覚悟
テルナ村の地下では、朝から作業が続いていた。
ノエルが土魔法で地面を掘り進め、ヴァルセーヌが土の状態を確かめる。掘り出された土は村人たちが運び、避難場所に必要な道具や資材も少しずつ集められていた。
地下に作る空間は、村人全員が一時的に過ごせるほどの広さが必要だった。
ただ穴を掘るだけでは、土が崩れる危険がある。
ノエルは壁の厚さを確かめ、天井を支える柱を作り、空気が通る道を確保していった。
「ノエル、ここの壁は大丈夫なのか?」
土を運んでいたオーティスが、天井を見上げながら尋ねた。
「今のところはね。でも、もっと広げるなら支えを増やした方がいいと思う」
「そっか。じゃあ、俺はそっちの資材を運んでくるよ」
「ありがとう、オーティス」
オーティスは笑って駆け出した。
ノエルは再び土に手を触れた。
土の硬さ、湿り気、重さ。
その一つひとつを確かめながら、崩れない構造を考えていく。
いつもなら、こうして何かを作ることに集中していれば、時間を忘れることができた。
けれど、今日は違った。
手を動かしている間も、頭の片隅から離れないことがあった。
ドラグノア帝国。
リーゼを連れ戻すために、こちらへ向かっている軍隊。
その軍隊が村へ到着したとき、自分たちはどうなるのだろう。
地下へ避難すれば、村人たちは守れるかもしれない。
しかし、もし敵が村人たちを見つけたら。
もし、避難場所にまで攻め込んできたら。
そのとき、自分は何をすればいいのだろう。
土魔法で敵を止めることはできる。
壁を作り、道を塞ぎ、地面を動かすこともできる。
けれど、その力で人を傷つけることだってできてしまう。
ノエルは、土に触れていた手を止めた。
そのとき、少し離れた場所から声が聞こえた。
「父さん」
オーティスだった。
彼は資材を運ぶ手を止め、バルスの前に立っていた。
「ちょっと、聞きたいことがあるんだけど」
「なんだ?」
「……戦いで、人を殺したことはある?」
バルスの手が止まった。
周囲では、村人たちが作業を続けている。
だが、二人の間には、短い沈黙が流れた。
バルスはすぐには答えなかった。
やがて、手にしていた木材を地面に置き、息子の顔を見つめた。
「どうして、そんなことを聞く?」
「……帝国軍が来るから」
オーティスは視線を落とした。
「今までは、剣を強く振れるようになりたいと思ってた。父さんみたいに、誰かを守れる戦士になりたいって」
彼は、自分の手を見つめた。
「でも、もし本当に戦うことになったら……。俺は、敵を斬れるのかなって思ったんだ」
バルスは黙って息子の言葉を聞いていた。
「相手だって、人間なんだよな。俺たちと同じように生きてきた人なんだよな」
「ああ」
「その人を、俺が殺すかもしれないんだ」
オーティスの声が、わずかに震えた。
「俺は……それが怖い」
バルスは、息子の肩に手を置いた。
「怖いと思うのは、悪いことじゃない」
「でも、怖がっていたら戦えないだろ?」
「そうかもしれん。だが、怖さを感じなくなることが、強さだとは思わない」
バルスは、少しだけ視線を遠くへ向けた。
「剣を振るう相手にも、お前と同じように人生がある。家族がいるかもしれん。帰りを待っている人がいるかもしれん。そいつがどんな人生を送ってきたのか、俺たちには分からない」
オーティスは黙って聞いていた。
「敵だからといって、そいつの命が軽くなるわけじゃない。だがな、だからといって、お前や仲間の命を差し出せばいいという話でもない」
「……じゃあ、どうすればいいんだよ」
オーティスは顔を上げた。
「相手の命を大切に考えたら、剣を振れなくなるかもしれない。でも、剣を振らなかったせいで、守りたい人が傷つくかもしれない。俺は、どうすればいいんだ?」
バルスは、すぐには答えなかった。
答えが簡単に出るような問いではないからだ。
「俺にも、いつでも正しい判断ができるとは言えん」
「父さんでも?」
「ああ。戦いの中では、すべてを考える時間があるとは限らない。判断を誤れば、自分だけでなく、仲間の命まで危険にさらすことがある」
バルスは、オーティスの肩に置いた手に少し力を込めた。
「だからこそ、戦う前に考えておくんだ。何を守りたいのか。どこまでなら戦うのか。そして、本当に戦わずに済む方法はないのか」
「戦わずに済む方法……」
「剣を振るうことだけが、戦士の仕事じゃない。戦わずに誰かを守れるなら、それも立派な働きだ」
オーティスは、ゆっくりとうなずいた。
まだ、答えが見つかったわけではない。
それでも、父親の言葉は胸に残った。
少し離れた場所では、ノエルが作業の手を止めていた。
オーティスとバルスの会話が、耳に入っていたのだ。
人を殺す。
その言葉が、頭の中で繰り返される。
自分は、誰かの命を奪うことになるのだろうか。
そう考えたとき、胸の奥に冷たいものが広がった。
「ノエル?」
声をかけてきたのは、マティルダだった。
彼女は木箱を抱え、避難場所に運び込む道具を整理していた。
「少し休みなさい。ずっと作業を続けているだろ」
「……うん。ありがとう」
ノエルは手を止め、マティルダのそばに腰を下ろした。
しばらく、二人は地下の壁を眺めていた。
やがて、ノエルが口を開いた。
「マティルダさん。歴史の中では、たくさんの戦争があったんだよね」
「ああ。数えきれないほどね」
「その中で、人を殺した人たちは……何を考えていたんだろう」
マティルダは、ノエルの顔を見た。
「どうして、そう思ったんだい?」
「僕たちも、これから戦うことになるかもしれないから」
ノエルは、自分の手を見つめた。
「僕の土魔法は、いろんなことができる。壁を作ったり、地面を動かしたり。でも、使い方を間違えれば、人を傷つけることだってできるんだ」
指先を、ぎゅっと握る。
「もし、僕の魔法で誰かが死んだら……。僕は、それをどう受け止めればいいんだろう」
マティルダは、しばらく考えていた。
「歴史の本には、戦争で勝った人の名前や、どんな戦いがあったのかが記されている」
「うん」
「けれど、そこには書かれていないことも多いのだよ」
彼女は、木箱の上にそっと手を置いた。
「亡くなった人が、どんな人だったのか。何が好きだったのか。誰と笑い合っていたのか。どんな未来を望んでいたのか」
ノエルは、顔を上げた。
「歴史には、英雄と呼ばれる人がいる。大勢の人を救った人もいるだろう。けれど、その人が英雄として名を残したからといって、失われた命の重さが消えるわけでもない」
「……そうだね」
「人の命は、戦争の勝敗だけで測れるものではないのだよ」
マティルダの声は穏やかだった。
「けれど、命が大切だからといって、何もせずに誰かが傷つくのを見ていればいい、ということでもない」
ノエルは黙って聞いていた。
「ノエルが今、村の人たちを守ろうと考えていること。それは、とても大切なことね」
「でも、もし守るために、誰かを傷つけなきゃいけなくなったら?」
「そのときに何が正しいのか、私が決めてあげることはできない」
マティルダは、まっすぐにノエルを見つめた。
「ただ、絶対に忘れちゃいけない。相手の命を奪うことを、簡単なことだと思わないことね。そして、自分が守ろうとしている人たちの命も、決して軽く扱わないこと」
ノエルは、ゆっくりとうなずいた。
簡単な答えはなかった。
それでも、マティルダの言葉は、自分が何を考えなければならないのかを教えてくれた気がした。
自分の力を、何のために使うのか。
どんな結果を招く可能性があるのか。
そのことから目をそらしてはいけないのだ。
午後になると、地下避難所の形が少しずつ整ってきた。
壁を支える柱が並び、村人たちが一時的に過ごせる空間が広がっていく。
ノエルは土の状態を確かめながら、ヴァルセーヌと支柱の位置を相談していた。
作業がひと段落したところで、ノエルとオーティスは地上へ戻った。
二人は村の外れにある木の切り株に腰を下ろした。
しばらく、何も話さなかった。
やがて、オーティスが口を開いた。
「なあ、ノエル」
「うん?」
「もし、本当に戦うことになったら……お前はどうする?」
ノエルは、すぐには答えなかった。
「……まだ、分からない」
「そっか」
「でも、僕はみんなを守りたい」
ノエルは、村の方を見つめた。
「リーゼも、マリーも、オーティスも。ここで暮らしているみんなを守りたいんだ」
「うん」
「そのために何をすることになるのか、ちゃんと考えたい。自分の魔法で何ができるのかだけじゃなくて、何をしてしまうかもしれないのかも」
オーティスは、ノエルの横顔を見た。
「……俺も、父さんに聞いたんだ。敵を殺すことが怖いって」
「オーティスが?」
「なんだよ。俺だって怖いものくらいあるさ」
オーティスは苦笑した。
「父さんは、怖いと思うのは悪いことじゃないって言ってくれた。怖さを感じなくなることが、強さじゃないって」
「……そうなんだ」
「だから、俺も考えようと思う。どうすれば、みんなを守れるのか。どうすれば、戦わずに済むのか」
オーティスは、両手を握りしめた。
「でも、もし戦うしかないなら……そのときは、逃げずに向き合いたい」
ノエルは、友人の言葉を聞きながら、自分の中にある不安を確かめるように考えた。
覚悟を決めれば、怖くなくなるのだろうか。
きっと、そんなことはない。
怖さが消えないまま、判断しなければならないときもある。
それでも、自分が何を守りたいのかを忘れなければ、選ぶべき道を探せるかもしれない。
「オーティス」
「ん?」
「一緒に考えてくれる?」
オーティスは、少し驚いたあと、いつもの笑顔を見せた。
「当たり前だろ。俺たち、親友なんだから」
ノエルも、ほんの少し笑った。
夕方。
地下避難所の入口では、ヴァルセーヌが作業の進み具合を確かめていた。
ノエルとオーティスは、彼のそばへ歩いていった。
「ヴァルセーヌ、少し聞きたいことがあるんだ」
「なんじゃ?」
ノエルは、ためらいながら口を開いた。
「人を殺す覚悟って、必要なのかな」
ヴァルセーヌは、二人を見つめた。
しばらくして、静かに息を吐く。
「覚悟という言葉は、便利なものじゃ」
「便利?」
「ああ。まるで、覚悟さえ決めてしまえば、何もかも耐えられるように聞こえるからな」
二人は黙って聞いていた。
「じゃが、人はそんなに簡単にはできておらん。覚悟を決めたつもりでも、いざというときに恐ろしくなることもある。自分がしたことを後悔することもあるじゃろう」
ヴァルセーヌは、村の方へ目を向けた。
「それを、弱いとは言わん。人の命を奪うことに何も感じなくなることが、必ずしも強さだとは思わんからな」
「じゃが覚悟を決める、決めさせるということは大切なことじゃ。その覚悟という言葉で人は向き合い、考える」
「……じゃあ、僕たちはどうすればいいのかな?」
ノエルが尋ねた。
「まず、自分が何を守ろうとしているのかを忘れぬことじゃ」
ヴァルセーヌは、ゆっくりと言葉を続けた。
「そして、自分が何をしてしまうかもしれないのかも、忘れてはならん。力を持つ者ほど、自分の力がもたらす結果について考える必要がある」
ノエルは、自分の手を見つめた。
土を動かす力。
壁を作る力。
地面を変える力。
そのどれもが、人を守るために使える。
けれど、使い方を誤れば、人を傷つけることもできる。
「戦うことを恐れるな、と言うつもりはない。じゃが、恐ろしいからといって、何も考えずに目を背けるのも違う」
ヴァルセーヌは二人を見た。
「お前たちは、まだ戦争を知らん。だからこそ、今のうちに考えておくのじゃ。何を守りたいのか。どこまで戦うのか。そして、戦わずに済む道があるのなら、それを探すことを忘れぬようにな」
ノエルとオーティスは、静かにうなずいた。
「わしが答えを与えることはできん。最後に選ぶのは、お前たち自身じゃからな」
ヴァルセーヌは、二人の肩を軽くたたいた。
「じゃが、一つだけ覚えておくといい。命を守ろうとすることと、相手の命を軽く扱わないこと。その二つは、決して矛盾せん」
ノエルは、その言葉を胸の中で繰り返した。
村人たちを守ること。
敵の命を軽く扱わないこと。
その両方を忘れずにいるのは、きっと簡単ではない。
それでも、忘れてはいけないのだ。
日が沈み始めた頃、ノエルとオーティスは地下避難所の入口に立っていた。
作業は、まだ終わっていない。
明日も、明後日も、準備を続けなければならない。
敵がいつ来るのかも分からない。
どれほどの人数なのかも分からない。
何が起きるのか、誰にも分からなかった。
それでも、二人は逃げるようにその場を離れたりはしなかった。
「なあ、ノエル」
「うん?」
「俺、まだ怖いよ」
オーティスは、正直に言った。
「本当に戦うことになったら、どうすればいいのか分からない。相手を傷つけることも、人の命を奪うことも、怖い」
「……うん」
「でも、怖いからって何も考えずに逃げたくはないんだ。俺には、守りたい人たちがいるから」
ノエルは、友人の顔を見た。
「僕もだよ」
二人は、静かにうなずき合った。
今はまだ、何をするべきなのか、はっきりとした答えは出ていない。
それでも、二人は一つのことを理解し始めていた。
戦うことは、ただ敵を倒すことではない。
自分の力が誰かに何をもたらすのかを考え、その結果から目をそらさないこと。
そして、どんなときでも、守りたいものを忘れないこと。
ノエルは、地下へ続く階段を見つめた。
この場所に、村人たちが避難する。
彼らの命を守るために、自分は何ができるのか。
答えは、まだ見つかっていない。
けれど、考えることをやめるつもりはなかった。
ノエルは、もう一度、地面に手を触れた。
土の感触が、手のひらに伝わってくる。
明日も、作業は続く。
村を守るために。
そして、自分がこれから何を選ぶのかを、決して忘れないために。




