第六話「音の出所」
時計を受け取りに行ったのは、預けてから三日後だった。
約束通り、明後日には、と宇野は言っていた。明後日というのは火曜日だったが、私は木曜日になってから行った。急いで取りに行く理由がなかったし、急いで行きたくない理由があった。
急いで行きたくない理由。
それを正直に書くなら、店に入ることで宇野に顔を覚えられることへの、わずかな抵抗感だった。すでに一度入って、名前と電話番号を書いた。顔も見られた。でもそれは用件があったからだ。二度目に入れば、この辺に住んでいる客として認識される。
認識されることが、なぜ抵抗なのか。
その問いに、私は答えを持っていなかった。
ただ、今の自分の立場を考えると、店主に顔を覚えられることが、何かを変える気がした。観察する側と観察される側の、輪郭が滲む感じ。
でも時計は返してもらわなければならないので、行った。
引き戸を開けると、前回と同じ鈴の音がした。
店内は前回より少し暗く感じた。曇天のせいか、昼間なのに照明が必要な暗さだった。壁の時計たちが、相変わらず微妙にずれたリズムで動いていた。
奥から宇野が出てきた。
今日は眼鏡を外していた。私の顔を見て、一瞬だけ何かを確認するような間があって、それから作業台のほうに戻っていった。
「少々お待ちください」
待った。
店内をゆっくり見た。
前回は緊張していて細部まで見る余裕がなかったが、今日は落ち着いて見ることができた。壁の棚に並ぶ時計は、よく見ると二種類あった。完動品と、おそらく部品取り用の、動かないものだ。動かないものにはそれとわかる小さなラベルが貼ってあった。宇野の手書きだろう、細かい字で何かが書かれていた。遠くて読めなかった。
作業台の上の写真立てを、今日は少し長く見た。
水辺で笑っている女性。前回と同じ写真。
でも今日、もう一つ気づいたことがあった。
写真立ての隣に、小さな置物があった。陶器か磁器か、丸い形の白い置物。動物の形をしているようだった。うさぎ、か何か。
それは写真立てと並んで置かれていた。
意図して並べている、という配置だった。
「お待たせしました」
宇野が腕時計を持って戻ってきた。
「充電板の汚れを取りました。電池の容量も確認しましたが、まだ問題ないですね。ただ、パネルは定期的に拭いておいてください。指紋や埃が積もると充電効率が下がります」
「わかりました。ありがとうございます」
宇野は料金を告げた。千八百円だった。
私は財布から出して、ショーケースの上に置いた。宇野は受け取って、小さな手書きの領収書を渡してくれた。
「あの、」と私は言った。
自分でも驚いた。
言う予定はなかった。言わなかったほうがよかった、と言いながら思った。でも口から出てしまったから、続けた。
「時計、たくさんありますね。壁の」
宇野は私を見た。
「みんな動いてるんですか」と私は聞いた。
「動いているものは動いています」と宇野は言った。「直せなかったものはそのままです」
「直せないこともあるんですか」
「部品がない場合は」と宇野は言った。「古いものは部品を作るしかないですが、私には作れないものもある」
「そうですか」
宇野は少し間を置いた。何か続けるかと思ったが、続けなかった。視線が作業台のほうへ流れた。仕事に戻りたい、という意思表示だとわかった。
私は「失礼しました」と言って、店を出た。
引き戸を閉めた瞬間に、後悔した。
なぜ話しかけた。
時計を受け取って、料金を払って、出ればよかった。それだけでよかった。なぜ「時計、たくさんありますね」などと言ったのか。
でも考えてみれば、その発言自体は何でもない。客が店主に話しかける、ごく普通のことだ。
私が後悔しているのは、その内容ではなかった。
話しかけたことで、宇野に「この人は少し話す人だ」という印象を与えてしまったことへの後悔だった。
一度印象がつくと、次から変えにくい。
次、と私は思った。
次があることを、前提にしている。
私はその前提を、立ち止まってじっくり確認した。
次に何のために行くのか。時計は直った。もう用件はない。それなのに「次」を考えている。
私は商店街の表通りを歩いた。
八木花店の前を通った。今日は八木さんの姿がなかった。店先に水仙が並んでいた。秋の終わりに咲く品種があるのかもしれなかった。
私は足を止めずに歩いた。
その夜、来栖が深夜に出ていくのを見た。
時計は二十二時四十分だった。
一階のエントランスから来栖が出てきた。今夜はフードデリバリーの装備をしていた。背中に大きなバッグ。ヘルメット。自転車の鍵。
商店街の方向へ歩いていった。
私はメモ帳に書いた。
11/7(木)22:40 来栖、配達装備にて外出。方向:商店街(東)。
東。
宇野が向かう方向と同じだ。
でも今夜、宇野時計店の裏口に灯りはついていない。
私は窓から商店街の方向を見た。
建物が邪魔をして、商店街の裏通りは見えない。来栖がどのルートを通っているかを確認することは、この窓からはできない。
確認するためには、外に出るしかなかった。
私は少し、考えた。
出ることは簡単だ。コートを着て、外に出て、商店街の裏通りを歩けばいい。来栖の動線を確認できる。
でも、それは何のためか。
来栖の配達ルートを確認することで、何が明らかになるのか。
何も明らかにならない、かもしれない。
あるいは、何かが明らかになるかもしれない。
私はコートを着た。
靴を履いた。
でもドアノブに手をかけたところで、止まった。
深夜に、隣人の動線を追いかけるために外に出る。
それを、記者時代の私が見たら何と言うか。
「追いかける前に、追いかける理由を言語化してください」と言うだろう。
私には言語化できなかった。来栖光一の配達ルートを確認する、具体的な理由が。宇野との関係を証明したいなら、まず宇野自身に何か問題があることを示す必要がある。来栖は宇野の周辺にいるだけだ。周辺にいることは、関係があることを意味しない。
私はコートを脱いだ。
靴を脱いだ。
机に戻って、ノートを開いた。
「確認しているのか。確信を補強しているのか」という、昨日書いた問いを読んだ。
答えを、今夜は書こうとした。
ペンを持った。
でも書けなかった。
ノートを閉じた。
翌日の昼、時計店の前を通ったとき、宇野が外に出てくるところに出くわした。
偶然だった。
宇野は上着を着て、表通りに出てきた。私と目が合った。一瞬だけ。宇野は軽く頷いた。昨日の客として認識している、ということだ。
私も頷いた。
宇野はセブンイレブンの方向へ歩いていった。
私はその背中を、少しの間だけ目で追った。
五十五歳の男の背中。少し丸い。作業着の肩が、歩くたびにわずかに揺れる。
セブンイレブン。
時計店の向かいにある、コンビニだ。
よく考えれば当たり前のことだが、宇野はコンビニで昼食を買うこともあるのだろう。それは普通のことだ。
私は歩き続けた。
宇野の向かったコンビニの前を通った。
入口の外に、見慣れないものがあった。
灰皿だった。コンビニの入口脇に置かれた、缶の灰皿。そのそばに、男が立っていた。四十代くらいの男で、煙草を吸っていた。私の知らない人間だった。
でも、私が気づいたのはその男ではなかった。
コンビニの外壁に、カメラがついていた。
正確には、前からあったのかもしれない。ただ今日初めて、意識してそれを見た。
黒い小型のカメラ。外向きについていた。商店街の表通りをある程度カバーする角度だった。
コンビニの防犯カメラだ。
私は歩きながら、そのカメラを見た。
角度から考えると、宇野時計店の表側と、その周辺の表通りが映っている可能性があった。表通りの映像だから、裏口は映らない。
でも。
私はカメラを見ながら、通り過ぎた。
見ながら、何も考えなかった。
カメラの存在を認識して、通り過ぎた。
それだけだった。
その後、その映像のことを思い出したのは、ずっとずっと後のことだった。
その夜、八木さんに再会した。
夕方、スーパーへの帰り道だった。商店街の端のほうで、八木さんが宇野時計店の前に立っていた。表通りから入口のほうを覗くように見ていた。
「八木さん」と私は声をかけた。
八木さんが振り向いた。「あら、桐島さん。お買い物?」
「はい。八木さんは?」
「時計を出してるの」と八木さんは言った。「夫の形見のね、置き時計を。三十年ものよ。最近、十五分くらいずれるようになって。宇野さん、もう閉めちゃったかしら」
時計を見た。十八時二十分。
「まだ灯りがついてますよ」と私は言った。
「ほんと? よかった。じゃあ寄っていこうかしら」
八木さんは引き戸を開けようとして、振り返った。
「そういえばね、今朝も音がしたの。夜中に」
「音、ですか」
「ええ。向かいのマンションに住んでる川本さんって方が言ってたの。昨夜もかなり遅い時間に、金属の音がしたって。宇野さんって本当に夜型なのかしらね。職人さんって夜に集中するのかしら」
「昨夜も?」と私は言った。
「ええ、そう言ってたわ。毎晩じゃないけど、週に何度かはあるって」
「川本さん、というのは」
「向かいのマンション、三階の方よ。私も直接は知らないけど、同じ商店会だから挨拶くらいはするの。どうしてもよく聞こえるって言ってたわよ、夜中だから静かでしょ、窓を開けてると響くって」
「音の種類は、金属を削るような感じですか」
八木さんは少し考えた。「さあ、詳しくは聞いてないけど……何かを擦るような音、とかかしら。一定のリズムじゃなくて、不規則なの。研いでるとか、磨いてるとか、そういう感じって言ってたかな」
磨いている。
私はその言葉を頭に入れた。
「そう」と私は言った。声が平板にならないように気をつけた。「ありがとうございます。時計、直してもらえるといいですね」
「そうよね。宇野さん、腕はいいから。じゃあね」
八木さんは時計店に入っていった。
引き戸が閉まった。
私は立ったまま、少しの間そこにいた。
磨いている。金属を。深夜に。不規則なリズムで。
時計の部品を磨いているのかもしれない。それは職人として自然なことだ。
でも、深夜に、不規則なリズムで、磨き続ける対象が、時計の部品である必要があるか。
私は歩き始めた。
スーパーの袋が少し重かった。
夜、ノートに向かった。
「磨いている」という情報を書き加えた。
書き加えながら、自分の手の動きを見た。
ペンが走っている。
情報を書き留めることに、今は何も感じなくなっていた。最初の頃は「これは記録か、調査か」と問い直しながら書いていた。でも今は、問い直さずに書いている。
いつから問い直さなくなったか。
分からなかった。
でも、あの夜——昨夜、コートを着て靴を履いて、でも外に出なかった夜——あの瞬間に何かが変わった気がした。出なかったことが、変化の証明だ、と私は思った。自分を止めた。それは正しい行為だった。
でも止めたのは「行動」だけで、「考えること」は止めていない。
考え続けている。
磨いている。深夜に。不規則に。
写真立ての隣の、白い置物。うさぎの形。
妻が好きだったものか。妻が残したものか。
秋刀魚を見るのがつらいと言った男が、妻の形見のものを作業台の脇に置いて、深夜に何かを磨いている。
考えてはいけない方向に、頭が向いている。
私はノートを閉じた。
今夜は書くのをやめよう、と思った。
窓の外を見ないようにしよう、と思った。
薬を飲んで、ベッドに横になった。
目を閉じた。
午前一時ごろ、音で目が覚めた。
雨ではなかった。
金属の音だった。
かすかな、遠い音。規則的ではなく、止まってはまた始まる、断続的な音。
私はベッドに横になったまま、耳を傾けた。
窓は閉めていた。閉めていても、聞こえた。夜の静けさが、音を運んでくる。
何かを磨いている音だった。
そう思った瞬間に、起き上がっていた。
窓に近づいた。
カーテンの端を持った。
裏口に灯りがついていた。
ドアは閉まっていた。宇野は外に出ていなかった。でも灯りはついていた。
音は店の中から来ていた。
深夜に、店の中で、何かを磨いている。
私は窓の前に立ったまま、しばらく音を聞いた。
止まった。また始まった。また止まった。
その音の質が、金属同士を擦り合わせるような、密度のある音だった。柔らかくはなかった。硬い素材を、布か何かで磨いているような音だった。
時計の部品を磨く音は、もっと細かく、繊細な音のはずだ。
これは、もっと大きなものを磨く音だ。
私はその判断が正しいかどうか分からなかった。時計職人が実際にどんな音を立てて作業するか、私には知識がない。大きな音が大きなものを意味するとは限らない。
でも頭の中で、その音が何かの輪郭と重なった。
大きな、金属の、何か。
私はメモ帳を手に取った。
11/8(金)深夜1:03頃 時計店内から金属を磨くような音。宇野は外に出ず、店内で作業している模様。音の性質:断続的、不規則、硬い素材に対する研磨音のような。時計部品の作業音とは異なる可能性あり(未確認)。
「未確認」と書いた。
それが今の私に、できる最大の誠実さだった。
翌朝、私は喫茶ハコニワに行かなかった。
珍しいことだった。半年間、ほぼ毎日行っていた。
なぜ行かなかったか。
リカさんに話しかけられたくなかったからだ、と気づいたのは、昼過ぎに一人でインスタントコーヒーを飲んでいるときだった。
話しかけられると、何かを言いたくなる。
昨夜の音のこと。時計店の中で聞こえた、何かを磨く音。それを話したい、という欲求が自分の中にある、ということに気づいた。
その欲求を、私は持てあましていた。
話すことは、話した内容を現実として固めることだ。頭の中にある考えは、まだ考えだ。でも誰かに語った瞬間に、それは「語られた事実」になる。語ることで、自分の認識が強化される。
三年前も、そうだった。
同期の別の記者に「絶対に何かある」と話してしまった夜、私の中で何かが固まった。それが確信を不可逆にした最初の瞬間だったかもしれない、と今は思う。
だから今日は、リカさんに話しかけなかった。
話しかけないために、行かなかった。
それが正しいことかどうかは、分からなかった。
でも、少なくとも、自分が何かに抗おうとしている、ということは分かった。
夕方、父から電話があった。
珍しいことだった。父はいつもメールで、電話してくることはほとんどない。
「奈緒か」
「うん、お父さん」
「返信くれたね」
「うん」
「変わりなく、って書いてたな」
「うん」
短い間があった。
「本当に変わりないか」と父は聞いた。
高校の教師だった人間の問いかけ方だ、と私は思った。答えを急かさない。でも答えを待っている。
「まあ」と私は言った。
「そうか」
また短い間。
「奈緒、昔から、一つのことに集中しすぎるところがあったから」と父は言った。「心配しているわけじゃないけど。ただ、たまに思い出す。中学の頃のこととか」
「中学の頃?」
「あの隣の家のことを覚えているか。岡田さんの家」
私は少し考えた。
「何かあったっけ」
「奈緒が、あの家の息子さんが万引きをしていると思い込んだことがあっただろう。三ヶ月くらい、観察して記録して。結局、違ったけど」
私は黙った。
「忘れたか」と父は言った。「奈緒は当時、本当に確信してたからな。先生に話しに行こうとしたのを止めたのを覚えてる」
「覚えてない」と私は言った。
「そうか」と父は言った。声が少し柔らかくなった。「別に責めているわけじゃないよ。ただ、一人でいると、そういうことが起きやすいかと思って。誰かに話を聞いてもらうのが一番いいんだが」
「分かった」と私は言った。
「体に気をつけろよ」
「うん」
電話を切った。
部屋の中が静かだった。
岡田さんの家の息子。中学生のとき。三ヶ月間、観察して記録した。
覚えていなかった。
本当に、覚えていなかった。
私は机の上に積んだノートを見た。今回のノート。三週間分。
覚えていないのか、と私は思った。
それとも、忘れようとしていたのか。
答えは、自分の中にしかなかった。




