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ノエル・ヴァース  作者: ひむひりか


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17/21

静かな怒り

ドラグノア帝国の軍隊がテルナ村へ到着するまで、あとわずかとなっていた。


 村人たちは地下の避難所へ移り、必要な食料や水、毛布なども運び込まれていた。


 ノエルが土魔法で作った地下空間は、村人全員が一時的に過ごせるだけの広さがあった。天井を支える柱も整い、空気を通すための道も確保されている。


 地上では、最後の仕上げが進められていた。


 荒れた畑。


 崩れた道。


 土に汚れた家々。


 ノエルは村の景色を少しずつ変え、人が長い間住んでいないように見せかけていた。


 村人たちが地下へ避難した後も、作業は続いた。


 そして、ついに準備が整った。


「……これで、ひとまず大丈夫だと思う」


 ノエルは、村の入口を見つめながらつぶやいた。


 隣に立つヴァルセーヌが、静かにうなずく。


「よくやった。あとは、敵がどう動くかじゃな」


「うん」


 ノエルは地下へ続く入口を振り返った。


 その奥には、村人たちがいる。


 マリーも、エレンも、マティルダも。


 そして、リーゼも。


 みんなが、自分たちを信じて待っている。


 その事実が、ノエルの胸に重くのしかかっていた。


「ノエル」


 声をかけてきたのは、オーティスだった。


「俺も一緒に行くよ」


 ノエルは友人を見た。


「……分かった。でも、無理はしないで」


「お前こそな」


 オーティスは、いつものように笑おうとした。


 けれど、その表情には緊張がにじんでいた。


 二人は、村の外れへと向かった。


     


 村の外れには、小さな土の山があった。


 ノエルが周囲の地形を調べるために作ったもので、山の上からはテルナ村の入口と、村の大部分を見渡すことができる。


 周囲から見つかりにくいよう、ノエルは土の形を整え、身を隠せる場所も作っていた。


 二人はその陰に身をかがめ、村へ続く道を見つめた。


 しばらくすると、遠くに黒い影が見え始めた。


 最初は、小さな点のようだった。


 それが少しずつ大きくなり、やがて人の姿としてはっきり見えるようになっていく。


 武装した兵士たちだった。


 その数は、少なくとも数十人。


 整然と隊列を組み、村へ向かって進んでくる。


 先頭には、一人の男がいた。


 他の兵士たちとは違う装備を身につけ、馬上から周囲を見渡している。


「……あいつが、指揮官かな」


 オーティスが小声で言った。


「たぶんね」


 ノエルは目を凝らした。


 男の表情は、ここからではよく見えない。


 けれど、その歩みには迷いがなかった。


 彼らは、まっすぐテルナ村へ向かっていた。


「本当に来たんだな……」


 オーティスの声が、わずかに震えた。


「うん」


 ノエルは短く答えた。


 これが、ドラグノア帝国の軍隊。


 リーゼを追い、彼女を連れ戻そうとしている者たち。


 そして今、テルナ村へ足を踏み入れようとしている者たちだった。


 ノエルは拳を握りしめた。


 けれど、まだ動かない。


 自分たちの作戦は、戦うことではない。


 村人たちを守ることだ。


 今は、敵に見つからないことが何よりも重要だった。


     


 一方、地下の避難所では、村人たちが身を寄せ合っていた。


 地上の様子は見えない。


 外から聞こえる音も、土や木材に遮られて、はっきりとは届かなかった。


 それでも、誰もが落ち着かない様子だった。


「……もう来たのかな」


 マリーが小さな声で尋ねた。


 隣にいたエレンは、娘の手を握った。


「きっと、ノエルたちが様子を見てくれているわ」


「うん……」


 マリーはうなずいたものの、不安そうに入口の方を見つめていた。


 少し離れた場所では、リーゼが両手を握りしめていた。


 自分が帝国から逃げなければ、こんなことにはならなかったのかもしれない。


 村人たちが、こんな思いをすることもなかったのかもしれない。


 そう考えるたび、胸が苦しくなった。


「リーゼ」


 マティルダが、そっと声をかけた。


「大丈夫よ」


「……でも、私のせいで」


「今は、ノエルたちを信じよう」


 マティルダは、リーゼの手に自分の手を重ねた。


「リーゼだけが、すべてを背負う必要はない」


 リーゼは唇をかみしめた。


 けれど、うまく言葉が出てこなかった。


 地下にいる村人たちは、誰もが不安を抱えていた。


 外では何が起きているのか。


 ノエルたちは無事なのか。


 この村は、どうなってしまうのか。


 誰にも分からなかった。


 それでも、彼らは待つしかなかった。


     


 地上では、帝国軍がテルナ村の入口へ到着していた。


 先頭の男が馬を止め、荒れ果てた村を見渡す。


 イザールだった。


「……ここが、テルナ村か」


 彼は、目の前の光景を見て眉をひそめた。


 崩れた道。


 荒れた畑。


 土に汚れた建物。


 人の気配は、どこにもなかった。


 イザールは馬から降り、村の中へ足を踏み入れた。


 兵士たちが続く。


 彼らは家々を調べ、広場を確認し、村の奥へと進んでいった。


 しかし、誰も見つからない。


 リーゼも。


 村人も。


 何一つ、手掛かりはなかった。


 土の山の陰から、その様子を見ていたノエルは、息を潜めた。


 オーティスも、隣でじっとしている。


 敵は村の中を歩いている。


 自分たちのすぐ近くに、リーゼを連れ戻そうとしている者たちがいる。


 それでも、ノエルは動かなかった。


 今、ここで何かをすれば、すべてが台無しになる。


 村人たちを守るためには、耐えなければならない。


 どれほど悔しくても。


 どれほど腹が立っても。


 今は、耐えるしかないのだ。


     


 やがて、村の捜索が終わった。


 イザールは広場に立ち、部下たちの報告を聞いていた。


「村の東側、異常ありません」


「西側も同様です」


「南側も確認しましたが、人影はありませんでした」


「リーゼは?」


「発見できておりません」


 イザールの顔から、少しずつ感情が消えていく。


 何も見つからない。


 何も得られない。


 それどころか、村人すら一人もいない。


 彼は、しばらく黙って村を見渡していた。


 そして、冷たい声で命じた。


「この村を焼き尽くせ」


 土の山の陰で、ノエルの目が見開かれた。


「……っ」


 オーティスが息をのむ。


 イザールの命令を受けた兵士たちは、すぐに動き始めた。


 やがて、村のあちこちから煙が上がった。


 乾いた木材が燃え、赤い炎が建物を包み込んでいく。


 家々の壁が黒く染まり、屋根が崩れ落ちた。


 畑にも火が広がり、枯れ草が次々と燃えていく。


 テルナ村が、炎に呑み込まれていった。


「……なんでだよ」


 オーティスが、震える声でつぶやいた。


「誰もいないんだぞ……。もう、誰もいないのに……」


 ノエルは答えられなかった。


 自分たちが村人を避難させたことは、間違いではなかった。


 誰も傷ついていない。


 みんな、地下で無事に過ごしているはずだ。


 それなのに。


 目の前で、自分たちが暮らしてきた村が燃えている。


 マリーが手入れをしていた畑。


 オーティスと何度も走り回った道。


 マティルダの家へ続く小道。


 エレンが笑って迎えてくれた家。


 そのすべてが、炎の中で形を失っていく。


 ノエルの胸に、熱いものが込み上げた。


 怒りだった。


 悔しさだった。


 そして、自分には何もできないという無力感だった。


 けれど、ノエルは動かなかった。


 今ここで飛び出せば、地下にいる村人たちまで危険にさらすことになる。


 だから、耐えた。


 拳を握りしめ、唇をかみしめ、ただ見つめ続けた。


 炎が、村を焼き尽くしていくのを。


     


 どれほどの時間が過ぎただろう。


 やがて、帝国軍は村を離れ始めた。


 イザールは一度だけ燃える村を振り返った。


 そこにリーゼはいない。


 村人もいない。


 彼が求めていたものは、何一つ見つからなかった。


「撤収する。帝国へ戻るぞ」


 その命令とともに、兵士たちは村を後にした。


 隊列が遠ざかっていく。


 やがて、その姿は道の向こうへ消えていった。


 それでも、ノエルとオーティスは、しばらく土の山から動かなかった。


 燃え残った木材が崩れる音が聞こえる。


 煙が空へ昇っていく。


 そこには、もう自分たちが知っているテルナ村の姿はなかった。


「……行ったな」


 オーティスが、ようやく口を開いた。


「うん」


 ノエルは、短く答えた。


 二人は、ゆっくりと土の山を下りた。


 村へ近づくにつれ、熱と煙が肌にまとわりつく。


 焼け焦げた木材が、道の上に散らばっていた。


 ノエルは、立ち止まった。


 目の前には、かつて自分が暮らしていた村があった。


 初めて土の音を聞いた場所ではない。


 けれど、ここで多くのことを学んだ。


 失敗しても、やり直していいこと。


 知らないことを、恥じなくていいこと。


 誰かと一緒に生きていくこと。


 そして、大切な人たちを守りたいと思うこと。


 その場所が、今、焼け跡になっている。


 ノエルは、ゆっくりと拳を握った。


 ガルドの声が、胸の奥によみがえる。


『壊れたなら、直せばいい』


 ノエルは目を閉じた。


 壊れてしまったものを、すべて元通りにできるとは限らない。


 失われたものは、戻らないかもしれない。


 それでも、ここで終わらせるわけにはいかなかった。


 村人たちは生きている。


 守るべき人たちは、まだここにいる。


 ならば、自分にできることがあるはずだ。


 ノエルは、ゆっくりと目を開けた。


「……次は」


 声は小さかった。


 けれど、そこには確かな意志があった。


「次は、ドラグノアを迎え撃つ」


 オーティスが、ノエルを見つめた。


 ノエルは燃え尽きた村から目をそらさなかった。


 ただ怒りに任せて戦うつもりはない。


 命の重さを忘れるつもりもない。


 けれど、もう逃げるだけでは守れないものがある。


 大切な人たちの命を守るために。


 自分たちの居場所を取り戻すために。


 今度は、自分から立ち向かう。


 燃え残ったテルナ村を前に、ノエルは静かに決意した。


 ドラグノア帝国を迎え撃つ。


 そのための戦いが、ここから始まろうとしていた。

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