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ノエル・ヴァース  作者: ひむひりか


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13/19

ドラグノア帝国三将 イザール

 ドラグノア帝国の国境から北へ進んだ街道沿い。


 夜の森に囲まれた野営地では、五十人ほどの兵士たちが、明かりを抑えた焚き火の周囲に集まっていた。


 鎧の擦れる音。


 馬の鼻息。


 交代で見張りに立つ兵士たちの足音。


 それら以外に、目立った物音はない。


 兵士たちは無駄口を叩かなかった。


 今回の任務は、通常の巡回や盗賊討伐とは違う。


 彼らを率いるのは、ドラグノア帝国の三将の一人。


 イザール。


 帝国軍の中でも、任務の達成を最優先する男として知られていた。


 彼の指揮下では、命令への不服従は許されない。失敗は厳しく罰せられ、任務に不要と判断された者が救われることもなかった。


 敵に対してだけではない。


 部下であろうと、民間人であろうと、任務の妨げになるなら容赦はしない。


 それがイザールという男だった。


 野営地の中央に置かれた天幕。


 その中で、イザールは机に広げた地図を見つめていた。


 年齢は四十代半ば。


 鍛えられた身体を軍服に包み、腰には実用性を重視した長剣を佩いている。


 華美な装飾はない。


 ただ、彼の胸元には、帝国軍の三将であることを示す徽章が刻まれていた。


 イザールは地図の上を指でなぞった。


「……ここか」


 指先が止まったのは、テルナ村の名が記された場所だった。


 天幕の入り口で、兵士が片膝をつく。


「イザール将軍。周辺の警戒を終えました。異常はありません」


「そうか。下がれ」


「はっ」


 兵士が退室すると、イザールは地図から目を離さずに尋ねた。


「例の少女について、追加の情報は?」


 天幕の奥に控えていた副官が答える。


「現時点では、逃亡後の足取りを完全には追えておりません。ただ、ヴァルセーヌという魔法使いが少女を連れていたという情報があり、その人物が現在、テルナ村周辺で暮らしている可能性が高いと判断されています」


「可能性、か」


 イザールは鼻を鳴らした。


「確証はないのだな」


「申し訳ありません」


「謝罪は不要だ。わかっている事実と、推測を分けて報告しろ」


「はっ」


 副官は背筋を伸ばした。


 イザールは、机の上に置かれた報告書を手に取った。


 そこには、リーゼについて調べられた記録がまとめられていた。


 幼少期に魔法の素質が確認されたこと。


 その後、帝国の施設で魔法を使わせてきたこと。


 年齢を重ねるにつれて、一度に動かせる死者の数が増えていったこと。


 そして、最後には数千の死者を動かすまでに至ったこと。


 記録にあるのは、その程度だった。


 魔法を使うための正確な条件。


 動かせる数の限界。


 対象によって必要な力が変わるのか。


 命令をどこまで理解させられるのか。


 そうした細かな点については、記録が乏しかった。


 リーゼ自身が能力について多くを語らなかったためだ。


 帝国側も、彼女が実際に動かした死者の数や、目に見える成果を重視してきた。


 能力の仕組みを理解することよりも、使える力を使わせることを優先していたのである。


「不完全な報告書だな」


 イザールは紙を机に戻した。


「ですが、少女の能力が帝国にとって重要であることは間違いありません」


「それはわかっている」


 イザールの声に、苛立ちが混じった。


「数千の死者を動かせる力だ。使い方次第では、兵士の損耗を補い、戦場の勢力図を変えられる。そんな力を持つ者が、帝国の管理下から逃げ出した」


 彼は報告書の端を指で叩いた。


「問題は、その少女がどこまで成長しているか、そして今も我々の役に立つ状態なのかということだ」


「年齢とともに能力の上限が増していたことから、現在はさらに多くの死者を動かせる可能性もございます」


「可能性だけで軍を動かすわけにはいかん。だから、まずは確認する」


 イザールは地図を折りたたみ、脇へ置いた。


「今回の任務は偵察だ。少女の所在を確認し、周辺の地形と村の防備を調べる。必要以上の戦闘は避けろ」


「承知しました」


「ただし、少女を発見した場合は別だ」


 イザールの目が冷たく細められた。


「逃亡を許すな。抵抗する者がいれば排除しろ。村人が邪魔をするなら、そいつらもだ」


 副官は一瞬だけ言葉を詰まらせた。


「……村人に対しても、ですか」


「何か問題があるのか?」


「いえ。確認しただけです」


「ならば、余計な質問をするな」


 イザールは椅子から立ち上がった。


「少女を取り戻すことが最優先だ。村がどうなろうと、私の知ったことではない」


 副官は深く頭を下げた。


「はっ。直ちに準備を進めます」


 イザールは返事をせず、天幕の外へ出た。


 冷たい夜風が頬を撫でる。


 野営地では、兵士たちが武器の手入れを続けていた。


 今回の部隊に、死者の兵隊はいない。


 同行しているのは、選抜された五十人ほどの生きた兵士だけだ。


 任務の目的は、敵を滅ぼすことではない。


 少女の所在を確かめ、連れ戻すための道筋をつけること。


 それだけなら、五十人で十分だとイザールは考えていた。


 相手は小さな村だ。


 大規模な軍事施設でもなければ、名のある城塞都市でもない。


 仮に村人が抵抗したとしても、訓練された帝国兵を相手にできるとは思えなかった。


 彼は空を見上げた。


 雲が月を覆い、森の奥は黒く沈んでいる。


「……逃げたところで、どこへ行こうというのだ」


 呟きは夜の闇に消えた。


 リーゼが何を考えて逃げたのか、イザールには興味がなかった。


 彼女が帝国に戻ることを拒む理由も、理解するつもりはない。


 重要なのは、その力が帝国のために使えるかどうか。


 それだけだった。


 ◇


 翌朝。


 偵察部隊は野営地を撤収し、街道を北へ進み始めた。


 先頭には斥候が二人。


 その後ろにイザールと副官が続き、残りの兵士たちは一定の間隔を保って隊列を組んでいた。


 進軍速度は速い。


 しかし、周囲の警戒を怠ることはなかった。


 街道沿いの森。


 小さな集落。


 川に架かる橋。


 兵士たちは通過するたびに目を配り、異常があればすぐに報告できるよう備えていた。


 昼前、先行していた斥候が戻ってきた。


「報告します。前方の街道に異常はありません。ただし、テルナ村へ続く分岐点から先は、人の往来が少なくなっています」


「理由は?」


「わかりません。街道そのものが荒れているわけではありませんが、荷車の跡は少なく、最近通った旅人も限られているようです」


 イザールは顎に手を当てた。


「村が外部との交流を避けているのか。それとも、単に人が少ないだけか」


「現時点では判断できません」


「ならば、現地で確かめる」


 彼は隊列の先を見た。


「村までの距離は?」


「順調に進めば、明日の夕方には到着できます」


「よし。今日は無理に進む必要はない。日没前に安全な場所を確保し、明朝から斥候を先行させる」


 副官が頷いた。


「村の近くまで進む前に、周辺の地形を確認いたします」


「そうしろ。村へ入る道、森の位置、見晴らしのいい場所。逃げ道になりそうな場所も調べておけ」


「承知しました」


 イザールは再び歩き出した。


 彼の頭の中では、すでにいくつかの可能性が組み立てられていた。


 少女が村にいる場合。


 すでに別の場所へ移された場合。


 村人が少女を匿っている場合。


 あるいは、ヴァルセーヌという魔法使いが、帝国に抵抗するつもりでいる場合。


 どれも確定した情報ではない。


 だが、任務を成功させるには、あらゆる可能性を想定する必要があった。


 ただし、イザールには想像もしていないことがあった。


 テルナ村には、土を自在に操る少年がいる。


 土を盛り上げ、地形を変え、ゴーレムを生み出すほどの力を持つ少年。


 帝国がリーゼの魔法を把握しきれていないのと同じように、イザールもまた、自分たちが向かっている場所について、何も知らなかった。


 彼らの知る魔法は、帝国が記録し、分類し、利用できる範囲のものだった。


 土を操る力が戦場でどのような意味を持つのか。


 それを本気で考えたことのある者は、帝国にはいなかった。


 


 その日の夕刻。


 斥候の一人が、街道沿いの小高い丘から戻ってきた。


「イザール将軍。前方に村へ続く道を確認しました」


「村の様子は?」


「まだ直接は確認できていません。ただ、道の先には農地が広がっているようです。周辺には森が多く、村へ近づくには街道を進むか、森を抜ける必要があります」


「村の規模は?」


「遠目に見える範囲では、大きな町ではありません。防壁らしきものも確認できませんでした」


 イザールは薄く笑った。


「ならば、難しい任務ではなさそうだな」


「ですが、少女が本当にそこにいるかは……」


「だからこそ、確認するのだ」


 彼は斥候の報告を遮った。


「明日の朝、少人数で村の外縁まで進め。住民の数、見張りの有無、外から出入りする者。少女に関する情報が得られるなら、それも調べろ」


「承知しました」


「ただし、見つかるな。こちらの存在を知られるのは、必要な情報を集めてからでいい」


 斥候が去ると、副官が口を開いた。


「将軍。もし少女が村人に匿われていた場合、どうなさいますか」


「選択肢は二つだ」


 イザールは迷いなく答えた。


「自分から引き渡すなら、それで終わりだ。拒むなら、引き渡させる」


「村人が武器を持って抵抗した場合は?」


「制圧しろ」


「それでも抵抗を続けるなら?」


 イザールは副官を見た。


「全員を排除しろ。少女さえ確保できれば、村に用はない」


 副官は沈黙した。


 イザールにとって、村人の命は交渉材料ですらなかった。


 任務を妨げるなら取り除く。


 それだけのことだった。


 彼は地図を広げ、テルナ村の位置をもう一度確認した。


 小さな村。


 大した防備もない。


 そこに、帝国が必要とする少女がいる。


 ならば、やるべきことは決まっている。


「明朝、偵察を開始する」


 イザールは静かに命じた。


「少女の所在を確認しろ。余計な戦闘は避けろ。だが、任務の邪魔をする者がいれば容赦するな」


「はっ!」


 兵士たちの返事が、夕暮れの森に響いた。


 やがて日が沈み、野営地に夜が訪れた。


 五十人の兵士たちは武器を手元に置き、交代で眠りにつく。


 その中央で、イザールは一人、地図を見つめていた。


 テルナ村まで、あとわずか。


 彼はまだ知らない。


 自分が追っている少女が、すでに帝国の命令ではなく、自分の意思で魔法を使い始めていることを。


 そして、少女を守ろうとしている少年が、帝国の誰も知らない力を持っていることを。


 イザールにとって、この任務はただの偵察にすぎなかった。


 だが、その小さな任務が、やがて帝国の思惑そのものを揺るがすことになる。


 夜の森を、冷たい風が吹き抜けた。


 テルナ村へ続く道の先には、まだ穏やかな暮らしが残っている。


 その平穏を壊すための足音が、少しずつ近づいていた。

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