表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夜の縁  作者: 鍵しっぽハンター
第二章「調査」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/9

第一話「宇野誠について、私が知っていること」


 十一月の第二週に入った。

 私は紺色のノートを、毎朝開くようになっていた。

 「宇野誠について、私が知っていること」という一行の下に、知っていることを書いた。事実だけを、箇条書きで。


 ・五十五歳。宇野時計店店主。緑町2丁目。  ・妻・静江(享年五十二歳)を二年前に膵臓癌で失う。  ・月に複数回、深夜零時〜二時台に裏口より外出。重い荷物を持つことがある。  ・荷物の形状:長方形、推定七十×四十センチ前後、布包み。  ・深夜に店内から金属を磨くような音。不規則なリズム。週に複数回。  ・元従業員(taka19xx)が半年で退職。「なんか怖くて」と記述。  ・妻の写真を作業台脇に一枚飾っている。写真立ての隣に白い陶器の置物(うさぎ形)。  ・秋刀魚の話(喫茶ハコニワ店員・橘リカ証言):「秋になると秋刀魚を見るのがつらい」と語ったことがある。


 書いてから、読み返した。

 客観的に読もうとした。

 これだけを見ると、何もない。

 愛妻家の職人が、深夜に仕事をして、時々外出する。それだけのことだ。

 でも私がこの一行一行を書き留めた理由は、「これだけのことではない」という感覚があるからだ。

 その感覚の正体を、私はまだ言語化できていない。


 朝の喫茶ハコニワ。

 リカさんがコーヒーを置いた瞬間、「あ」と小さく声を上げた。

 「昨日、宇野さん来られたんですよ」

 「そうですか」

 「なんか、珍しく少し話されて」

 私はカップを持ったまま、続きを待った。リカさんが何かを話すとき、少しだけ間がある。言葉を選んでいる間だと分かるようになっていた。

 「工房、移転するかもしれないって。使ってた職人さんが廃業されるから、別の場所を探してるって」

 「工房というのは、時計の修理をする場所ですか」

 「そうみたいです。道具を使わせてもらってたとかで。あの……私、あんまり詳しくないから、うまく説明できないんですけど」とリカさんは少し口ごもった。「なんか、専用の機械がいるんですかね、大きな時計の修理には」

 「大きな時計」と私は言った。

 「はい。柱時計とか、ああいうの。宇野さん、柱時計の修理が得意って。昔の職人さんが少なくなってるから、遠くから依頼が来ることもあるって、前に常連さんに聞いたんですけど」

 私はコーヒーを一口飲んだ。

 柱時計の修理。工房。大型の機械。深夜に重い荷物を持って職人街に向かう。

 ピースが一つ、動いた気がした。

 でも、まだ足りなかった。

 「その工房、どのあたりにあるか分かりますか」

 リカさんがわずかに眉を動かした。「さあ……そこまでは。職人街のほうじゃないですかね、たぶん」

 「そうですか」

 私は自分の声が、平板になりすぎていないかを確認した。平板すぎると、不自然だ。

 「工房が変わると、宇野さんも大変ですね」と私は言った。

 「そうですよねえ」とリカさんは言った。「でも宇野さん、あんまり表情が変わらなくて。大変なんだろうな、とは思うんですけど、どう声をかけていいか……」

 リカさんがそこで少し微笑んだ。困ったときの微笑みだ、と私は思った。

 「桐島さん、今日もお仕事ですか」

 「はい」

 「そうですか」

 それだけ言って、リカさんは別のお客さんのところへ行った。

 私は窓の外を見た。

 曇天の商店街。シャッターの半分が下りている。その先に、宇野時計店の表側が見える。今日は開店前で、暗い。

 工房が移転する。

 となると、深夜の荷物運びのルートが変わるかもしれない。今まで東に向かっていたのは、職人街にある工房に向かっていたからだ。その工房を失えば、次の行き先は別の方向になる。

 私は急がなければいけない、という感覚を持った。

 その感覚を持ったことに、少し驚いた。

 何を急ぐのか。

 自分で自分に問いかけて、答えが出なかった。


 午後、私は藤堂真澄に電話した。

 三回コールして、繋がった。

 「奈緒? 珍しいね、電話」

 真澄の声は少し上ずっていた。職場にいるのかもしれない。

 「ちょっと聞きたいことがあって」と私は言った。

 「うん、なに? ちょっと待って——」がさごそと音がした。「ごめん、廊下出た。なに?」

 「市の防犯カメラの映像って、市民でも閲覧できる?」

 沈黙があった。

 一秒、二秒。

 「……なんで?」と真澄は言った。声のトーンが変わった。明るさが消えて、少し低くなった。

 「取材で使えるかと思って。古い記事の調査で、三年前の映像が必要になって」

 「古い記事……」と真澄が繰り返した。

 「ダメなら別の方法を考えるから、制度上できるかどうかだけ教えてほしいんだけど」

 「制度上は、できないことはないけど」と真澄はゆっくり言った。「情報公開請求って手続きが必要で、目的が正当かどうかの審査があって、あと三年前となると保存期間の問題もあって……」

 「そっか」

 「奈緒」と真澄が言った。

 「うん」

 「それ、本当に取材?」

 私は少し間を置いた。窓の外を見た。曇天。

 「本当に取材」と私は言った。

 真澄がまた黙った。今度は三秒くらい。

 「……わかった」と真澄は言った。「でも正式な手続きが必要だから、私が個人的にどうにかできることじゃないの。ごめんね」

 「そっか。ありがとう」

 「奈緒」

 「うん」

 「……なんか、ちゃんと食べてる?」

 唐突な質問だった。

 「食べてる」と私は答えた。

 「そっか。またご飯行こうね」と真澄は言った。今度の声は少し柔らかかった。でも私には、その柔らかさの奥に何かがある気がした。柔らかくすることで、何かを覆い隠しているような。

 「うん」と私は言った。「またね」

 電話を切った。

 真澄の声の変化をノートに書いた。


 「本当に取材?」という問い返し。声のトーン変化あり。「私が個人的にどうにかできることじゃない」という表現——個人的には何かを知っている可能性。「ちゃんと食べてる?」という唐突な質問。心配の表明か、別の意図か。


 書いてから、「別の意図か」という言葉を少し見た。

 真澄が私に対して「別の意図」を持つ理由は何か。

 考えが止まらなかった。


 夕方、スーパーへの帰り道、来栖と商店街で鉢合わせた。

 正確には、私が商店街の八百屋の前で立ち止まって値段を見ていたとき、来栖が自転車を押しながら横を通った。

 「あ」と来栖が言った。

 私も顔を上げた。朝のエントランスで会った日以来、二度目の接触だった。来栖は今日は私服だった。紺色のパーカーに、ジーンズ。

 「どうも」と私は言った。

 「どうも」と来栖は言った。

 それだけで、彼は通り過ぎていくかと思った。でも来栖は自転車を止めたまま、少しだけこちらを向いた。

 「あの」と来栖は言った。「二〇三号室の方ですよね」

 「そうです」

 「郵便物、先週間違えて俺の受け取り口に入ってたんで、エントランスに置いといたんですけど」

 「あ」と私は言った。確かに先週、エントランスの端に一通置かれていた。発信元を確認しないまま部屋に持ち帰っていた。「それ、あなたが置いてくれたんですね。ありがとうございます」

 「いや、別に」と来栖は言った。

 短い沈黙。

 「配達の仕事、されてるんですか」と私は聞いた。

 「昼は運送。夜はデリバリー」と来栖は答えた。「うるさくないですか、夜中に出入りして」

 「全然」

 「そっすか」と来栖は言った。「まあ、なるべく静かにしてるんですけど」

 「気にしてませんよ」

 来栖は軽く頷いて、自転車を押してまた歩き始めた。

 私はその背中を見た。

 紺色のパーカー。細い肩。自転車のタイヤが、湿ったアスファルトを踏む音。

 二十八歳の、運送とデリバリーを掛け持ちしている若い男。

 私はメモ帳を出して、何かを書こうとした。

 止めた。

 何を書くのか。

 来栖光一は、普通の人間だ。

 その判断が正しいかどうかを、私はまだ決定できなかった。でもメモを取ることをやめたのは、何か進歩した気がした。


 その夜、村瀬の部屋から声が聞こえた。

 今夜はいつもより早い時間だった。二十一時前。

 壁越しに聞こえる村瀬の声は、今夜は笑っていた。

 初めて聞く笑い声だった。

 くすくす、という抑えた笑い方ではなく、少し大きめの、本物の笑い声。何かを言って、また笑う。また言う。

 聞こえた言葉は断片的だった。

 「……だから言ったじゃん」

 「……そんなわけないって」

 「……バカじゃないの、もう」

 笑いながら「バカじゃないの」と言える相手がいる。

 私はその声を聞きながら、コーヒーを飲んでいた。

 以前の断片——「また来る」「困る」「言えない」——と、今夜の声が、同じ相手との会話だとしたら、全体像は何になるのか。

 倦怠期の恋人か。複雑な人間関係か。

 笑い声だけを聞いていると、それが何であるかを特定することはできなかった。

 でも今夜の声には、警戒する必要がないという印象があった。

 私はその印象を、メモ帳に書くかどうか少し考えて、書かなかった。


 翌朝、私は宇野時計店の前を通ったとき、引き戸が少し開いているのに気づいた。

 開店前の時間帯だった。九時を少し回ったくらい。

 引き戸の隙間から、店内の音が漏れていた。

 金属の音だった。

 細かい、精密な音。昼間に店の中でする作業の音は、夜中に聞こえる音とは質が違う。これは小さい部品を扱っている音だ。繊細で、軽い。

 私は立ち止まって、その音を聞いた。

 五秒ほど。

 そして歩いた。

 今朝の音は、仕事の音だ、と思った。

 夜中の音は、仕事の音ではないかもしれない。

 その思考の筋道が正しいかどうかを、私は確認できなかった。


 午後、仕事の原稿を一本書いた。

 今月の収入の見通しを計算した。寄稿料の合計が、家賃と生活費をわずかに上回る程度だった。今月は何とかなる。来月は、もう一本依頼が取れれば何とかなる。

 そういう生活を、三年間続けている。

 何とかなる、という見通しが、毎月更新される。何とかならなくなったとき、何が起きるのかを考えたことはあった。でもその先を考えると、答えがなかった。答えのないことを考えることに意味がないので、毎月「何とかなる」という見通しだけを確認して、次に進む。

 それが習慣になっていた。

 紺色のノートを開いた。

 「宇野誠について、私が知っていること」の続きに、今朝のリカさんの話を書き加えた。


 工房が移転の可能性あり。現在の工房は職人街(東方向)の廃業した職人が所有か使用させていたもの。大型時計(柱時計等)の修理に専用機械が必要。深夜の「重い荷物」は柱時計関連の部品か、あるいは柱時計本体の可能性。


 書いてから、最後の一文を読み返した。

 「柱時計本体の可能性」。

 柱時計を、深夜に、布に包んで運ぶ。

 それは変な話ではない。大型の時計を修理工房に運ぶためには、店が閉まっている夜に動くほうが都合がいいこともある。車を使わないのは、この地区に駐車スペースがないからかもしれない。

 すべてが説明できる。

 すべてに合理的な説明がつく。

 それでも私は、調べ続けていた。


 夜、薬を飲む前に窓の外を見た。

 宇野時計店の二階の明かりがついていた。住居部分だ。白いカーテン越しに、橙色の光が漏れていた。

 午後九時。

 宇野誠が、今夜も一人で夕食を食べているのかもしれない。あるいは本を読んでいるのかもしれない。テレビを見ているのかもしれない。

 五十五歳の男が、一人で夜を過ごしている。

 私が知ることのできない時間が、あのカーテンの向こうに続いている。

 知ることのできない時間。

 知ろうとすることと、知ることは、違う。

 私はそのことを、ぼんやり考えた。

 薬を飲んだ。

 ベッドに横になった。

 今夜は窓を見ないようにした。

 見ないようにすることも、一種の行為だ、と思いながら、目を閉じた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ