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夜の縁  作者: 鍵しっぽハンター
第二章「調査」

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9/9

第二話「職人街の夜」


 やってはいけないことをした夜のことを、正確に書く。

 十一月の十二日、火曜日だった。

 その夜は珍しく早く眠れた。薬を飲んで、二十二時には横になって、気づいたら眠っていた。熟睡していた、と言っていいと思う。夢も見なかった。

 目が覚めたのは、午前一時前だった。

 いつものように天井を見た。染みを確認した。

 窓の外を見た。

 裏口に灯りがついていた。

 宇野が出てきた。

 今夜は荷物を持っていた。大きな布包み。いつもと同じ形。両腕で前に抱えるようにして、路地を東に歩き始めた。

 私は起き上がった。

 コートを着た。

 靴を履いた。

 今夜は、止まらなかった。


 エントランスを出たのは、宇野が裏口を出てから五分後だった。

 五分空けた理由は、顔を見られたくなかったからだ。距離を取れば、暗い路地の中では人の顔は判別できない。背格好が同じような人間はいくらでもいる。

 路地に入った。

 東方向に、男の後ろ姿が見えた。

 遠かった。三十メートル以上。でも布包みを抱えたシルエットは、暗がりの中でも判別できた。

 私は歩いた。

 ゆっくりと。音を立てないように。靴底の薄いスニーカーを履いてきたのは、準備していたからではなく、単純に脱ぎ履きがしやすかったからだが、結果的に正解だった。

 男は振り向かなかった。

 前だけを見て、一定のペースで歩いた。荷物があるから速くは歩けない。体を少し傾けながら、腰に重さを預けるようにして歩いていた。

 私はその歩き方を見ながら、思った。

 この人は、この荷物を運ぶことに慣れている。

 慣れているということは、繰り返しているということだ。

 私は足音を殺しながら、距離を保って歩き続けた。

 公園の前を通った。ベンチが二脚。誰もいない。先月、一人で歩いたときに見た公園だ。

 道が細くなった。

 民家の壁が近くなった。

 男は迷わず歩いた。道を知っている歩き方だった。

 私は少しだけ速度を上げた。


 職人街に着いた。

 男が足を止めた。

 私も足を止めた。

 電柱の陰に体を寄せた。息を整えた。北陸の十一月の夜気が、肺に刺さるように冷たかった。

 男が向かったのは、職人街の並びの中の一軒だった。

 シャッターが下りた建物。看板がない。他の工房には「田村鉄工」「桐山木工所」と表示があるのに、その建物だけ、表示が外されていた。外された跡だけが、薄い長方形の影として残っていた。

 廃業した工房だ、と思った。

 男は建物の横の、小さなドアに鍵を挿した。

 ガチャリ、という音が、夜の静けさの中で思ったより大きく聞こえた。

 ドアが開いた。

 男が中に入った。

 灯りがついた。すりガラスの小窓が、白く光った。

 私は電柱の陰から動けなかった。

 ドアには鍵がかかっている。中に入ることはできない。

 いや、入ろうとしていたのか。

 入ろうとしていた気がした。でも鍵がかかっているから入れない、という事実が、入ろうとしていた自分を止めてくれた。

 私はそのことに、少し安堵した。

 鍵がかかっていなかったら、どうしていたか。

 答えは、出なかった。


 建物の前に立っていたのは、どのくらいだろう。

 寒さが本格的になってきたころ、すりガラスの窓に影が動くのが見えた。

 人の影だった。中で動いている。

 何かを運んでいるような動きだった。

 それからしばらくして、音がした。

 金属の、低い音。一度だけ、鈍く響いた。

 それきり、音は続かなかった。

 また、静かになった。

 私は立っていた。

 電柱の陰から、すりガラスの窓を見ていた。

 影が動くたびに、息を詰めていた。

 なぜ息を詰めているのか。

 自分でも、分からなかった。


 帰り道、スマートフォンで時刻を確認した。

 午前二時三十七分だった。

 私はアパートまで歩きながら、頭の中でその数字を処理した。

 出発したのが、宇野が裏口を出てから五分後だった。宇野が裏口を出た時刻を、私は部屋の時計で確認していた。

 あの時計は、一時前だと思っていた。

 でも今、スマートフォンの時刻は二時三十七分を示している。

 アパートから職人街まで、歩いて十二分。往復で二十四分。建物の前に立っていたのが、寒くなるまでの時間。

 寒くなるまでの時間、というのは曖昧だが、体感では三十分から四十分だった。

 計算すると、合わない。

 宇野が出たのが一時前で、私がついたのが十二分後の一時十二分ごろで、建物の前に四十分いたとすれば、帰りを歩いて十二分で、戻る時刻は二時四分ごろのはずだ。

 スマートフォンの時刻は二時三十七分。

 三十分以上、ずれている。

 私は歩きながら、計算を何度かやり直した。

 結果は変わらなかった。

 どこかで私の時間感覚がずれている。

 もしくは、宇野が裏口を出た時刻が、私の思っていた「一時前」よりずっと前だったのかもしれない。

 睡眠薬を飲んで目が覚めたとき、私はいつも「今が何時か」を時計で確認する。でも今夜は確認しなかった。急いでコートを着て出てきた。

 「一時前」という感覚は、感覚に過ぎなかった。

 時計を確認していなかった。

 私はアパートのエントランスに入りながら、メモ帳を出した。


 11/12(火)深夜 帰宅時刻:2:37。出発の正確な時刻、未確認。


 未確認、と書いた。

 書いてから、少し考えた。

 これまでのノートの記録にある「深夜2:23」「深夜1:52」「深夜1:14」という時刻は、どこまで正確なのか。

 部屋の時計で確認していた。でも部屋の時計が正確かどうかを、私は最後に確かめたのはいつだったか。

 記憶になかった。

 私は階段を上りながら、その不安を頭の端に置いた。

 置いたまま、眠った。


 翌朝、部屋の時計とスマートフォンの時刻を比較した。

 三分、部屋の時計が遅れていた。

 三分。

 三分の誤差では、昨夜の三十分のずれは説明できない。

 つまり昨夜のずれは、時計の誤差ではなく、私の時間感覚の問題だった。

 宇野が「一時前」に出た、という私の認識は、正確ではなかった可能性がある。

 私はノートを開いた。

 過去の目撃記録を見た。


 10/24(水)深夜2:23  10/28(日)深夜1:52  11/1(金)深夜1:17


 これらの時刻は、いずれも「部屋の時計を見て確認した」と思っていた。

 でも今朝、部屋の時計が三分遅れていると分かった。それは今に限った話ではなく、もしかしたらずっとそうだったかもしれない。

 三分の誤差は許容範囲だと思う。でも、気づいていない別の誤差が、ないとは言えなかった。

 睡眠薬を飲んで目が覚めた後の時間感覚は、通常より歪んでいる可能性がある。西川先生は「体質によっては中途覚醒することがある」と言ったが、中途覚醒した直後の知覚の精度については、何も言わなかった。

 私は「未確認」と書いた欄の横に、さらに小さく書き加えた。


 (過去の目撃時刻の正確性、要再考)


 書いてから、その文字を長く見た。

 「要再考」と書いた手が、少し重かった。


 その日の午後、八木さんと長い話をした。

 花店の軒先で、八木さんが鉢植えの菊を並べ直していた。私が通りかかると、「あら、桐島さん、ちょうどよかった」と声をかけてきた。

 「どうかしましたか」

 「いやね、今お茶でもと思ってたところなの。一人でお茶は寂しくて。ちょっとだけいい?」

 「はい」

 八木さんは店の奥から湯のみを二つ出してきた。お茶を入れながら、「寒くなったわねえ」と言った。

 「そうですね」

 「昨日ね、宇野さんが花を買いに来たの」と八木さんは言った。「珍しいでしょ、あの人が花を買うなんて」

 「珍しいんですか」

 「そうよ。奥さんが生きてらした頃は、お店に花が飾ってあってね。奥さんが毎週買いに来てたから。でも亡くなってからはぱったりで。まあ男の人って、花を飾る習慣がない人のほうが多いし、仕方ないわよねって思ってたんだけど」

 「昨日は何を?」と私は聞いた。

 「白い菊よ。お仏壇用かしらね。何も言わずに買って帰ったから。あの人、ほんとに無口でしょ」

 「そうですね」

 「でも昔はもう少し話す人だったのよ」と八木さんは言った。お茶を一口飲んで、遠くを見るような目をした。「奥さんが元気だった頃はね、お店の前でよく立ち話をして。宇野さん、照れ屋なのか、奥さんが話している間はずっと黙ってるんだけど、奥さんが席を外すとちょっとだけ話すの。今日は静江が、ってね。静江さん、って呼んでたの、下の名前で。今日は静江がね、って」

 八木さんが少し笑った。しわのある顔が、笑うとさらにしわになった。

 「どんな話を?」と私は聞いた。

 「そうねえ。今日は静江が面白いことを言って、とか。今日は静江が珍しく料理を失敗して、とか。内容はたいしたことないのよ。でも言い方がね、嬉しそうでしょ。自慢げで。その日一番いいことがあったのを、誰かに言いたくて仕方ない、みたいな感じで」

 「そうですか」

 「病気になってからは、話さなくなったわ。こっちから聞いても『まあ』とか『ええ』とか、そればかりで。亡くなってからは、もっとね」

 八木さんは湯のみを両手で包むように持った。

 「宇野さんって、あの奥さんしか見えてなかったのよ、きっと。そういう人いるでしょ、一人の人だけを、ずっと。ほかのことは何でもできる人なのに、その一点だけは替えがきかない。そういう人」

 私はお茶を一口飲んだ。

 熱かった。でも飲んだ。


 今日は静江がね。


 その言葉の言い方を、私は頭の中で再生した。

 嬉しそうで、自慢げで、誰かに言いたくて仕方ない。

 その男が、今は誰にも何も言わずに、深夜に一人で重い荷物を抱えて路地を歩いている。

 白い菊を、仏壇に供える。

 「奥さんが亡くなったのは、いつでしたっけ」と私は聞いた。

 「二年前の秋よ。ちょうど今頃の季節ね。十一月の、確か中頃だったかしら」

 今頃の季節。

 私はお茶を飲みながら、その言葉を頭に置いた。

 「ありがとうございました」と私は言って、立ち上がった。「またゆっくりお話しします」

 「いいのよ、いつでも。一人は寂しいから」と八木さんは言った。「あなたも、一人でしょ。お互い様ね」

 私はその言葉に、何か返そうとして、返せなかった。

 「またね」とだけ言って、店を出た。


 夜、紺色のノートを開いた。

 「宇野誠について、私が知っていること」のページに、今日の情報を書き加えた。


 白い菊を購入(11/12)。妻の命日が近い可能性(八木さん証言:11月中頃)。妻存命中は「今日は静江が」と頻繁に話していた→妻を中心に生活が組み立てられていた。妻の死後、完全に変化。


 書いてから、一行空けて書いた。


 昨夜、職人街の廃業工房(表示なし)に侵入確認。鍵を持っている。深夜の作業場として使用中と推定。工房の外から:金属音、一度のみ聞こえた。人影が動くのを確認。


 「侵入」と書くつもりはなかった。「訪問」と書こうとして、「侵入」と書いた。

 訂正しなかった。

 正確な言葉を使う、というのが私のルールだからだ。

 宇野が工房に入ったことは「訪問」でいい。私がその工房を尾行して確認したことは、他人の行動を無断で追跡したということだから、「侵入」とは言えないかもしれないが、「追跡」と呼ぶことが正確だ。

 「追跡」と書き直した。


 昨夜、職人街の廃業工房(表示なし)への追跡確認。


 「追跡」という言葉が、ノートの中にある。

 私はその言葉を、しばらく見ていた。


 深夜、また目が覚めた。

 今夜はスマートフォンを手に取った。

 午前一時二分。

 窓の外を見た。

 宇野時計店の裏口に、灯りはなかった。

 今夜は動きがない。

 私はメモ帳に書いた。


 11/13(水)1:02(スマートフォンにて確認) 灯りなし。動きなし。


 スマートフォンにて確認、と括弧書きで書いた。

 今夜から、時刻の確認はスマートフォンで行うことにした。

 部屋の時計は三分遅れている。小さな誤差だが、記録の正確性のためには統一した基準が必要だ。

 私はそれを、改善と呼んだ。

 改善のための変更だ。

 過去の記録の誤差については、後で検討する。今夜は今夜の記録を正確にすることだけを考える。

 ベッドに横になった。

 眠れた。


 翌朝の喫茶ハコニワ。

 カウンターに座って、コーヒーを飲んでいた。

 リカさんが水を補充しながら、「桐島さん、なんか疲れた顔してますよ」と言った。

 「そうですか」

 「昨日、眠れました?」

 「眠れました」と私は言った。「ちょっと夜中に起きて、また眠った感じで」

 「あー、それ、一番疲れが取れないやつですよね」とリカさんは言った。「私も夜勤バイトしてたとき、そういう感じで」

 「バイトしてたんですか」

 「学生のとき。コンビニの夜勤。生活は乱れるし、眠りも浅くなるし、体がなんか慢性的に重い感じで。今のシフトになってから、すごく楽になりました」

 リカさんがそこで少し間を置いた。

 「あの」とリカさんは言った。「変なこと聞いていいですか」

 「どうぞ」

 「桐島さん、最近、なんか調べてること、あります?」

 私はコーヒーカップをソーサーに戻した。

 「なぜですか」

 「なんとなく、そんな気がして。宇野さんのこと聞いてたし、商店街の工房のこととか。もし取材とかなら全然いいんですけど、なんか……」

 リカさんが言葉を止めた。

 その止め方が、前に「ただ」で止まったときと同じ止め方だった。

 「なんか、何ですか」と私は言った。

 リカさんはカウンターの端を右手の指先でそっと叩いた。考えているときの癖だ。

 「あの……桐島さん、宇野さんが何かしてると思ってますか」

 私は少し間を置いた。

 「何がですか」

 「いや……なんか、聞き方がよくなかったですね、ごめんなさい」とリカさんは言った。「ただ、桐島さんが宇野さんのこと心配してるのかな、と思って。心配してるならしてるで、なんか、理由があるのかなって」

 「心配、というより」と私は言った。「気になることがあって、確認しているというか」

 「気になること」とリカさんは繰り返した。

 「はい」

 リカさんはまた少し黙った。

 「桐島さん」とリカさんは言った。今度は少し声が低くなった。「あの、出すぎたことだと思うんですけど。本当にそう思いますか。宇野さんに、何かあると」

 その言葉が、空気の中に残った。

 私はその言葉を、一語一語確認した。


 本当にそう思いますか。


 リカさんは、私が何かを疑っていることに気づいている。そして、その「何か」に根拠があるかどうかを、聞いている。

 遠回しな問い方だが、聞いている。

 「確認中です」と私は言った。「まだ何も決めていない」

 「そうですか」とリカさんは言った。

 少し間があって、リカさんは別の客のオーダーを取りに行った。

 私はコーヒーを飲んだ。

 冷めていた。

 リカさんの言葉が、頭の中で繰り返された。


 本当にそう思いますか。


 本当に、そう思っているのか。

 私は、その問いに答えを持っていなかった。

 いや、持っていた。

 ただ、その答えを声に出すことを、私はまだしていなかった。


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