第一話「宇野誠について、私が知っていること」
十一月の第二週に入った。
私は紺色のノートを、毎朝開くようになっていた。
「宇野誠について、私が知っていること」という一行の下に、知っていることを書いた。事実だけを、箇条書きで。
・五十五歳。宇野時計店店主。緑町2丁目。 ・妻・静江(享年五十二歳)を二年前に膵臓癌で失う。 ・月に複数回、深夜零時〜二時台に裏口より外出。重い荷物を持つことがある。 ・荷物の形状:長方形、推定七十×四十センチ前後、布包み。 ・深夜に店内から金属を磨くような音。不規則なリズム。週に複数回。 ・元従業員(taka19xx)が半年で退職。「なんか怖くて」と記述。 ・妻の写真を作業台脇に一枚飾っている。写真立ての隣に白い陶器の置物(うさぎ形)。 ・秋刀魚の話(喫茶ハコニワ店員・橘リカ証言):「秋になると秋刀魚を見るのがつらい」と語ったことがある。
書いてから、読み返した。
客観的に読もうとした。
これだけを見ると、何もない。
愛妻家の職人が、深夜に仕事をして、時々外出する。それだけのことだ。
でも私がこの一行一行を書き留めた理由は、「これだけのことではない」という感覚があるからだ。
その感覚の正体を、私はまだ言語化できていない。
朝の喫茶ハコニワ。
リカさんがコーヒーを置いた瞬間、「あ」と小さく声を上げた。
「昨日、宇野さん来られたんですよ」
「そうですか」
「なんか、珍しく少し話されて」
私はカップを持ったまま、続きを待った。リカさんが何かを話すとき、少しだけ間がある。言葉を選んでいる間だと分かるようになっていた。
「工房、移転するかもしれないって。使ってた職人さんが廃業されるから、別の場所を探してるって」
「工房というのは、時計の修理をする場所ですか」
「そうみたいです。道具を使わせてもらってたとかで。あの……私、あんまり詳しくないから、うまく説明できないんですけど」とリカさんは少し口ごもった。「なんか、専用の機械がいるんですかね、大きな時計の修理には」
「大きな時計」と私は言った。
「はい。柱時計とか、ああいうの。宇野さん、柱時計の修理が得意って。昔の職人さんが少なくなってるから、遠くから依頼が来ることもあるって、前に常連さんに聞いたんですけど」
私はコーヒーを一口飲んだ。
柱時計の修理。工房。大型の機械。深夜に重い荷物を持って職人街に向かう。
ピースが一つ、動いた気がした。
でも、まだ足りなかった。
「その工房、どのあたりにあるか分かりますか」
リカさんがわずかに眉を動かした。「さあ……そこまでは。職人街のほうじゃないですかね、たぶん」
「そうですか」
私は自分の声が、平板になりすぎていないかを確認した。平板すぎると、不自然だ。
「工房が変わると、宇野さんも大変ですね」と私は言った。
「そうですよねえ」とリカさんは言った。「でも宇野さん、あんまり表情が変わらなくて。大変なんだろうな、とは思うんですけど、どう声をかけていいか……」
リカさんがそこで少し微笑んだ。困ったときの微笑みだ、と私は思った。
「桐島さん、今日もお仕事ですか」
「はい」
「そうですか」
それだけ言って、リカさんは別のお客さんのところへ行った。
私は窓の外を見た。
曇天の商店街。シャッターの半分が下りている。その先に、宇野時計店の表側が見える。今日は開店前で、暗い。
工房が移転する。
となると、深夜の荷物運びのルートが変わるかもしれない。今まで東に向かっていたのは、職人街にある工房に向かっていたからだ。その工房を失えば、次の行き先は別の方向になる。
私は急がなければいけない、という感覚を持った。
その感覚を持ったことに、少し驚いた。
何を急ぐのか。
自分で自分に問いかけて、答えが出なかった。
午後、私は藤堂真澄に電話した。
三回コールして、繋がった。
「奈緒? 珍しいね、電話」
真澄の声は少し上ずっていた。職場にいるのかもしれない。
「ちょっと聞きたいことがあって」と私は言った。
「うん、なに? ちょっと待って——」がさごそと音がした。「ごめん、廊下出た。なに?」
「市の防犯カメラの映像って、市民でも閲覧できる?」
沈黙があった。
一秒、二秒。
「……なんで?」と真澄は言った。声のトーンが変わった。明るさが消えて、少し低くなった。
「取材で使えるかと思って。古い記事の調査で、三年前の映像が必要になって」
「古い記事……」と真澄が繰り返した。
「ダメなら別の方法を考えるから、制度上できるかどうかだけ教えてほしいんだけど」
「制度上は、できないことはないけど」と真澄はゆっくり言った。「情報公開請求って手続きが必要で、目的が正当かどうかの審査があって、あと三年前となると保存期間の問題もあって……」
「そっか」
「奈緒」と真澄が言った。
「うん」
「それ、本当に取材?」
私は少し間を置いた。窓の外を見た。曇天。
「本当に取材」と私は言った。
真澄がまた黙った。今度は三秒くらい。
「……わかった」と真澄は言った。「でも正式な手続きが必要だから、私が個人的にどうにかできることじゃないの。ごめんね」
「そっか。ありがとう」
「奈緒」
「うん」
「……なんか、ちゃんと食べてる?」
唐突な質問だった。
「食べてる」と私は答えた。
「そっか。またご飯行こうね」と真澄は言った。今度の声は少し柔らかかった。でも私には、その柔らかさの奥に何かがある気がした。柔らかくすることで、何かを覆い隠しているような。
「うん」と私は言った。「またね」
電話を切った。
真澄の声の変化をノートに書いた。
「本当に取材?」という問い返し。声のトーン変化あり。「私が個人的にどうにかできることじゃない」という表現——個人的には何かを知っている可能性。「ちゃんと食べてる?」という唐突な質問。心配の表明か、別の意図か。
書いてから、「別の意図か」という言葉を少し見た。
真澄が私に対して「別の意図」を持つ理由は何か。
考えが止まらなかった。
夕方、スーパーへの帰り道、来栖と商店街で鉢合わせた。
正確には、私が商店街の八百屋の前で立ち止まって値段を見ていたとき、来栖が自転車を押しながら横を通った。
「あ」と来栖が言った。
私も顔を上げた。朝のエントランスで会った日以来、二度目の接触だった。来栖は今日は私服だった。紺色のパーカーに、ジーンズ。
「どうも」と私は言った。
「どうも」と来栖は言った。
それだけで、彼は通り過ぎていくかと思った。でも来栖は自転車を止めたまま、少しだけこちらを向いた。
「あの」と来栖は言った。「二〇三号室の方ですよね」
「そうです」
「郵便物、先週間違えて俺の受け取り口に入ってたんで、エントランスに置いといたんですけど」
「あ」と私は言った。確かに先週、エントランスの端に一通置かれていた。発信元を確認しないまま部屋に持ち帰っていた。「それ、あなたが置いてくれたんですね。ありがとうございます」
「いや、別に」と来栖は言った。
短い沈黙。
「配達の仕事、されてるんですか」と私は聞いた。
「昼は運送。夜はデリバリー」と来栖は答えた。「うるさくないですか、夜中に出入りして」
「全然」
「そっすか」と来栖は言った。「まあ、なるべく静かにしてるんですけど」
「気にしてませんよ」
来栖は軽く頷いて、自転車を押してまた歩き始めた。
私はその背中を見た。
紺色のパーカー。細い肩。自転車のタイヤが、湿ったアスファルトを踏む音。
二十八歳の、運送とデリバリーを掛け持ちしている若い男。
私はメモ帳を出して、何かを書こうとした。
止めた。
何を書くのか。
来栖光一は、普通の人間だ。
その判断が正しいかどうかを、私はまだ決定できなかった。でもメモを取ることをやめたのは、何か進歩した気がした。
その夜、村瀬の部屋から声が聞こえた。
今夜はいつもより早い時間だった。二十一時前。
壁越しに聞こえる村瀬の声は、今夜は笑っていた。
初めて聞く笑い声だった。
くすくす、という抑えた笑い方ではなく、少し大きめの、本物の笑い声。何かを言って、また笑う。また言う。
聞こえた言葉は断片的だった。
「……だから言ったじゃん」
「……そんなわけないって」
「……バカじゃないの、もう」
笑いながら「バカじゃないの」と言える相手がいる。
私はその声を聞きながら、コーヒーを飲んでいた。
以前の断片——「また来る」「困る」「言えない」——と、今夜の声が、同じ相手との会話だとしたら、全体像は何になるのか。
倦怠期の恋人か。複雑な人間関係か。
笑い声だけを聞いていると、それが何であるかを特定することはできなかった。
でも今夜の声には、警戒する必要がないという印象があった。
私はその印象を、メモ帳に書くかどうか少し考えて、書かなかった。
翌朝、私は宇野時計店の前を通ったとき、引き戸が少し開いているのに気づいた。
開店前の時間帯だった。九時を少し回ったくらい。
引き戸の隙間から、店内の音が漏れていた。
金属の音だった。
細かい、精密な音。昼間に店の中でする作業の音は、夜中に聞こえる音とは質が違う。これは小さい部品を扱っている音だ。繊細で、軽い。
私は立ち止まって、その音を聞いた。
五秒ほど。
そして歩いた。
今朝の音は、仕事の音だ、と思った。
夜中の音は、仕事の音ではないかもしれない。
その思考の筋道が正しいかどうかを、私は確認できなかった。
午後、仕事の原稿を一本書いた。
今月の収入の見通しを計算した。寄稿料の合計が、家賃と生活費をわずかに上回る程度だった。今月は何とかなる。来月は、もう一本依頼が取れれば何とかなる。
そういう生活を、三年間続けている。
何とかなる、という見通しが、毎月更新される。何とかならなくなったとき、何が起きるのかを考えたことはあった。でもその先を考えると、答えがなかった。答えのないことを考えることに意味がないので、毎月「何とかなる」という見通しだけを確認して、次に進む。
それが習慣になっていた。
紺色のノートを開いた。
「宇野誠について、私が知っていること」の続きに、今朝のリカさんの話を書き加えた。
工房が移転の可能性あり。現在の工房は職人街(東方向)の廃業した職人が所有か使用させていたもの。大型時計(柱時計等)の修理に専用機械が必要。深夜の「重い荷物」は柱時計関連の部品か、あるいは柱時計本体の可能性。
書いてから、最後の一文を読み返した。
「柱時計本体の可能性」。
柱時計を、深夜に、布に包んで運ぶ。
それは変な話ではない。大型の時計を修理工房に運ぶためには、店が閉まっている夜に動くほうが都合がいいこともある。車を使わないのは、この地区に駐車スペースがないからかもしれない。
すべてが説明できる。
すべてに合理的な説明がつく。
それでも私は、調べ続けていた。
夜、薬を飲む前に窓の外を見た。
宇野時計店の二階の明かりがついていた。住居部分だ。白いカーテン越しに、橙色の光が漏れていた。
午後九時。
宇野誠が、今夜も一人で夕食を食べているのかもしれない。あるいは本を読んでいるのかもしれない。テレビを見ているのかもしれない。
五十五歳の男が、一人で夜を過ごしている。
私が知ることのできない時間が、あのカーテンの向こうに続いている。
知ることのできない時間。
知ろうとすることと、知ることは、違う。
私はそのことを、ぼんやり考えた。
薬を飲んだ。
ベッドに横になった。
今夜は窓を見ないようにした。
見ないようにすることも、一種の行為だ、と思いながら、目を閉じた。




