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夜の縁  作者: 鍵しっぽハンター
第一章「亀裂」

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第五話「静江という名前」

 宇野時計店に入ったのは、十一月の最初の週の、曇った午前中だった。


 口実は用意してあった。


 三年前から使っているソーラー式の腕時計が、最近少し遅れるようになっていた。充電式の電池が劣化しているのか、それとも別の原因があるのか、私には判断できなかった。時計屋に持っていけばいい、という話で、それを宇野時計店に持っていく理由として使うことにした。


 正当な用件だ、と私は思った。


 商店街の表通りに面した宇野時計店の引き戸を、私は初めて開けた。


 澄んだ音がした。


 入口の上に小さな鈴がついていて、それが鳴った。乾いた金属の音だった。その音が店内に吸い込まれて、静かになった。


 店の中は、思っていたより広かった。


 正面にガラスのショーケース。中に腕時計が数十本、布の台座の上に並んでいる。新品ではない。修理済みのものか、あるいは下取りしたものか。値段は書かれていなかった。


 壁の棚には置き時計や掛け時計が並んでいた。どれも動いていた。秒針の音が、微妙にずれながら重なっていた。まったく揃わず、かといってバラバラでもない、あの独特のリズム。


 奥に作業台があった。ルーペをつけたスタンドライト。小さな工具類。ねじや部品が小さな容器に入って並んでいた。


 その作業台の上に、写真立てがあった。


 ひとつだけ。


 木製のフレームに入った、縦長の写真。


 少し距離があって、細部は見えなかった。でも、女性が写っていることはわかった。


 「いらっしゃいませ」


 奥から宇野誠が出てきた。


 作業用のエプロンをしていた。手に何かの部品を持っていた。五十代半ばの男。白髪交じりの短い髪。眼鏡。背は私より少し高い程度。表情は、穏やかでも険しくもなかった。ただ、そこにあった。


 「時計の調子が悪くて」と私は言って、腕時計を外してショーケースの上に置いた。「ソーラー式なんですが、最近少し遅れるようで」


 宇野は作業台に部品を置いてから、カウンターに来た。腕時計を手に取った。


 無言だった。


 ルーペをかけた。時計を傾けて、文字盤を見た。裏返して、裏蓋を見た。ケースの縁を確認した。そのすべての動作が、無駄がなかった。


 「充電板に汚れがありますね」と宇野は言った。声は低かった。「ソーラーパネルの部分です。拭けば直るかもしれないですが、電池の劣化も確認したほうがいいので、少し預からせてください」


 「いつ頃になりますか」


 「明後日には」


 「わかりました」


 宇野は台帳を出して、名前と電話番号を書くように促した。


 私は「桐島奈緒」と書いた。電話番号を書いた。


 宇野はそれを確認して、受付票を一枚渡してくれた。


 「何かご不明な点があれば」という言葉がなかった。「またどうぞ」もなかった。ただ、台帳を閉じて、作業台に戻っていった。


 私はカウンターのあたりに、少し留まった。


 もう少し、店内を見ておきたかった。


 壁に並ぶ時計たち。棚の置き時計。そして奥の作業台の上の写真立て。


 写真立ての女性は、笑っていた。


 海か湖か、水辺の景色の前で立って、こちらを向いて笑っていた。カジュアルな服装。年齢は四十代に見えた。


 宇野の背中がそこにあった。


 作業台に向かって、細かい部品を手元に寄せていた。


 写真と、背中と。


 その二つの間にある距離が、何かを語っているような気がした。


 でも何を語っているのかは、私には分からなかった。


 私は店を出た。




 外に出ると、北陸の冬の気配がした。


 十一月の初旬はまだ雪にはならないが、空気の冷え方が変わる。奥行きのある冷たさになる。息を吸うと肺の奥まで冷える、あの感覚。


 私は商店街の表通りを少し歩いて、立ち止まった。


 店内を振り返った。


 引き戸のガラス越しに、宇野の背中が見えた。まだ作業台に向かっていた。動かなかった。黙々と、手元を動かしていた。


 あの人は、一人で生きている。


 そういうことを、初めて実感として感じた。


 妻が死んで、従業員も辞めて、一人で店を続けている。朝に店を開けて、時計を直して、夜に閉める。それだけの生活を、毎日続けている。


 私の生活と、何が違うのか。


 私も一人だ。誰かが隣にいるわけではない。仕事をして、飯を食って、眠る。


 でも私と宇野の間には、何か根本的な違いがある気がした。


 宇野には「誰かがいた」という過去がある。


 私には、誰かがいた過去が、ある。


 三年前まで。


 柏木誠という男がいた。




 柏木誠のことを、私はほとんど考えないようにしていた。


 考えないようにする、という意識的な行為ではなく、ただ自然に遠ざかっていた。遠ざかるのを許していた、と言ったほうが正確かもしれない。


 彼と付き合い始めたのは私が二十九歳のときで、彼は三十二歳だった。北陸日報の広告部の人間で、同じ会社だった。


 三年つきあって、婚約した。


 誤報事件があった。


 その翌月、彼は婚約を解消した。


 「しばらく、距離を置きたい」という言葉だった。距離を置きたい、という言葉は、別れるという意味だということを、私は知っていた。記者は言葉を仕事にする。言葉の裏を読む。「距離を置く」が「終わり」を意味することは、最初から分かっていた。


 分かっていたから、何も言えなかった。


 「分かった」と言った。


 それだけだった。


 彼が何を感じていたかは、今もわからない。誤報を出した婚約者を持つことへの世間の目を恐れたのか。それとも、誤報を起こすような判断力の欠如を、私の本質的な問題として捉えたのか。あるいは、もっと別の、私が気づいていない何かがあったのか。


 聞けなかった。


 聞く必要もなかった、と今は思う。理由が分かっても、結果は変わらない。


 ただ一つ、ずっと考えていることがある。


 彼は私を、最後まで愛してくれたのか。


 愛していたなら、誤報だけで別れるはずがない。それとも、誤報はきっかけに過ぎなくて、もともとそれほど強くない感情だったのか。


 その問いに答えはない。


 でもその問いが、三年間、私の中にある。




 喫茶ハコニワに入った。


 リカさんがコーヒーを運んできたとき、私は「時計屋さんに行ってきました」と言った。


 「そうなんですか」とリカさんは言った。「どうでした?」


 「真面目な人ですね」


 「そうでしょう」とリカさんは少し笑った。「あの方、実直って感じがしますよね。余計なことを言わない。職人さんってそういう人が多い気がしますけど」


 「奥さんの写真、一枚だけ飾ってありました」


 リカさんの表情が、少し柔らかくなった。「店の中に?」


 「はい。作業台の上に」


 「毎日見てるんですかね」とリカさんは小さな声で言った。独り言に近い声だった。「大切にしてるんですね」


 私はコーヒーを一口飲んだ。


 「前回、何か言いかけてましたよね」と私は言った。


 リカさんが顔を上げた。


 「先週、宇野さんの話をしていたとき。『ただ』って言って、止まりましたよね」


 リカさんは少し間を置いた。右手でカウンターの端を軽く叩いた。考えているときの癖なのかもしれなかった。


 「ちょっと、言い方が難しくて」とリカさんは言った。


 「難しい?」


 「桐島さんが宇野さんのことを聞かれるのが、最近続いてるじゃないですか。だから、その……」


 リカさんはそこで止まった。


 私は続きを待った。


 「なんというか」とリカさんはゆっくり言った。「宇野さんって、普通の方ですよ。私が見る限りは、すごく。だから、なんか心配事があるんですかって思って。でも、よけいなお世話ですよね、ごめんなさい」


 「いえ」と私は言った。


 「桐島さんが何かを気にされてるなら、それはそれで理由があるんだと思うし。私が口を出すことじゃないから」


 「そうですね」


 リカさんは少し微笑んで、別の客のところへ行った。


 私はコーヒーカップを持ったまま、しばらくそのままでいた。


 宇野さんって、普通の方ですよ。私が見る限りは。


 普通、という言葉が、少し引っかかった。


 普通、と言いたくなるときは、何かが普通でないと感じているときだ。強調するということは、そこに揺れがあるということだ。


 でも、私のその解釈は正しいのか。


 普通という言葉を強調することが、揺れを意味するとは限らない。単純に、普通だと思っているから普通と言ったのかもしれない。


 私は、言葉を読みすぎる。


 それは分かっていた。記者という職業が、言葉の裏を読む習慣を作った。でも言葉の裏を読みすぎると、存在しない裏を作り出すことがある。


 三年前も、そうだった。




 三年前の十月だった。


 少女の失踪事件を追っていた。


 木村彩香。当時十七歳。緑ケ丘市の隣の市に住んでいた。高校二年生。一月に家を出たまま行方不明になっていた。九ヶ月間、手がかりなし。


 私がその事件を担当したのは、社会部に異動して二年目のことだった。継続して追っていた先輩記者が病気で倒れて、その引き継ぎで担当することになった。


 私は一から調べた。


 警察の発表。家族への取材。学校関係者への取材。同級生からの聞き込み。九ヶ月分の記録を整理した。


 そこに、一つの情報があった。


 同級生の一人から、「彩香ちゃんが山の中に入っていくのを見た」という証言。時期は失踪から数週間後。近くの山林。その証言は、九ヶ月間、警察にも伝わっていなかった。


 私は山林を調べた。


 入山して歩き回った。一人で。許可を取らずに。今から思えばそれだけでも問題だったが、あの頃の私にはそれが正しいことに思えた。


 そして、見つけた。


 山林の奥に、人の形をしたものがあった。


 白いものが見えた。布のようなものが。


 私は近づいた。


 確認した。


 確認した、と思った。


 翌日の朝刊に記事を出した。「木村彩香さんとみられる遺体を発見」。


 その記事が出た翌日、木村彩香は生きていた。


 別の県で保護された。


 私が見つけたのは、別の人間の遺体だった。後に身元が判明した。自然死だった。事件性はなかった。ただ、木村彩香とは別人だった。


 なぜ間違えたのか。


 私は今でも、それを正確には説明できない。


 暗かった。日が傾いていた。距離があった。確認が不十分だった。


 でも一番正確な答えは、こうだ。


 私は確認する前に、確信していた。


 見つけた、と思った瞬間に、すべての判断が止まった。見つけた、という事実が、確認という行為を追い越した。


 その一瞬の停止が、誤報を生んだ。




 喫茶ハコニワを出て、アパートに戻った。


 十一時過ぎだった。


 机の前に座って、パソコンを開いた。仕事の原稿がある。でもすぐには開けなかった。


 宇野時計店の店内を、頭の中で再現した。


 時計の音。工具の並び。写真立て。


 宇野の背中。


 あの人は、何も悪いことをしていないかもしれない。


 その考えが、今日初めてはっきりとした形で浮かんだ。


 深夜に荷物を運ぶのは、正当な理由があるかもしれない。夜中に音がするのは、職人が仕事をしているだけかもしれない。妻の写真は、愛情の証明かもしれない。


 かもしれない。


 かもしれない、という言葉が続く。


 それが全部、かもしれない、で終わるなら、私のこの二週間は何だったのか。


 私は考えた。


 三年前の誤報は、確信が確認を追い越したことで起きた。


 今回は逆だ。確認しようとしている。確認のために観察し、記録し、歩き、話を聞いている。


 それは正しい行為のはずだ。


 でも、確認を続けることで、確信が強くなっていく、という逆転が起きていることに、私は気づいていた。


 確認するほど、何かがある気がしてくる。


 情報が増えるほど、点が増えていく。点が増えるほど、線を引きたくなる。


 三年前とは違う手順を踏んでいるのに、向かっている方向は同じかもしれない。


 私はその考えを、頭の中でゆっくり確認した。


 そして、ノートを開いた。


 新しいページに、一行だけ書いた。


 確認しているのか。確信を補強しているのか。どちらか。


 その問いに、私は答えを書かなかった。


 答えを書けなかった。




 夜、来栖の部屋から物音がした。


 午後九時過ぎ。冷蔵庫のモーター音に混じって、下の階から物音が聞こえた。ドアが開いて、また閉まった。足音が階段を降りていった。


 私は窓から外を見た。


 一階のエントランスから、来栖が出てきた。


 今夜はヘルメットをかぶっていなかった。私服の上にウィンドブレーカー。コンビニに行くような恰好だった。


 彼は商店街の方向には向かわなかった。


 アパートの前の通りを北に歩いていった。


 私は時計を見た。二十一時十四分。


 メモ帳に書こうとして、止めた。


 これは記録すべき情報か。


 コンビニに行く人間の動向を記録することに、意味はあるのか。


 私はメモ帳をテーブルに置いた。


 来栖が出ていった方向を、窓越しに見た。もう姿は見えなかった。


 来栖光一は、二十八歳の配達員だ。同じアパートに住んでいる。深夜に商店街の裏通りを通るのは、仕事のルートだ。それだけのことだ。


 それだけのことを、私は二週間、観察し続けた。


 なぜか。


 私は自分の部屋を見渡した。


 ノート。地図。メモ帳。取材ノート二十七冊。


 西川先生の言葉が、頭の中で繰り返された。


 何かに集中して考え続けることはありますか。特定の人物のことや、出来事のことを、繰り返し頭の中で確認するような。


 私は先生に「ない」と言った。


 それは、嘘だったのかもしれない。




 その夜、薬を飲んで、眠った。


 夢を見た。


 今夜は覚えていた。


 山の中を歩いていた。十月の山だった。落ち葉が積もっていた。日が傾いていた。私は何かを探していた。


 見つけた。


 白いものが見えた。


 近づいた。


 それは時計だった。


 草の上に横たわった、大きな柱時計だった。文字盤が上を向いていた。秒針が動いていた。でも時刻は合っていなかった。針は止まったまま、ただ秒針だけが回り続けていた。


 私はその時計を、しばらく見ていた。


 誰かが泣いている音がした。


 私は立ち上がって、音の方向を向いた。


 でも誰もいなかった。


 音だけがあった。


 目が覚めた。


 時計は午前二時四十一分だった。


 窓の外は静かだった。


 宇野時計店の裏口に、灯りはついていなかった。


 私は起き上がらなかった。


 ベッドに横になったまま、天井を見た。


 夢の中の時計の秒針が、頭の中でまだ回っていた。


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