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夜の縁  作者: 鍵しっぽハンター
第一章「亀裂」

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4/8

第四話「地図を描く人」

 口コミの投稿者から、二度目の返信が来たのは翌々日の夜だった。


 私はちょうど夕食の片づけをしていて、スマートフォンの通知音に気づいて手を止めた。シンクの縁で水をきった手を拭いて、画面を確認した。


 差出人は「taka19xx」。


 文章は前回より少し長かった。


質問の内容を確認しました。職場の雰囲気についてと、写真のことですね。以前の口コミに書いたことについては、今思えば言いすぎたかもしれないとも思っています。ただ事実を書いたつもりですが、誰かが傷つくことは本意ではないので。


それでもよければ、少しだけお答えします。女性の写真というのは、奥さんの写真だと思います。店の中のあちこちに飾ってあって、最初は誰かわからなかったんですが、後で常連さんから奥さんが亡くなったと聞いて。怖いという表現は少し大げさでした。ただ、写真の多さが独特で、慣れるまで落ち着かなかった、というだけです。


退職した理由は主に給与の遅延です。職人気質の方で、悪い人ではないと今でも思っています。


 私は文章を三回読んだ。


 女性の写真は、妻の写真だった。


 その事実を確認した上で、私が感じたことを正直に書くなら――それは安堵ではなかった。


 説明がついた、という感覚だった。写真の存在に説明がついた。それだけだ。


 でも同時に、別のことを考えていた。


 亡くなった妻の写真を、店のあちこちに飾る男。


 深夜に重い荷物を運ぶ男。


 夜中に金属を削るような音を立てる男。


 これらは繋がっているのか、いないのか。


 私はメモ帳を開いた。「確認済み情報」のページ。口コミ元従業員の情報の横に小さく書き加えた。


 女性の写真=妻(故人)の写真と確認。


 確認済みに移した。


 でもその隣に、新しい推論を書いた。


 妻への執着が異常な程度にある可能性。写真の「多さ」が他者から見ても「独特」なレベル。悲嘆の深さ、または別の何か。


 別の何か、という言葉で止めた。


 それ以上を書くには、根拠が足りなかった。




 翌日の午前中、西川医院に行った。


 定期診察だった。月に一度、十四時の予約を入れているが、今月は来週の火曜日に設定していた。それを今日に変えてもらった。理由は仕事の都合、と受付に伝えた。


 本当の理由は、昨夜眠れなかったことだった。


 久しぶりに、完全に眠れない夜だった。薬を飲んだのに、横になって目を閉じて、三時間、意識が浮かんだままだった。頭の中が静かにならなかった。考えたくないのに考えた。宇野の荷物のこと。真澄の右を向く動作のこと。来栖と宇野の動線のこと。


 そういう夜は、翌日に影響が出る。今日は朝から頭の縁が重くて、集中できなかった。


 待合室に座った。


 前回と同じ老人が一人、座っていた。同じ席に。同じ姿勢で、視線を床に落としていた。この人も定期的に来ているのだろう。私たちはお互いを認識しないようにしながら、同じ空間に存在した。


 「桐島さん」


 西川先生の声。


 診察室に入った。椅子に座った。白衣。電子カルテ。いつもと同じ場所に同じものが並んでいる。この一定さが、少し安心する。


 「今日、予約を変更されましたね」


 「はい。仕事の都合で」


 「眠れていますか」


 私は一瞬、躊躇した。


 「昨夜は少し」と私は言った。


 先生が顔を向けた。「少し、というのは?」


 「薬を飲んでも、眠れるまでに時間がかかって。途中で何度か目が覚めて。朝方になってようやく眠れた感じで」


 「それは珍しいですね。中途覚醒は以前からありましたが、入眠自体に時間がかかることは今まで少なかったですよね」


 「はい」


 「何か、気になっていることがありますか。仕事や生活で」


 また、その質問だ。


 「特にないです」と私は言った。


 先生は少し間を置いた。キーボードを打たず、ただ私を見ていた。


 「桐島さん、少し直接的に聞いてもいいですか」


 「どうぞ」


 「最近、何かに集中して考え続けることはありますか。特定の人物のことや、出来事のことを、繰り返し頭の中で確認するような」


 私は先生の目を見た。


 先生の目は静かだった。責めているわけでも、疑っているわけでもなかった。ただ見ていた。


 「ないです」と私は言った。


 先生は一拍置いてから、「わかりました」と言って、キーボードを打ち始めた。


 カルテに何かを入力していた。


 私には画面が見えなかった。


 「薬の量を少し調整しましょうか。ハルシオンに加えて、眠りを深くする補助の薬を処方することができます。ただ、翌日に少し眠気が残る場合があります」


 「いまのままで大丈夫です」と私は言った。「昨夜が例外的だっただけだと思うので」


 「そうですか」と先生は言った。「では今の処方を続けましょう。ただ、眠れない夜が続くようであれば、早めに連絡してください。一ヶ月待たなくていいです」


 処方箋を受け取って診察室を出た。


 廊下に出て、また壁に背中をつけた。


 何かに集中して考え続けることはありますか。特定の人物のことや、出来事のことを、繰り返し頭の中で確認するような。


 先生は、何を知っているのだろう。


 そういう質問をするということは、そういう状態にあると疑っているということだ。誰かから聞いたのか。それとも、私の顔や態度から読み取ったのか。


 私は処方箋を封筒に入れて、コートのポケットにしまった。


 カルテに何を書いたのか、聞けばよかった。


 でも聞けなかった。


 聞いて、答えを知るのが怖かったのかもしれない。




 その日の午後、私は地図を描いた。


 A4のコピー用紙を二枚つなぎ合わせて、コーポ緑町を起点に商店街全体の略図を描いた。建物の配置、路地の位置、主な店舗の場所。記者時代に取材エリアの地図を手描きすることがあって、その要領でやった。


 宇野時計店の位置。その裏口の位置。路地の東方向への延長線。


 来栖が商店街の裏通りを通るルートを、別の色のペンで描き加えた。赤のボールペンを使った。


 二つの線が、地図の上で交差した。


 私はその交差点を見た。


 宇野が東に向かう。来栖が裏通りを東に向かう。両者の動線が一点で重なる。


 いや、正確には、重なってはいなかった。


 宇野の裏口から東への路地と、来栖が通る商店街裏通りは、地図の上では平行に走っていた。でも、私の描いた地図では、その二本の線が途中で収束するように見えた。


 なぜかと言えば、商店街の東端に向かうにつれて道幅が狭くなることを表現しようとしたからで、その結果、縮尺が均一ではなくなっていた。


 西側では五センチが百メートルを表しているのに、東側では五センチが七十メートルを表していた。


 でも私は、それに気づかなかった。


 地図を眺めながら、私はペンを走らせた。


 宇野の動線(推定)と来栖の動線の交差点:商店街東端から約200m東の交差点付近。週複数回の符合。


 二百メートル、という数字は、地図の縮尺から計算したものだった。


 縮尺が歪んでいるから、本当は三百メートル以上離れた地点だった。


 私はその誤りを、知らなかった。




 夕方になって、私は実際に歩いてみることにした。


 宇野が向かった東の方向を、自分の足で確認する。これは正しいことだ。地図の推論を、現地で検証する。それが取材の基本だ。


 コーポ緑町を出て、裏口の路地に入った。


 夕方の路地は薄暗かった。北陸の十月末は日が落ちるのが早い。十七時を過ぎると空が急速に暗くなる。路地の両側にはアパートや古い民家が並んでいて、一階の窓からはテレビの明かりや夕食の匂いが漏れていた。


 路地を東に歩いた。


 五分歩いた。住宅地に入った。


 七分歩いた。小さな公園があった。ベンチが二脚。誰もいない。


 十分歩いた。道が細くなった。民家の壁が近くなった。


 十二分歩いたところで、道が開けた。


 職人の工房が集まった一角だった。


 看板がいくつかあった。「桐山木工所」。「田村鉄工」。「第三アトリエ・なかしま」。シャッターが閉まっているところもあれば、まだ灯りがついているところもあった。夕方の名残の音が、どこかから聞こえていた。旋盤か何かを動かす音。


 私は立ち止まって、工房の並びを確認した。


 どれかの工房に、宇野は向かっているのかもしれない。


 でも今夜は深夜ではない。宇野が出てくる時間ではない。確認できることは何もない。


 私はただ、この場所に立った。


 宇野が来る可能性のある場所に、自分も立った。


 それだけで、何か一つが埋まった気がした。何かが、という言葉しか思い浮かばなかったけれど。


 帰り道、来た道とは別のルートを取った。


 商店街の裏通りに出た。


 来栖が配達で通るルートだ。


 私は立ち止まって、来た方向を振り返った。


 職人街のある方向と、来栖の配達ルートの方向を、頭の中で重ねた。


 別々だった。


 明確に、別々の方向だった。


 でも私は、手描きの地図の上では重なっている、という事実を持っていた。


 現地で見た別々さより、地図の上の重なりを、私は信じた。


 地図は自分で描いたものだった。


 それでも、信じた。




 帰宅して、ノートを開いた。


 今日歩いた経路と、職人街の存在を書き加えた。宇野の行き先の候補として、職人街の工房を記載した。


 職人街(商店街から徒歩約12分)。時計修理に関連した工房の可能性あり。深夜に荷物を持って向かうとすれば、何らかの秘匿性の高い作業か。


 秘匿性、という言葉を使ってから、私は少しだけ立ち止まった。


 秘匿性、と書いた。


 深夜に、誰にも見せたくない作業をしている、という意味で使った。


 それは本当のことか。


 深夜に職人が工房で作業することに、秘匿性は必要ない。騒音の問題でむしろ深夜作業は困難なはずだ。金属を削る音が深夜に聞こえる、という八木さんの証言は、逆に言えば「騒音を気にしていない」ということだ。


 気にしていない理由は何か。


 工房が住宅地から離れているからか。それとも、別の何かがあるからか。


 私はまた、推論のページを開いた。


 書いて、止めた。


 今日は書きすぎている、と思った。


 確認できていないことが増えすぎている。点が多すぎて、どれが本当の点か分からなくなりそうだった。


 ノートを閉じた。


 コーヒーを入れた。


 飲みながら、窓の外を見た。


 まだ早い時刻で、宇野時計店の裏口に灯りはない。




 その夜、隣室からまた声が聞こえた。


 今夜は少し遅い時間だった。二十三時を過ぎていた。


 村瀬朱里の声だった。前回より声が低かった。感情がある声だ、と思った。平板に話しているのではなく、何かに対して言葉を選んでいる声の質だった。


 「……今更そんなこと言われても」


 「……ちゃんと考えてから言って」


 「……私だってそうしたいけど」


 私はコーヒーカップを机に置いて、耳を向けた。


 「今更そんなことを言われても」——誰かに、突然の申し出か告白をされた。


 「ちゃんと考えてから言って」——衝動的な言動への苛立ち。


 「私だってそうしたいけど」——したいができない事情がある。


 私は断片を組み立てた。


 前回の「また来る」「困る」と、今夜の断片を並べると、一つの輪郭が見えてきた。


 誰かが、村瀬のところに来ようとしている。村瀬はそれを困ると感じている。相手は何かを要求している。村瀬にはそれに応える余裕がなく、でも断り切れない。


 男女関係の問題か。


 あるいは、もっと複雑な事情か。


 私はメモ帳に書いた。


 村瀬、夜の電話(二度目)。「今更そんなことを」「ちゃんと考えてから」「私だってそうしたい」。相手との関係に摩擦あり。「来る」という行動への拒否感。何かを「したい」が「できない」状況。


 書き終えて、考えた。


 これは宇野の件と関係があるのか。


 おそらくない。


 でも「おそらく」は確定ではない。


 無関係に見えるものが、後から繋がることがある。記者はそれを知っている。情報は、集めておくことに意味がある。


 私はノートを閉じた。


 今夜も宇野の裏口を確認した。


 灯りはついていなかった。




 夜中の一時十七分に目が覚めた。


 今夜はすんなりと、時計を見た。メモ帳を手元に引き寄せた。窓のほうに顔を向けた。


 もう、躊躇がなかった。


 眠れたら眠り、目が覚めたら窓を見る。それが習慣になっていた。いつからそうなったか、正確には思い出せなかった。でも今夜、それを疑問に思わなかった。


 裏口に灯りがついていた。


 ドアが開いた。


 宇野が出てきた。


 今夜は荷物がなかった。


 両手を空にして、裏口から出てきた。


 私はメモ帳を持ちながら、書こうとした手が止まった。


 荷物がない。


 それは何を意味するのか。


 行きは空手で、どこかで荷物を受け取って帰るのか。それとも、今夜は荷物を持ち出さないのか。それとも、別の種類の用事なのか。


 宇野は路地を東に歩いていった。


 私は時刻を書いた。


 11/1(金)深夜1:17 宇野、裏口より出る。今夜は荷物なし。両手空。方向:東(例の通り)。表情:下向き。


 荷物がない。


 その事実が、何か別の可能性を開いた気がした。


 荷物がないとき、宇野は何をしに行くのか。


 私は、その問いを推論のページに書いた。


 答えは書かなかった。


 書けなかった。


 でも頭の中には、答えになりうるいくつかのものが浮かんでいた。




 翌朝、喫茶ハコニワでリカさんに話しかけた。


 意図して話しかけたわけではなかった。ただ、今朝は店が空いていて、リカさんが手持ちぶさたにしているように見えた。


 「最近、時計屋さん来てますか」と私は聞いた。


 「宇野さんですか? ええ、先週来られてましたよ。いつも通りコーヒーを飲んで帰られました」


 「一人で?」


 「はい、いつも一人ですね」


 「何か話してましたか」


 リカさんは少し考えてから、「天気の話くらいですかね」と言った。「本当に無口な方で。でも今年の夏に、珍しく少し話されたことがあって」


 「何を?」


 「奥さんのお好きだった食べ物の話、かな」リカさんは少し声のトーンを落とした。「秋刀魚が好きだったって。だから毎年秋になるとスーパーで秋刀魚を見るのがつらい、って。そのひとことだけ言って、あとはまたコーヒーを飲んで出て行かれました」


 私は何も言わなかった。


 秋刀魚の話。


 愛妻家だ、と思った。秋刀魚を見るのがつらい、と言える男は、妻のことを今でも考えている。そのこと自体は何も問題ではない。悲しみは人それぞれのかたちをとる。


 でも私の頭の中で、その話が別の文脈に入り込んだ。


 秋刀魚の話をするほど妻を愛していた男が、その妻を失ったとき、何をするか。


 「桐島さん、」とリカさんが言った。


 「はい」


 リカさんが少し、ためらうような間を置いた。


 「宇野さんのこと、気にされてますよね。最近、何度か聞かれてるし」


 「ええ、まあ、近所に住んでいるので」


 「そうですよね」とリカさんは言った。「ただ」


 「ただ?」


 リカさんは口を開きかけて、また閉じた。コーヒーカップを持ち直した。それからもう一度、口を開いた。


 「いえ、なんでもないです。おかわり、いりますか」


 「いただきます」と私は言った。


 リカさんが新しいコーヒーを持ってきた。


 私は受け取りながら、リカさんの顔を見た。


 何かを言いかけて、止めた。その事実を、私は記録した。


 頭の中で、だけれど。




 その日の夜、父に返信した。


 三週間、返信できなかったメールへの返事だ。


 短く書いた。


 お父さん、返信が遅くなってごめんなさい。変わりなく過ごしています。仕事も普通にしています。そちらは寒くなってきましたか。体に気をつけてください。奈緒


 送信した。


 送信してから、「変わりなく過ごしています」という文を読み返した。


 変わりなく。


 何かが変わり始めている、と感じていた。自分の中で何かが動いている感覚があった。それが何なのか、まだ言葉にできなかった。でも「変わりなく」とは言えなかった。


 言えないのに、書いた。


 父に心配させたくないから、とは違った。


 もっと単純な理由だった。


 自分が今、何をしているかを、父に説明できなかった。


 説明できないことは、書けない。


 だから「変わりなく」と書いた。


 その夜、薬を飲んで眠った。


 夢を見た。


 内容は覚えていない。


 ただ朝目が覚めたとき、何かを探していた夢だ、という感覚だけが残っていた。


 何を探していたのかは、分からなかった。


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