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ノエル・ヴァース  作者: ひむひりか


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2/19

冷たい街の少年

アンティヴェラの街に、朝が訪れる。

けれど、この街の朝は、ほかの場所とは少し違っていた。

空が白み始めるよりも早く、街のあちこちで機械が動き出す。金属の歯車が噛み合う音。蒸気を吐き出す管の音。建物の奥から響く、低く規則的な駆動音。

それらは夜明けの静けさを追い払うように、街全体へと広がっていった。

この街では、機械魔法こそが誇りだった。

金属を動かし、形を変え、機械を操る力。

その力を持つ者は尊敬され、優れた使い手は街の発展に貢献する者として扱われる。

そして、機械魔法の頂点に立つ人物こそ、グランゼルトだった。

誰もが彼の名を知っている。

彼のような魔法使いになること。それは、アンティヴェラで生まれた子供たちにとって、ひとつの大きな夢だった。

――少なくとも、かつてのノエルにとっては。

「おい、ノエル。今日も練習するのか?」

背後から声が飛んできた。

ノエル・コバルティは、小さな金属片を手にしたまま振り返った。

声をかけてきたのは、同じ年頃の子供たちだった。彼らはノエルの手元を見ると、顔を見合わせて笑った。

「もう七歳だろ? まだそんなことをやってるのかよ」

「お前、本当に機械魔法が使えないんだな」

ノエルは答えなかった。

言い返したところで、状況が変わらないことを知っていたからだ。

彼らの手元では、小さな金属片が宙に浮いていた。

指を動かすだけで金属が回転し、形を変え、元の姿へと戻っていく。まだ幼い子供たちでさえ、簡単な機械魔法なら使えるのだ。

ノエルも何度も練習してきた。

金属に意識を集中する。

動け、と願う。

けれど、金属は動かなかった。

まるでノエルの存在など、初めから認識していないかのように。

「なあ、なんで使えないんだ?」

ひとりが尋ねた。

本当に不思議なのか。それとも、からかうために聞いているのか。

ノエルにはわからなかった。

「……わからない」

「わからないって、お前、自分のことだろ?」

「こいつには鉄の理が感じ取れないんだよ」

笑い声が上がった。

ノエルは唇を結び、手の中の金属片を握り直した。

悔しくなかったわけではない。

本当は、誰よりも機械魔法を使えるようになりたかった。

両親が望んでいたから。

周囲の人々が、そうあるべきだと言っていたから。

そして何より、自分だけができないという事実を、どうしても受け入れられなかったからだ。

「もういいだろ。行こうぜ」

子供たちは興味を失ったように歩き出した。

そのうちのひとりが、すれ違いざまにノエルの肩をぶつける。

ノエルの手から金属片が滑り落ち、硬い地面に転がった。

「あっ……!」

拾おうとした瞬間、別の子供の靴がそれを踏みつけた。

小さな音がした。

金属片の端が、わずかに歪んだ。

「悪い悪い。そんな大事なもんだとは思わなかったよ」

そう言いながらも、その顔には反省の色などなかった。

子供たちは笑いながら去っていった。

ノエルはしばらく、その場に立ち尽くしていた。

やがて膝をつき、金属片を拾い上げる。

歪んだ部分を指でなぞった。

元に戻せるだろうか。

自分には魔法が使えない。それでも、何かできることがあるかもしれない。

そう考えながら、ノエルは金属片をそっとポケットにしまった。

「……直さないと」

誰に聞かせるでもなく、呟いた。

それは、ノエルがまだ諦めきれていないことの証だった。

街の一角に、小さな工房があった。

大きな機械工場が立ち並ぶアンティヴェラでは、ひどく目立たない場所だった。

けれど、ノエルはそこへ通うことが多かった。

「また来たのか」

工房の奥から、低い声が聞こえた。

ガルド・クローム。

年老いた金属細工師であり、機械魔法の使い手でもある。

無愛想で、口数も少ない。子供を相手に愛想よく笑うような人間ではなかった。

それでも、ノエルを追い返したことは一度もなかった。

「これ、直せるかな」

ノエルはポケットから金属片を取り出した。

ガルドはそれを受け取ると、片目を細めた。

「踏まれたのか」

「……うん」

「誰に」

「いいんだ。僕がちゃんと持ってなかったから」

ガルドは何も言わなかった。

ただ、歪んだ金属片を指先で確かめ、作業台の上に置いた。

「直せるかどうかは、見てみなきゃわからん」

「そっか……」

ノエルの肩が、わずかに落ちた。

ガルドはその様子を横目で見て、短く息を吐いた。

「だが、直す方法を考えることはできる」

そう言って、彼は道具箱を開いた。

「こっちへ来い。よく見ておけ」

ノエルの顔が少しだけ明るくなった。

ガルドは金属片を固定し、細い工具を手に取った。

「魔法だけですべてができるのは、グランゼルト様ぐらいだ」

作業をしながら、ガルドは言った。

「普通は道具を使う。手を使う。頭を使う。魔法が使えるからといって、何もかも思いどおりになるわけじゃない」

「……魔法が使えなくても?」

ノエルが尋ねた。

ガルドの手が、一瞬だけ止まった。

「使えないなら、使えないなりに考えろ」

それだけ言うと、再び作業に戻った。

慰めの言葉ではなかった。

大丈夫だとも、いつか使えるようになるとも言わなかった。

それでもノエルは、その言葉を何度も頭の中で繰り返した。

使えないなら、使えないなりに考える。

それなら、自分にもできることがあるかしれない。

ガルドの手元を、ノエルはじっと見つめた。

金属を固定する位置。工具を当てる角度。力を入れる方向。

魔法とは違うやり方で、金属が少しずつ元の形を取り戻していく。

その様子を見ていると、不思議と時間を忘れた。

ノエルは、金属や機械の仕組みを知ることが好きだった。

どうして歯車は回るのか。

どうして金属は曲がり、どうすれば元に戻せるのか。

どうして同じ形をしていても、動くものと動かないものがあるのか。

考え始めると、次から次へと疑問が湧いてきた。

機械魔法が使えないことは変わらない。

けれど、知らないことを知る時間だけは、ノエルにとって苦しいものではなかった。

「……できたぞ」

ガルドの声に、ノエルは顔を上げた。

金属片は、完全に元どおりとはいかなかったものの、目立つ歪みが直されていた。

「すごい……!」

思わず声が弾んだ。

ガルドは照れくさそうに鼻を鳴らした。

「大げさだ。まだ歪みが残ってる」

「でも、直ったよ」

ノエルは金属片を両手で受け取った。

その顔には、今日初めて、心からの笑みが浮かんでいた。

ガルドは何も言わなかった。

ただ、その笑顔を見てから、再び作業台に向き直った。

「壊れたものを直すには、まず、どこが壊れたのかを知らなきゃならん」

ノエルは頷いた。

「うん」

「人間も、たぶん同じだ」

その言葉の意味を、ノエルはまだ理解できなかった。

ただ、いつか自分にも何かができるようになるのなら。

そのときは、ガルドのように、誰かの役に立てる人間になりたいと思った夕方。

工房を出たノエルは、家へ向かう道を歩いていた。

街の灯りがひとつ、またひとつと点灯していく。

金属の建物に反射した光が、どこまでも冷たく広がっていた。

ポケットの中には、直してもらった金属片が入っている。

何度も触れて確かめたせいで、端の感触まで覚えてしまった。

家に帰れば、また両親の顔を見ることになる。

機械魔法は使えるようになったのか。

今日こそ何か変化はあったのか。

そんな問いを向けられることは、もうほとんどなくなっていた。

期待されなくなったことは、期待に応えられないことよりも、ずっと苦しかった。

失敗すれば、まだ頑張れと言ってもらえた頃があった。

けれど今では、ノエルが何をしていようと、両親はほとんど関心を示さない。

それでもノエルは、家へ帰らなければならなかった。

この街には、ほかに行く場所などなかったからだ。

そのときだった。

「そこの君」

背後から、聞き慣れない声がした。

ノエルは足を止めた。

振り返ると、ひとりの老人が立っていた。

長い年月を生きてきたことがわかる顔。落ち着いた佇まい。けれど、その目には年齢に似合わない鋭さがあった。

老人はノエルを見つめていた。

まるで、何かを確かめるように。

「さっきの子供たちに、ずいぶんとひどい扱いを受けていたな」

ノエルは視線を落とした。

「……いつものことだから」

「いつものこと、か」

老人は小さく繰り返した。

責めるような口調ではなかった。

だからこそ、ノエルはどう答えればいいのかわからなかった。

老人は少しだけ首を傾げた。

「君は、機械魔法が使えないのか?」

ノエルの指が、ポケットの中で金属片を握った。

「……うん」

「そうか」

老人は、それ以上問い詰めなかった。

かわいそうだとも、努力が足りないとも言わなかった。

ただ、ノエルの顔をじっと見ていた。

その視線が不思議だった。

街の人々がノエルを見るとき、そこにあるのは失望か、嘲笑か、あるいは無関心だった。

けれど、この老人の目には、そのどれも感じられなかった。

「名前を聞いてもいいか?」

「……ノエル。ノエル・コバルティ」

「私はヴァルセーヌだ」

老人は穏やかに名乗った。

ヴァルセーヌ。

ノエルには聞き覚えのない名前だった。

「ノエル。君は、これからどうしたい?」

不意の問いかけに、ノエルは顔を上げた。

どうしたい。

そんなことを尋ねられたのは、初めてだった。

両親は、ノエルがどうなりたいかなど尋ねなかった。

ただ、どうなるべきかを決めていた。

周囲の人々も同じだった。

機械魔法を使えるようになること。それができなければ、価値がないこと。

ノエル自身も、いつしかその考えを疑わなくなっていた。

だから、答えようとした。

けれど、言葉が出てこなかった。

本当は、何をしたいのだろう。

誰かに認められたいのか。

両親に褒めてもらいたいのか。

それとも、ただ――。

ノエルは、答えを見つけられなかった。

「……わからない」

ようやく出てきた声は、自分でも驚くほど小さかった。

ヴァルセーヌは、しばらくノエルを見つめていた。

やがて、穏やかに微笑んだ。

「そうか。なら、少しずつ考えていけばいい」

その言葉を聞いた瞬間、ノエルの胸の奥で、何かが小さく揺れた。

それが希望なのかどうか、まだわからない。

けれど、初めてだった。

答えがわからない自分を、責めない人に出会ったのは。

アンティヴェラの冷たい街で、ノエルの人生は、ほんの少しだけ動き始めていた。


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