第二話「職人街の夜」
やってはいけないことをした夜のことを、正確に書く。
十一月の十二日、火曜日だった。
その夜は珍しく早く眠れた。薬を飲んで、二十二時には横になって、気づいたら眠っていた。熟睡していた、と言っていいと思う。夢も見なかった。
目が覚めたのは、午前一時前だった。
いつものように天井を見た。染みを確認した。
窓の外を見た。
裏口に灯りがついていた。
宇野が出てきた。
今夜は荷物を持っていた。大きな布包み。いつもと同じ形。両腕で前に抱えるようにして、路地を東に歩き始めた。
私は起き上がった。
コートを着た。
靴を履いた。
今夜は、止まらなかった。
エントランスを出たのは、宇野が裏口を出てから五分後だった。
五分空けた理由は、顔を見られたくなかったからだ。距離を取れば、暗い路地の中では人の顔は判別できない。背格好が同じような人間はいくらでもいる。
路地に入った。
東方向に、男の後ろ姿が見えた。
遠かった。三十メートル以上。でも布包みを抱えたシルエットは、暗がりの中でも判別できた。
私は歩いた。
ゆっくりと。音を立てないように。靴底の薄いスニーカーを履いてきたのは、準備していたからではなく、単純に脱ぎ履きがしやすかったからだが、結果的に正解だった。
男は振り向かなかった。
前だけを見て、一定のペースで歩いた。荷物があるから速くは歩けない。体を少し傾けながら、腰に重さを預けるようにして歩いていた。
私はその歩き方を見ながら、思った。
この人は、この荷物を運ぶことに慣れている。
慣れているということは、繰り返しているということだ。
私は足音を殺しながら、距離を保って歩き続けた。
公園の前を通った。ベンチが二脚。誰もいない。先月、一人で歩いたときに見た公園だ。
道が細くなった。
民家の壁が近くなった。
男は迷わず歩いた。道を知っている歩き方だった。
私は少しだけ速度を上げた。
職人街に着いた。
男が足を止めた。
私も足を止めた。
電柱の陰に体を寄せた。息を整えた。北陸の十一月の夜気が、肺に刺さるように冷たかった。
男が向かったのは、職人街の並びの中の一軒だった。
シャッターが下りた建物。看板がない。他の工房には「田村鉄工」「桐山木工所」と表示があるのに、その建物だけ、表示が外されていた。外された跡だけが、薄い長方形の影として残っていた。
廃業した工房だ、と思った。
男は建物の横の、小さなドアに鍵を挿した。
ガチャリ、という音が、夜の静けさの中で思ったより大きく聞こえた。
ドアが開いた。
男が中に入った。
灯りがついた。すりガラスの小窓が、白く光った。
私は電柱の陰から動けなかった。
ドアには鍵がかかっている。中に入ることはできない。
いや、入ろうとしていたのか。
入ろうとしていた気がした。でも鍵がかかっているから入れない、という事実が、入ろうとしていた自分を止めてくれた。
私はそのことに、少し安堵した。
鍵がかかっていなかったら、どうしていたか。
答えは、出なかった。
建物の前に立っていたのは、どのくらいだろう。
寒さが本格的になってきたころ、すりガラスの窓に影が動くのが見えた。
人の影だった。中で動いている。
何かを運んでいるような動きだった。
それからしばらくして、音がした。
金属の、低い音。一度だけ、鈍く響いた。
それきり、音は続かなかった。
また、静かになった。
私は立っていた。
電柱の陰から、すりガラスの窓を見ていた。
影が動くたびに、息を詰めていた。
なぜ息を詰めているのか。
自分でも、分からなかった。
帰り道、スマートフォンで時刻を確認した。
午前二時三十七分だった。
私はアパートまで歩きながら、頭の中でその数字を処理した。
出発したのが、宇野が裏口を出てから五分後だった。宇野が裏口を出た時刻を、私は部屋の時計で確認していた。
あの時計は、一時前だと思っていた。
でも今、スマートフォンの時刻は二時三十七分を示している。
アパートから職人街まで、歩いて十二分。往復で二十四分。建物の前に立っていたのが、寒くなるまでの時間。
寒くなるまでの時間、というのは曖昧だが、体感では三十分から四十分だった。
計算すると、合わない。
宇野が出たのが一時前で、私がついたのが十二分後の一時十二分ごろで、建物の前に四十分いたとすれば、帰りを歩いて十二分で、戻る時刻は二時四分ごろのはずだ。
スマートフォンの時刻は二時三十七分。
三十分以上、ずれている。
私は歩きながら、計算を何度かやり直した。
結果は変わらなかった。
どこかで私の時間感覚がずれている。
もしくは、宇野が裏口を出た時刻が、私の思っていた「一時前」よりずっと前だったのかもしれない。
睡眠薬を飲んで目が覚めたとき、私はいつも「今が何時か」を時計で確認する。でも今夜は確認しなかった。急いでコートを着て出てきた。
「一時前」という感覚は、感覚に過ぎなかった。
時計を確認していなかった。
私はアパートのエントランスに入りながら、メモ帳を出した。
11/12(火)深夜 帰宅時刻:2:37。出発の正確な時刻、未確認。
未確認、と書いた。
書いてから、少し考えた。
これまでのノートの記録にある「深夜2:23」「深夜1:52」「深夜1:14」という時刻は、どこまで正確なのか。
部屋の時計で確認していた。でも部屋の時計が正確かどうかを、私は最後に確かめたのはいつだったか。
記憶になかった。
私は階段を上りながら、その不安を頭の端に置いた。
置いたまま、眠った。
翌朝、部屋の時計とスマートフォンの時刻を比較した。
三分、部屋の時計が遅れていた。
三分。
三分の誤差では、昨夜の三十分のずれは説明できない。
つまり昨夜のずれは、時計の誤差ではなく、私の時間感覚の問題だった。
宇野が「一時前」に出た、という私の認識は、正確ではなかった可能性がある。
私はノートを開いた。
過去の目撃記録を見た。
10/24(水)深夜2:23 10/28(日)深夜1:52 11/1(金)深夜1:17
これらの時刻は、いずれも「部屋の時計を見て確認した」と思っていた。
でも今朝、部屋の時計が三分遅れていると分かった。それは今に限った話ではなく、もしかしたらずっとそうだったかもしれない。
三分の誤差は許容範囲だと思う。でも、気づいていない別の誤差が、ないとは言えなかった。
睡眠薬を飲んで目が覚めた後の時間感覚は、通常より歪んでいる可能性がある。西川先生は「体質によっては中途覚醒することがある」と言ったが、中途覚醒した直後の知覚の精度については、何も言わなかった。
私は「未確認」と書いた欄の横に、さらに小さく書き加えた。
(過去の目撃時刻の正確性、要再考)
書いてから、その文字を長く見た。
「要再考」と書いた手が、少し重かった。
その日の午後、八木さんと長い話をした。
花店の軒先で、八木さんが鉢植えの菊を並べ直していた。私が通りかかると、「あら、桐島さん、ちょうどよかった」と声をかけてきた。
「どうかしましたか」
「いやね、今お茶でもと思ってたところなの。一人でお茶は寂しくて。ちょっとだけいい?」
「はい」
八木さんは店の奥から湯のみを二つ出してきた。お茶を入れながら、「寒くなったわねえ」と言った。
「そうですね」
「昨日ね、宇野さんが花を買いに来たの」と八木さんは言った。「珍しいでしょ、あの人が花を買うなんて」
「珍しいんですか」
「そうよ。奥さんが生きてらした頃は、お店に花が飾ってあってね。奥さんが毎週買いに来てたから。でも亡くなってからはぱったりで。まあ男の人って、花を飾る習慣がない人のほうが多いし、仕方ないわよねって思ってたんだけど」
「昨日は何を?」と私は聞いた。
「白い菊よ。お仏壇用かしらね。何も言わずに買って帰ったから。あの人、ほんとに無口でしょ」
「そうですね」
「でも昔はもう少し話す人だったのよ」と八木さんは言った。お茶を一口飲んで、遠くを見るような目をした。「奥さんが元気だった頃はね、お店の前でよく立ち話をして。宇野さん、照れ屋なのか、奥さんが話している間はずっと黙ってるんだけど、奥さんが席を外すとちょっとだけ話すの。今日は静江が、ってね。静江さん、って呼んでたの、下の名前で。今日は静江がね、って」
八木さんが少し笑った。しわのある顔が、笑うとさらにしわになった。
「どんな話を?」と私は聞いた。
「そうねえ。今日は静江が面白いことを言って、とか。今日は静江が珍しく料理を失敗して、とか。内容はたいしたことないのよ。でも言い方がね、嬉しそうでしょ。自慢げで。その日一番いいことがあったのを、誰かに言いたくて仕方ない、みたいな感じで」
「そうですか」
「病気になってからは、話さなくなったわ。こっちから聞いても『まあ』とか『ええ』とか、そればかりで。亡くなってからは、もっとね」
八木さんは湯のみを両手で包むように持った。
「宇野さんって、あの奥さんしか見えてなかったのよ、きっと。そういう人いるでしょ、一人の人だけを、ずっと。ほかのことは何でもできる人なのに、その一点だけは替えがきかない。そういう人」
私はお茶を一口飲んだ。
熱かった。でも飲んだ。
今日は静江がね。
その言葉の言い方を、私は頭の中で再生した。
嬉しそうで、自慢げで、誰かに言いたくて仕方ない。
その男が、今は誰にも何も言わずに、深夜に一人で重い荷物を抱えて路地を歩いている。
白い菊を、仏壇に供える。
「奥さんが亡くなったのは、いつでしたっけ」と私は聞いた。
「二年前の秋よ。ちょうど今頃の季節ね。十一月の、確か中頃だったかしら」
今頃の季節。
私はお茶を飲みながら、その言葉を頭に置いた。
「ありがとうございました」と私は言って、立ち上がった。「またゆっくりお話しします」
「いいのよ、いつでも。一人は寂しいから」と八木さんは言った。「あなたも、一人でしょ。お互い様ね」
私はその言葉に、何か返そうとして、返せなかった。
「またね」とだけ言って、店を出た。
夜、紺色のノートを開いた。
「宇野誠について、私が知っていること」のページに、今日の情報を書き加えた。
白い菊を購入(11/12)。妻の命日が近い可能性(八木さん証言:11月中頃)。妻存命中は「今日は静江が」と頻繁に話していた→妻を中心に生活が組み立てられていた。妻の死後、完全に変化。
書いてから、一行空けて書いた。
昨夜、職人街の廃業工房(表示なし)に侵入確認。鍵を持っている。深夜の作業場として使用中と推定。工房の外から:金属音、一度のみ聞こえた。人影が動くのを確認。
「侵入」と書くつもりはなかった。「訪問」と書こうとして、「侵入」と書いた。
訂正しなかった。
正確な言葉を使う、というのが私のルールだからだ。
宇野が工房に入ったことは「訪問」でいい。私がその工房を尾行して確認したことは、他人の行動を無断で追跡したということだから、「侵入」とは言えないかもしれないが、「追跡」と呼ぶことが正確だ。
「追跡」と書き直した。
昨夜、職人街の廃業工房(表示なし)への追跡確認。
「追跡」という言葉が、ノートの中にある。
私はその言葉を、しばらく見ていた。
深夜、また目が覚めた。
今夜はスマートフォンを手に取った。
午前一時二分。
窓の外を見た。
宇野時計店の裏口に、灯りはなかった。
今夜は動きがない。
私はメモ帳に書いた。
11/13(水)1:02(スマートフォンにて確認) 灯りなし。動きなし。
スマートフォンにて確認、と括弧書きで書いた。
今夜から、時刻の確認はスマートフォンで行うことにした。
部屋の時計は三分遅れている。小さな誤差だが、記録の正確性のためには統一した基準が必要だ。
私はそれを、改善と呼んだ。
改善のための変更だ。
過去の記録の誤差については、後で検討する。今夜は今夜の記録を正確にすることだけを考える。
ベッドに横になった。
眠れた。
翌朝の喫茶ハコニワ。
カウンターに座って、コーヒーを飲んでいた。
リカさんが水を補充しながら、「桐島さん、なんか疲れた顔してますよ」と言った。
「そうですか」
「昨日、眠れました?」
「眠れました」と私は言った。「ちょっと夜中に起きて、また眠った感じで」
「あー、それ、一番疲れが取れないやつですよね」とリカさんは言った。「私も夜勤バイトしてたとき、そういう感じで」
「バイトしてたんですか」
「学生のとき。コンビニの夜勤。生活は乱れるし、眠りも浅くなるし、体がなんか慢性的に重い感じで。今のシフトになってから、すごく楽になりました」
リカさんがそこで少し間を置いた。
「あの」とリカさんは言った。「変なこと聞いていいですか」
「どうぞ」
「桐島さん、最近、なんか調べてること、あります?」
私はコーヒーカップをソーサーに戻した。
「なぜですか」
「なんとなく、そんな気がして。宇野さんのこと聞いてたし、商店街の工房のこととか。もし取材とかなら全然いいんですけど、なんか……」
リカさんが言葉を止めた。
その止め方が、前に「ただ」で止まったときと同じ止め方だった。
「なんか、何ですか」と私は言った。
リカさんはカウンターの端を右手の指先でそっと叩いた。考えているときの癖だ。
「あの……桐島さん、宇野さんが何かしてると思ってますか」
私は少し間を置いた。
「何がですか」
「いや……なんか、聞き方がよくなかったですね、ごめんなさい」とリカさんは言った。「ただ、桐島さんが宇野さんのこと心配してるのかな、と思って。心配してるならしてるで、なんか、理由があるのかなって」
「心配、というより」と私は言った。「気になることがあって、確認しているというか」
「気になること」とリカさんは繰り返した。
「はい」
リカさんはまた少し黙った。
「桐島さん」とリカさんは言った。今度は少し声が低くなった。「あの、出すぎたことだと思うんですけど。本当にそう思いますか。宇野さんに、何かあると」
その言葉が、空気の中に残った。
私はその言葉を、一語一語確認した。
本当にそう思いますか。
リカさんは、私が何かを疑っていることに気づいている。そして、その「何か」に根拠があるかどうかを、聞いている。
遠回しな問い方だが、聞いている。
「確認中です」と私は言った。「まだ何も決めていない」
「そうですか」とリカさんは言った。
少し間があって、リカさんは別の客のオーダーを取りに行った。
私はコーヒーを飲んだ。
冷めていた。
リカさんの言葉が、頭の中で繰り返された。
本当にそう思いますか。
本当に、そう思っているのか。
私は、その問いに答えを持っていなかった。
いや、持っていた。
ただ、その答えを声に出すことを、私はまだしていなかった。




