第1章 甘いホットミルクとミックスパン
これは、私にまだ石段すら築かれていなかった頃の物語だ。
当時の私は、山頂に小さな神社(シヴァ神の祠)を戴く、ただの険しい一峰に過ぎなかった。
私の正面には「木材の村」と呼ばれる村が広がり、振り返った背後には「食材の村」と呼ばれる別の村が存在していた。
周囲にもいくつか集落はあったが、私に一番近かったのはこの二つの村だ。
「木材の村」は極上の木材を供出することで知られ、「食材の村」は絶品の料理でその名を馳せていた。
極上の木材を求めて、樵たちは遠く離れた深山へと単身で分け入っていく。持ち帰った木材を売り、売れ残ったものは炭へと加工して売り出すためだ。
一方、「食材の村」は木材の大得意様だった。大鍋や大釜で極上の料理を仕込むには、大量の薪や炭が欠かせないからだ。
私から歩いて五時間ほどの場所には賑やかな街があり、どちらの村にもそこから木材や食材、大宴会の料理、そして大型機械を動かすための石炭や木炭の注文が絶え間なく届いていた。
もし「食材の村」から「木材の村」へ、あるいはその逆へと向かうなら、誰しもが私をぐるりと迂回して遠回りをしなければならなかった。
なぜなら、二つの村の間にそびえ立っているのは、この私だからだ。
私の山肌は垂直に近く切り立ち、鋭利な岩肌が露出しているため、好んで登ろうとする者はほとんどいなかった。
だが、双方の村には古くから伝わるひとつの伝承があった。
「麓から一滴の水をこぼすこともなく汲み上げ、山頂の神社に捧げて一心に祈りを捧げれば、どんな願いも成就する」というものだ。
しかし、長い歴史の中で私を登り切り、水をお供えできた者はたったの二人しかいない。もちろん、その二人の願いは成就した。
今となっては、この伝承を固く信じる者もすっかり少なくなってしまったが。
――夕刻が近づいてきた。
今日は、二週間に及ぶ山籠もりを終えた樵たちが村へ帰ってくる日だ。
その中に、一人の十九歳の少年がいた。名を「ユル・ケンゾウ」という。
ユルがまだ五歳の頃、母親はこの世を去った。そして父親もまた、巨熊の亡骸と共に村へ運ばれてきた日、帰らぬ人となった。
ユルの父親は、村で「チャンプ」と呼ばれる英雄的な樵だった。だが、最高の木材を探して深林へ入ったある日、運悪く巨熊と遭遇し、壮絶な死闘の末に相討ちとなったのだ。
二体の亡骸が牛車で運ばれ、男たちの肩によって地上へ降ろされた時、人々は言葉を失った。チャンプの胸には深く切り裂かれた熊の爪痕が残り、熊の胸にはチャンプの斧が突き刺さったままだったのだ。
村人たちはその勇姿に深い敬意と礼を捧げ、盛大な見送りと共に二人を荼毘に付した。
当時、ユルはまだ六歳ほどだった。父親の顔を覚える間もなかった。チャンプは家族の暮らしを支えるため、二週間以上も山に籠もって木材を探し続ける毎日を送っていたからだ。
私は、ユルが幼い頃から大きくなる姿をずっと見守ってきた。
十九歳になった彼は、いまや父親と同じように一人で山へ入り、木を切り、自分自身でそれを売り歩いている。頼れる身寄りが一人もいないからだ。
村の他の樵たちは「ウッドハンター」と呼ばれ、彼らが山から戻ると、妻や兄弟が木材の販売や炭焼き作業を引き受ける。ハンター自身は一、二日体を休め、再び獲物を求めて山へと向かうのだ。
だが、ユルには手伝ってくれる家族がいない。だからこそ、彼は自ら木材や炭を担ぎ、あちこちの村へと売り歩かなければならないのだ。
この物語には、もう一人大切な少女が登場する。
名を「リハル・アカバネ」、二十一歳。ユルより二歳年上だ。
リハルのかんじんの両親について知る者は、彼女がまだ歩くこともできなかった頃、別の村から引き取ってきたあの老人のほかに誰もいない。
ユルとリハルは、固い絆で結ばれた幼馴染だった。
二人とも親がいなかったため、幼い頃から肩を寄せ合い、共に遊び、支え合いながら小さなお金を稼いで育ってきたのだ。
ユルが「木材の村」に暮らす一方で、リハルは「食材の村」で暮らしている。
ユルが山から戻ると、薪や炭を売るために真っ向かうのは、リハルが住むあの老人のベーカリーショップだった。
もし許されるなら、ユルは村へ戻ってなど来たくないのかもしれない。それでも二週間ごとに彼が必ず帰ってくるのは――ただ一人、リハルに会うためだ。
ユルがリハルを心から愛していることを、私は知っている。
……だが、リハルもまた、ユルを愛しているのだろうか?
夕闇が迫る頃、ベーカリーショップの扉にノックの音が響いた。
「誰かいますか?」
声を頼りに扉を開けたのは、白と黒のウェイトレス衣装に身を包んだ一人の美しい少女だった。
両手には手袋、髪は後ろでひとつにまとめられ、唇にはほんのりピンクのリップ。深く澄んだ海のような青い瞳を輝かせ、手にはお皿を抱えて、愛くるしい笑顔を浮かべている。
「いらっしゃいませ、私たちのベーカリーへようこそ!」
扉の向こうに立っていたのは、黒い帽子をかぶり、黒いコートと分厚い手袋を身につけ、足元に頑丈なブーツを履いた身の丈六フィート五インチ(約195cm)の屈強な青年だった。
「元気だったかい、リハル」
低い声で呼びかけられた瞬間、リハルはパッと顔を輝かせ、勢いよく彼の胸へと飛び込んだ。
「ユル! いつ山から戻ったの?」
「さっき着いたばかりさ。だから、一番に君に会いに来たんだ」
「ふふ、絶好のタイミングよ! ちょうど甘くて温かいミルクパンを作ったところなの」
ミルクパンという言葉を聞いた瞬間、ユルの顔にかすかな緊張が走った。
リハルは甘いミルクパンを作ろうとしてくれるのだが、牛乳が多すぎたり砂糖の分量を間違えたり、時には砂糖と塩を間違えることすらあるからだ。
(参ったな……食べなければリハルに怒られるし、食べたとしても明日の朝お腹が大変なことになる。……だが、覚悟を決めて食べるしかないか)
ユルが固まっていると、リハルが覗き込んできた。
「何を考えているの、ユル?」
「あ、いや……ミルクパンのことだよ。もちろん喜んでいただくよ!」
「ふふっ。じゃあコートを脱いで、私に頂戴。掛けておくわ」
コートを脱いでリハルに預け、ユルはスプーンですくい上げようとした。
その時、ユルは目の前のリハルが自分をじっと見つめ、口元から今にもよだれがこぼれそうになっているのに気づいた。
「リハル……君も食べたいのか?」
ユルは愛おしさを込めて、時に彼女を「リハ」や「アル」と呼ぶ。
リハルは可愛らしく微笑んだ。
「あーんして食べさせてくれるなら、食べるわ!」
ユルがスプーンで口元へ運んでやると、リハルは満足そうに目を細めた。
「すごーく美味しい!」
(……待てよ、今回は塩を間違えていないみたいだ。よし、僕も食べてみよう)
ユルも一口パクリと口に含んだ。
「リハ、これ本当に君が作ったのか? 最高に美味いよ!」
「あなたがいない間、おじいちゃんにお願いして特訓してもらったの!」
二人が話していると、再び扉にノックの音が響いた。
今度は扉がそのまま開き、親しみのある声が飛び込んでくる。
「アル! お前、どこにいるんだ? 荷物を受け取っておくれ。自転車をスタンドに止めてくるからな」
その人物を見て、ユルは声を上げた。
「おじいさん、あなたでしたか」
「おや、ユルじゃないか! いつ戻ったんだい?」
ユルは立ち上がり、老人の手から荷物を受け取った。
「おじいさん、荷物は僕が置いておきますよ」
「助かるよ、すぐ戻るからね」
老人は店の横にある木に自転車を鎖でロックし、店内へ戻ってきた。
その様子を見ながら、ユルは冬の盛りに薄着でいるリハルを不思議に思い、尋ねた。
「こんなに寒いのに、どうしてそんな薄着なんだ?」
そこへ老人が入ってきて溜め息をつく。
「ユル、お前からも言ってやっておくれ。温かい服を着なさいと言っても、全然聞きやしないんだ」
「だってユル、ここって暑くない?」
「まあ、確かに温かいけど……」
「でしょ? ベーカリーは窯の熱で暑いから、厚着なんてしていられないのよ」
「でも、どうしてウェイトレスの服を着ているんだ? 君はシェフだろう?」
「実はね、雇っていたウェイトレスの子が体調を崩してしまってね。それで自ら給仕をして回っているのさ」と老人が説明した。
「なるほど……。それよりおじいさん、戻られたなら木材と炭を選んでください。どれくらい渡せばいいですか?」
「毎回聞かなくても、必要な量は分かっているだろう?」
「そうですが、いつ注文が激増するか分かりませんからね」
「よし分かった、多めに貰っておこう。それで、次の山籠もりはいつ出発するんだい?」
「今回はたくさん木材を持ち帰れたので、一、二週間は村に滞在するつもりです。明日は街へ行って、もっと良い買い手を探してきます」
リハルはユルの手から器を受け取ると、嬉しそうに言った。
「良かった! それなら少しは村でゆっくりできるわね。いつもなら一、二日でまた山へ行っちゃうんだから」
そう言ってパクリとパンを口に運ぶリハルに、ユルは優しく手を置いた。
「何を言っているんだ。僕は君に会うために戻ってきているんだよ。じゃなきゃ村に帰る理由なんてない」
「嘘ばっかり! じゃあ、私に会うために帰ってきたっていうなら、明日私を街へ連れていってよ!」
ユルは腕を組んでむっとした。
「駄目だ。遊ぶためじゃなく、ビジネスで行くんだから。……それじゃあ、僕はそろそろ失礼するよ。明日も早いからね」
ユルが立ち上がり、ドアの裏からコートを取ろうとすると、リハルは器を置いて駆け寄り、ユルの片足にしがみついた。
「嫌だ嫌だ! 私も連れていって! 近くで街を観光したことなんてないんだから! おじいちゃん、お願いだからユルに頼んでよ!」
「これこれ、ユルを困らせるんじゃないの。お前が迷子になったらどうするんだ? 方向音痴のくせに」
子供のようにダダをこねるリハル。
「迷子になんてならないわ! ユルの後ろを静かについていくし、買ってくれたものは何でも食べるから! お願いおじいちゃん! もう十一月だよ? 街のフェスティバルが見たいの!」
老人はしばらく考えた後、折れた。
「……分かった分かった。ユルと一緒に行っておいで」
「ちょっと待ってください、おじいさん!」とユルは頭を抱えた。「彼女が僕より二歳年上だなんて誰が信じますか!? 僕が木材を売る間、誰がこの子の面倒を見るんですか?」
「お前なら両方こなせるさ、知っているぞ。……さあアル、出かける前に温かい服に着替えてきなさい」
リハルは兵士のようにピシッと姿勢を正し、敬礼してみせた。
「了解、ボス!」
そう言って、リハルは奥の部屋へ着替えに走っていった。
「それでユル、明日は何時に出発するんだい?」
「朝の六時に買い手と約束しているんです。七時の便に乗るらしいので、遅れたら取引が流れてしまいます」
「六時だって!? それなら今すぐ出発しないと間に合わないじゃないか。木材や炭も運ぶんだろう?」
「ええ、だから今から出ます。友達から牛車を借りてあるんです」
「ユル、聞きなさい。街までは五、六時間はかかるし、途中で三つの村を通るだろう。どの村にも立ち寄るんじゃないぞ。あそこはハイキャスト(高位の身分)の人間ばかりで、樵を見下している。絶対に揉め事に巻き込まれるんじゃないよ」
「分かっていますよ、おじいさん」
「アルをしっかり頼んだぞ」
「心配いりません」
ユルは店を出て、外に待たせてあった牛車に乗り込んだ。
「おい、まだかー?」
「今行くわー!」
奥から走ってきたリハルを見て、ユルは思わず息を呑んだ。
(……なんて可愛さだ。さっきのウェイトレス姿も妖精みたいだったけど、冬服の彼女はまるで綿のテディベアみたいだ。見るたびに強く抱きしめたくなる。……一目見られただけで、これからの長旅が一本の映画みたいに輝いて見える)
真っ白なロングコートに青い帽子、青い手袋、ブーツ、そして青いマフラー。
……しかし、マフラーの巻き方が分からないリハルは、それを腰に巻きつけて走ってきたのだ。
それを見たユルは、思わず吹き出してしまった。
「準備完了よ! ……って、なんで笑うの? 私、変かな……?」
「マフラーを腰に巻く奴がどこにいるんだよ」
ユルは牛車から降りると、リハルの腰からマフラーを解き、首元に優しく巻き直してやった。
「おじいちゃんがね、腰に巻くと重い荷物を持つ時に楽だって言ってたの!」
ユルはチラリと店の方へ疑惑の目を向けた。
「重い荷物ねぇ……。よし、出来上がりだ。まるで天使みたいに可愛いよ。僕はちょっとおじいさんと話があるから、牛車で待っていてくれ」
店の入口で両手を後ろに組み、知らん顔で口笛を吹いていた老人は言った。
「いやぁ、明日のケーキの仕込みで忙しくてね! じゃあ私はこれで!」
老人は大急ぎでドアを閉めようとしたが、ユルががっしりと手で受け止めた。
「おじいさん……後でじっくり話を聞きますからね。リハルに重い荷物を持たせただと?」
「ひぇっ……!」
バタンと扉が閉まり、中から「助かった、説教されるところだった……」という老人の安堵の声が漏れてきた。
「ユル、早く行きましょう!」
牛車の上からリハルが声をあげる。
ユルは苦笑しながら隣に腰掛け、牛に進むよう指示を出した。
ガラガラと牛車が走り出した時、一滴の冷たい雫がリハルの手袋に落ちた。
リハルが手袋を外し、空を見上げる。
「ユル、見て! 雪が降ってきたわ! すごく綺麗……!」
綿のように柔らかい雪の結晶が、リハルの手にひとつ、またひとつと舞い降りてくる。
「手袋を外すなよ、寒くなるぞ」
静かに降り始める雪の中、村から街へと向かう二人の旅が始まった――。
第2章 次の金曜日




