ドラグノア帝国三将 イザール
ドラグノア帝国の国境から北へ進んだ街道沿い。
夜の森に囲まれた野営地では、五十人ほどの兵士たちが、明かりを抑えた焚き火の周囲に集まっていた。
鎧の擦れる音。
馬の鼻息。
交代で見張りに立つ兵士たちの足音。
それら以外に、目立った物音はない。
兵士たちは無駄口を叩かなかった。
今回の任務は、通常の巡回や盗賊討伐とは違う。
彼らを率いるのは、ドラグノア帝国の三将の一人。
イザール。
帝国軍の中でも、任務の達成を最優先する男として知られていた。
彼の指揮下では、命令への不服従は許されない。失敗は厳しく罰せられ、任務に不要と判断された者が救われることもなかった。
敵に対してだけではない。
部下であろうと、民間人であろうと、任務の妨げになるなら容赦はしない。
それがイザールという男だった。
野営地の中央に置かれた天幕。
その中で、イザールは机に広げた地図を見つめていた。
年齢は四十代半ば。
鍛えられた身体を軍服に包み、腰には実用性を重視した長剣を佩いている。
華美な装飾はない。
ただ、彼の胸元には、帝国軍の三将であることを示す徽章が刻まれていた。
イザールは地図の上を指でなぞった。
「……ここか」
指先が止まったのは、テルナ村の名が記された場所だった。
天幕の入り口で、兵士が片膝をつく。
「イザール将軍。周辺の警戒を終えました。異常はありません」
「そうか。下がれ」
「はっ」
兵士が退室すると、イザールは地図から目を離さずに尋ねた。
「例の少女について、追加の情報は?」
天幕の奥に控えていた副官が答える。
「現時点では、逃亡後の足取りを完全には追えておりません。ただ、ヴァルセーヌという魔法使いが少女を連れていたという情報があり、その人物が現在、テルナ村周辺で暮らしている可能性が高いと判断されています」
「可能性、か」
イザールは鼻を鳴らした。
「確証はないのだな」
「申し訳ありません」
「謝罪は不要だ。わかっている事実と、推測を分けて報告しろ」
「はっ」
副官は背筋を伸ばした。
イザールは、机の上に置かれた報告書を手に取った。
そこには、リーゼについて調べられた記録がまとめられていた。
幼少期に魔法の素質が確認されたこと。
その後、帝国の施設で魔法を使わせてきたこと。
年齢を重ねるにつれて、一度に動かせる死者の数が増えていったこと。
そして、最後には数千の死者を動かすまでに至ったこと。
記録にあるのは、その程度だった。
魔法を使うための正確な条件。
動かせる数の限界。
対象によって必要な力が変わるのか。
命令をどこまで理解させられるのか。
そうした細かな点については、記録が乏しかった。
リーゼ自身が能力について多くを語らなかったためだ。
帝国側も、彼女が実際に動かした死者の数や、目に見える成果を重視してきた。
能力の仕組みを理解することよりも、使える力を使わせることを優先していたのである。
「不完全な報告書だな」
イザールは紙を机に戻した。
「ですが、少女の能力が帝国にとって重要であることは間違いありません」
「それはわかっている」
イザールの声に、苛立ちが混じった。
「数千の死者を動かせる力だ。使い方次第では、兵士の損耗を補い、戦場の勢力図を変えられる。そんな力を持つ者が、帝国の管理下から逃げ出した」
彼は報告書の端を指で叩いた。
「問題は、その少女がどこまで成長しているか、そして今も我々の役に立つ状態なのかということだ」
「年齢とともに能力の上限が増していたことから、現在はさらに多くの死者を動かせる可能性もございます」
「可能性だけで軍を動かすわけにはいかん。だから、まずは確認する」
イザールは地図を折りたたみ、脇へ置いた。
「今回の任務は偵察だ。少女の所在を確認し、周辺の地形と村の防備を調べる。必要以上の戦闘は避けろ」
「承知しました」
「ただし、少女を発見した場合は別だ」
イザールの目が冷たく細められた。
「逃亡を許すな。抵抗する者がいれば排除しろ。村人が邪魔をするなら、そいつらもだ」
副官は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……村人に対しても、ですか」
「何か問題があるのか?」
「いえ。確認しただけです」
「ならば、余計な質問をするな」
イザールは椅子から立ち上がった。
「少女を取り戻すことが最優先だ。村がどうなろうと、私の知ったことではない」
副官は深く頭を下げた。
「はっ。直ちに準備を進めます」
イザールは返事をせず、天幕の外へ出た。
冷たい夜風が頬を撫でる。
野営地では、兵士たちが武器の手入れを続けていた。
今回の部隊に、死者の兵隊はいない。
同行しているのは、選抜された五十人ほどの生きた兵士だけだ。
任務の目的は、敵を滅ぼすことではない。
少女の所在を確かめ、連れ戻すための道筋をつけること。
それだけなら、五十人で十分だとイザールは考えていた。
相手は小さな村だ。
大規模な軍事施設でもなければ、名のある城塞都市でもない。
仮に村人が抵抗したとしても、訓練された帝国兵を相手にできるとは思えなかった。
彼は空を見上げた。
雲が月を覆い、森の奥は黒く沈んでいる。
「……逃げたところで、どこへ行こうというのだ」
呟きは夜の闇に消えた。
リーゼが何を考えて逃げたのか、イザールには興味がなかった。
彼女が帝国に戻ることを拒む理由も、理解するつもりはない。
重要なのは、その力が帝国のために使えるかどうか。
それだけだった。
◇
翌朝。
偵察部隊は野営地を撤収し、街道を北へ進み始めた。
先頭には斥候が二人。
その後ろにイザールと副官が続き、残りの兵士たちは一定の間隔を保って隊列を組んでいた。
進軍速度は速い。
しかし、周囲の警戒を怠ることはなかった。
街道沿いの森。
小さな集落。
川に架かる橋。
兵士たちは通過するたびに目を配り、異常があればすぐに報告できるよう備えていた。
昼前、先行していた斥候が戻ってきた。
「報告します。前方の街道に異常はありません。ただし、テルナ村へ続く分岐点から先は、人の往来が少なくなっています」
「理由は?」
「わかりません。街道そのものが荒れているわけではありませんが、荷車の跡は少なく、最近通った旅人も限られているようです」
イザールは顎に手を当てた。
「村が外部との交流を避けているのか。それとも、単に人が少ないだけか」
「現時点では判断できません」
「ならば、現地で確かめる」
彼は隊列の先を見た。
「村までの距離は?」
「順調に進めば、明日の夕方には到着できます」
「よし。今日は無理に進む必要はない。日没前に安全な場所を確保し、明朝から斥候を先行させる」
副官が頷いた。
「村の近くまで進む前に、周辺の地形を確認いたします」
「そうしろ。村へ入る道、森の位置、見晴らしのいい場所。逃げ道になりそうな場所も調べておけ」
「承知しました」
イザールは再び歩き出した。
彼の頭の中では、すでにいくつかの可能性が組み立てられていた。
少女が村にいる場合。
すでに別の場所へ移された場合。
村人が少女を匿っている場合。
あるいは、ヴァルセーヌという魔法使いが、帝国に抵抗するつもりでいる場合。
どれも確定した情報ではない。
だが、任務を成功させるには、あらゆる可能性を想定する必要があった。
ただし、イザールには想像もしていないことがあった。
テルナ村には、土を自在に操る少年がいる。
土を盛り上げ、地形を変え、ゴーレムを生み出すほどの力を持つ少年。
帝国がリーゼの魔法を把握しきれていないのと同じように、イザールもまた、自分たちが向かっている場所について、何も知らなかった。
彼らの知る魔法は、帝国が記録し、分類し、利用できる範囲のものだった。
土を操る力が戦場でどのような意味を持つのか。
それを本気で考えたことのある者は、帝国にはいなかった。
その日の夕刻。
斥候の一人が、街道沿いの小高い丘から戻ってきた。
「イザール将軍。前方に村へ続く道を確認しました」
「村の様子は?」
「まだ直接は確認できていません。ただ、道の先には農地が広がっているようです。周辺には森が多く、村へ近づくには街道を進むか、森を抜ける必要があります」
「村の規模は?」
「遠目に見える範囲では、大きな町ではありません。防壁らしきものも確認できませんでした」
イザールは薄く笑った。
「ならば、難しい任務ではなさそうだな」
「ですが、少女が本当にそこにいるかは……」
「だからこそ、確認するのだ」
彼は斥候の報告を遮った。
「明日の朝、少人数で村の外縁まで進め。住民の数、見張りの有無、外から出入りする者。少女に関する情報が得られるなら、それも調べろ」
「承知しました」
「ただし、見つかるな。こちらの存在を知られるのは、必要な情報を集めてからでいい」
斥候が去ると、副官が口を開いた。
「将軍。もし少女が村人に匿われていた場合、どうなさいますか」
「選択肢は二つだ」
イザールは迷いなく答えた。
「自分から引き渡すなら、それで終わりだ。拒むなら、引き渡させる」
「村人が武器を持って抵抗した場合は?」
「制圧しろ」
「それでも抵抗を続けるなら?」
イザールは副官を見た。
「全員を排除しろ。少女さえ確保できれば、村に用はない」
副官は沈黙した。
イザールにとって、村人の命は交渉材料ですらなかった。
任務を妨げるなら取り除く。
それだけのことだった。
彼は地図を広げ、テルナ村の位置をもう一度確認した。
小さな村。
大した防備もない。
そこに、帝国が必要とする少女がいる。
ならば、やるべきことは決まっている。
「明朝、偵察を開始する」
イザールは静かに命じた。
「少女の所在を確認しろ。余計な戦闘は避けろ。だが、任務の邪魔をする者がいれば容赦するな」
「はっ!」
兵士たちの返事が、夕暮れの森に響いた。
やがて日が沈み、野営地に夜が訪れた。
五十人の兵士たちは武器を手元に置き、交代で眠りにつく。
その中央で、イザールは一人、地図を見つめていた。
テルナ村まで、あとわずか。
彼はまだ知らない。
自分が追っている少女が、すでに帝国の命令ではなく、自分の意思で魔法を使い始めていることを。
そして、少女を守ろうとしている少年が、帝国の誰も知らない力を持っていることを。
イザールにとって、この任務はただの偵察にすぎなかった。
だが、その小さな任務が、やがて帝国の思惑そのものを揺るがすことになる。
夜の森を、冷たい風が吹き抜けた。
テルナ村へ続く道の先には、まだ穏やかな暮らしが残っている。
その平穏を壊すための足音が、少しずつ近づいていた。




