静かな怒り
ドラグノア帝国の軍隊がテルナ村へ到着するまで、あとわずかとなっていた。
村人たちは地下の避難所へ移り、必要な食料や水、毛布なども運び込まれていた。
ノエルが土魔法で作った地下空間は、村人全員が一時的に過ごせるだけの広さがあった。天井を支える柱も整い、空気を通すための道も確保されている。
地上では、最後の仕上げが進められていた。
荒れた畑。
崩れた道。
土に汚れた家々。
ノエルは村の景色を少しずつ変え、人が長い間住んでいないように見せかけていた。
村人たちが地下へ避難した後も、作業は続いた。
そして、ついに準備が整った。
「……これで、ひとまず大丈夫だと思う」
ノエルは、村の入口を見つめながらつぶやいた。
隣に立つヴァルセーヌが、静かにうなずく。
「よくやった。あとは、敵がどう動くかじゃな」
「うん」
ノエルは地下へ続く入口を振り返った。
その奥には、村人たちがいる。
マリーも、エレンも、マティルダも。
そして、リーゼも。
みんなが、自分たちを信じて待っている。
その事実が、ノエルの胸に重くのしかかっていた。
「ノエル」
声をかけてきたのは、オーティスだった。
「俺も一緒に行くよ」
ノエルは友人を見た。
「……分かった。でも、無理はしないで」
「お前こそな」
オーティスは、いつものように笑おうとした。
けれど、その表情には緊張がにじんでいた。
二人は、村の外れへと向かった。
村の外れには、小さな土の山があった。
ノエルが周囲の地形を調べるために作ったもので、山の上からはテルナ村の入口と、村の大部分を見渡すことができる。
周囲から見つかりにくいよう、ノエルは土の形を整え、身を隠せる場所も作っていた。
二人はその陰に身をかがめ、村へ続く道を見つめた。
しばらくすると、遠くに黒い影が見え始めた。
最初は、小さな点のようだった。
それが少しずつ大きくなり、やがて人の姿としてはっきり見えるようになっていく。
武装した兵士たちだった。
その数は、少なくとも数十人。
整然と隊列を組み、村へ向かって進んでくる。
先頭には、一人の男がいた。
他の兵士たちとは違う装備を身につけ、馬上から周囲を見渡している。
「……あいつが、指揮官かな」
オーティスが小声で言った。
「たぶんね」
ノエルは目を凝らした。
男の表情は、ここからではよく見えない。
けれど、その歩みには迷いがなかった。
彼らは、まっすぐテルナ村へ向かっていた。
「本当に来たんだな……」
オーティスの声が、わずかに震えた。
「うん」
ノエルは短く答えた。
これが、ドラグノア帝国の軍隊。
リーゼを追い、彼女を連れ戻そうとしている者たち。
そして今、テルナ村へ足を踏み入れようとしている者たちだった。
ノエルは拳を握りしめた。
けれど、まだ動かない。
自分たちの作戦は、戦うことではない。
村人たちを守ることだ。
今は、敵に見つからないことが何よりも重要だった。
一方、地下の避難所では、村人たちが身を寄せ合っていた。
地上の様子は見えない。
外から聞こえる音も、土や木材に遮られて、はっきりとは届かなかった。
それでも、誰もが落ち着かない様子だった。
「……もう来たのかな」
マリーが小さな声で尋ねた。
隣にいたエレンは、娘の手を握った。
「きっと、ノエルたちが様子を見てくれているわ」
「うん……」
マリーはうなずいたものの、不安そうに入口の方を見つめていた。
少し離れた場所では、リーゼが両手を握りしめていた。
自分が帝国から逃げなければ、こんなことにはならなかったのかもしれない。
村人たちが、こんな思いをすることもなかったのかもしれない。
そう考えるたび、胸が苦しくなった。
「リーゼ」
マティルダが、そっと声をかけた。
「大丈夫よ」
「……でも、私のせいで」
「今は、ノエルたちを信じよう」
マティルダは、リーゼの手に自分の手を重ねた。
「リーゼだけが、すべてを背負う必要はない」
リーゼは唇をかみしめた。
けれど、うまく言葉が出てこなかった。
地下にいる村人たちは、誰もが不安を抱えていた。
外では何が起きているのか。
ノエルたちは無事なのか。
この村は、どうなってしまうのか。
誰にも分からなかった。
それでも、彼らは待つしかなかった。
地上では、帝国軍がテルナ村の入口へ到着していた。
先頭の男が馬を止め、荒れ果てた村を見渡す。
イザールだった。
「……ここが、テルナ村か」
彼は、目の前の光景を見て眉をひそめた。
崩れた道。
荒れた畑。
土に汚れた建物。
人の気配は、どこにもなかった。
イザールは馬から降り、村の中へ足を踏み入れた。
兵士たちが続く。
彼らは家々を調べ、広場を確認し、村の奥へと進んでいった。
しかし、誰も見つからない。
リーゼも。
村人も。
何一つ、手掛かりはなかった。
土の山の陰から、その様子を見ていたノエルは、息を潜めた。
オーティスも、隣でじっとしている。
敵は村の中を歩いている。
自分たちのすぐ近くに、リーゼを連れ戻そうとしている者たちがいる。
それでも、ノエルは動かなかった。
今、ここで何かをすれば、すべてが台無しになる。
村人たちを守るためには、耐えなければならない。
どれほど悔しくても。
どれほど腹が立っても。
今は、耐えるしかないのだ。
やがて、村の捜索が終わった。
イザールは広場に立ち、部下たちの報告を聞いていた。
「村の東側、異常ありません」
「西側も同様です」
「南側も確認しましたが、人影はありませんでした」
「リーゼは?」
「発見できておりません」
イザールの顔から、少しずつ感情が消えていく。
何も見つからない。
何も得られない。
それどころか、村人すら一人もいない。
彼は、しばらく黙って村を見渡していた。
そして、冷たい声で命じた。
「この村を焼き尽くせ」
土の山の陰で、ノエルの目が見開かれた。
「……っ」
オーティスが息をのむ。
イザールの命令を受けた兵士たちは、すぐに動き始めた。
やがて、村のあちこちから煙が上がった。
乾いた木材が燃え、赤い炎が建物を包み込んでいく。
家々の壁が黒く染まり、屋根が崩れ落ちた。
畑にも火が広がり、枯れ草が次々と燃えていく。
テルナ村が、炎に呑み込まれていった。
「……なんでだよ」
オーティスが、震える声でつぶやいた。
「誰もいないんだぞ……。もう、誰もいないのに……」
ノエルは答えられなかった。
自分たちが村人を避難させたことは、間違いではなかった。
誰も傷ついていない。
みんな、地下で無事に過ごしているはずだ。
それなのに。
目の前で、自分たちが暮らしてきた村が燃えている。
マリーが手入れをしていた畑。
オーティスと何度も走り回った道。
マティルダの家へ続く小道。
エレンが笑って迎えてくれた家。
そのすべてが、炎の中で形を失っていく。
ノエルの胸に、熱いものが込み上げた。
怒りだった。
悔しさだった。
そして、自分には何もできないという無力感だった。
けれど、ノエルは動かなかった。
今ここで飛び出せば、地下にいる村人たちまで危険にさらすことになる。
だから、耐えた。
拳を握りしめ、唇をかみしめ、ただ見つめ続けた。
炎が、村を焼き尽くしていくのを。
どれほどの時間が過ぎただろう。
やがて、帝国軍は村を離れ始めた。
イザールは一度だけ燃える村を振り返った。
そこにリーゼはいない。
村人もいない。
彼が求めていたものは、何一つ見つからなかった。
「撤収する。帝国へ戻るぞ」
その命令とともに、兵士たちは村を後にした。
隊列が遠ざかっていく。
やがて、その姿は道の向こうへ消えていった。
それでも、ノエルとオーティスは、しばらく土の山から動かなかった。
燃え残った木材が崩れる音が聞こえる。
煙が空へ昇っていく。
そこには、もう自分たちが知っているテルナ村の姿はなかった。
「……行ったな」
オーティスが、ようやく口を開いた。
「うん」
ノエルは、短く答えた。
二人は、ゆっくりと土の山を下りた。
村へ近づくにつれ、熱と煙が肌にまとわりつく。
焼け焦げた木材が、道の上に散らばっていた。
ノエルは、立ち止まった。
目の前には、かつて自分が暮らしていた村があった。
初めて土の音を聞いた場所ではない。
けれど、ここで多くのことを学んだ。
失敗しても、やり直していいこと。
知らないことを、恥じなくていいこと。
誰かと一緒に生きていくこと。
そして、大切な人たちを守りたいと思うこと。
その場所が、今、焼け跡になっている。
ノエルは、ゆっくりと拳を握った。
ガルドの声が、胸の奥によみがえる。
『壊れたなら、直せばいい』
ノエルは目を閉じた。
壊れてしまったものを、すべて元通りにできるとは限らない。
失われたものは、戻らないかもしれない。
それでも、ここで終わらせるわけにはいかなかった。
村人たちは生きている。
守るべき人たちは、まだここにいる。
ならば、自分にできることがあるはずだ。
ノエルは、ゆっくりと目を開けた。
「……次は」
声は小さかった。
けれど、そこには確かな意志があった。
「次は、ドラグノアを迎え撃つ」
オーティスが、ノエルを見つめた。
ノエルは燃え尽きた村から目をそらさなかった。
ただ怒りに任せて戦うつもりはない。
命の重さを忘れるつもりもない。
けれど、もう逃げるだけでは守れないものがある。
大切な人たちの命を守るために。
自分たちの居場所を取り戻すために。
今度は、自分から立ち向かう。
燃え残ったテルナ村を前に、ノエルは静かに決意した。
ドラグノア帝国を迎え撃つ。
そのための戦いが、ここから始まろうとしていた。




