ……?」

ヴァルセーヌは笑いながら、壁をもう一度見上げた。

「はははっ! これはすごい。まさか、目覚めていきなりこれほどのものを作るとはな!」

「ぼ、僕にもわからないんです。気づいたら、土が動いて……」

「そうだろうな。今まで使ったことがなかったのだから」

ヴァルセーヌはノエルの肩に手を置いた。

「ノエル。お前は魔法が使えなかったわけではない」

ノエルは息をのんだ。

「ただ、お前の力を知る者が、あの街にはいなかったのだ」

ノエルは、目の前の壁を見つめた。

両親が何度も求めた機械魔法。

どれだけ努力しても動かなかった金属。

自分には何もないのだと思い知らされてきた日々。

けれど今、目の前には、自分の力で生み出した巨大な壁がある。

ヴァルセーヌは壁を見上げたまま、愉快そうに言った。

「はははっ! あの檻の中にいたら、そりゃ自分の才能にも気づけないな」

ノエルは、その言葉を聞いても、まだ何も答えられなかった。

ただ、土に触れた指先を見つめていた。

そこには、もう鉄の鎖も、仮面もない。

自分を縛るものは何もなかった。

そして初めて、ノエルは自分の中に何かがあることを知った。

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