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夜の縁  作者: 鍵しっぽハンター
第一章「亀裂」

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第三話「食事と、右を向く人」

 真澄と会う約束は、水曜日の夜に決まった。


 緑町から市の中心部に向かって路面電車で三駅、「いろり家」という居酒屋だった。真澄が決めた店だ。私は行ったことがなかった。地図で場所を確認して、電車の時刻を調べた。十九時に待ち合わせ。


 水曜日まで三日あった。


 その三日間、私は宇野時計店の裏口を見続けた。


 正確には、見ようとしたわけではない。ただ夜中に目が覚めると、気づいたら窓のほうを向いていた。薬を飲んでから二時間から三時間で覚醒する、という西川先生の説明は正確だったのかもしれない。飲んだのが二十三時なら、深夜一時から二時の間に目が覚める。体内時計が、その時間を覚えてしまっているのかもしれない。


 月曜日の夜は、灯りがつかなかった。


 火曜日の夜は、灯りがついたが誰も出てこなかった。


 水曜日の昼、私は仕事の原稿を一本入稿して、夕方に外出した。




 路面電車は古かった。


 緑ケ丘市の路面電車は、市内を二路線が走っていて、旧式の車両と比較的新しい車両が混在している。私が乗ったのは旧式のほうで、座席のモケットが擦り切れていた。窓の外に商店街が流れ、住宅地になり、少しだけ幹線道路に沿って走ってから、繁華街のあたりで止まった。


 「いろり家」は路地の奥にある店で、暖簾が一枚、軒先に下がっていた。染め抜いた文字が擦れて読みにくかったが、それが逆に店の年季を感じさせた。


 真澄はすでにいた。


 テーブル席の端に座って、スマートフォンを見ていた。私が近づくと顔を上げて、少し大きめの笑顔を作った。


 少し大きめ、というのは、私の感覚だ。


 真澄の笑顔には二種類ある。自然に出る笑顔と、作る笑顔。私は長年見てきたから区別がつく。今夜のは、後者だった。


 「久しぶり」と真澄は言った。


 「うん」と私は答えた。


 向かいに座った。


 店内は半分ほどの入りだった。テーブル席が六つ、カウンターが五席。木の壁に染み込んだ煙の匂いがした。BGMはなく、他のテーブルの話し声と、厨房から聞こえる包丁の音だけがあった。


 メニューを開いた。真澄がビールを頼んだ。私も同じものにした。




 最初の一時間は、表面的な話をした。


 真澄の職場の話。私の仕事の話。最近読んだ本。地元の話題。


 真澄の話し方は滑らかだった。間が空いたら別の話題を出す。私が答えたら次の質問を重ねる。会話のテンポを彼女がコントロールしていた。それは昔からそうだった。真澄は話すのが得意な人間で、私は聞くほうが楽だった。


 でも今夜は、少し違った。


 真澄の目が、私の顔をよく見ていた。


 話しながら、確認するように見ていた。


 痩せたとか、顔色が悪いとか、そういうことを確認しているように見えた。あるいは別の何かを。


 「仕事、どう? 忙しい?」と真澄が聞いた。


 「まあまあ。単価が安いからたくさん書かないといけないけど」


 「生活は……大丈夫?」


 「大丈夫」


 真澄は少し間を置いた。


 「眠れてる?」


 「まあまあ」


 「薬、まだ飲んでるの?」


 私は少し、箸を止めた。


 真澄が私の薬のことを知っている。それ自体は不思議ではない。以前話したことがあったかもしれない。でも今夜、その話題をここで出すタイミングが、計算されているように感じた。


 「飲んでる」と私は答えた。「なに、誰かから聞いた?」


 真澄は一瞬、右を向いた。


 わずかな動作だった。視線が右に流れて、すぐ戻ってきた。


 「聞いてないよ」と真澄は言った。「心配してるだけ。ずっと連絡できなくて、ごめん。こっちの都合でなんか、疎遠になっちゃって」


 「こっちの都合、って?」


 「仕事が忙しかったり、いろいろ」


 また、右を向いた。


 今度はもう少し長く。視線がテーブルの右端あたりに止まって、それから戻ってきた。


 真澄は嘘をつくとき右を向く。


 高校時代からそうだった。テストの点数を誤魔化すとき。好きな人のことを聞いたとき。私が知らないことを知っているとき。


 今夜、真澄は二度、右を向いた。


 誰かから、何かを聞いている。


 「最近、なんか変わったことあった?」と真澄が聞いた。


 「別に」と私は言った。


 「うん」


 「真澄は?」


 「私もまあ、普通」


 普通、と言いながら、真澄はビールを飲んだ。視線をグラスに落とした。それは右でも左でもなかった。


 私は焼き鳥を一本食べた。甘いタレの味がした。




 食事が終わって、店を出た。


 夜の繁華街は明るかった。居酒屋やスナックの看板の光が、アスファルトに滲んでいた。十月末の夜は冷えていて、吐く息が少し白かった。


 「また連絡するね」と真澄は言った。


 「うん」


 「何かあったら、言って」


 何かあったら、という言葉が引っかかった。


 何かあったら、というのは、「何かがあると思っている」ときに使う言葉だ。「何もないと思っているとき」には「また飯でも行こう」と言う。真澄は今夜、「また飯でも行こう」とは言わなかった。


 私は電車の停留所まで歩きながら、今夜の会話を頭の中で整理した。


 真澄は何かを知っている。


 それは私に関することだ。


 誰から聞いたのか。直接の知り合いで、私のことを話せる立場にある人間。西川先生は守秘義務がある。職場の知り合いはほとんどいない。


 ウェブメディアの編集者。あの人たちは私の顔を知らない。


 残るのは、共通の知人だ。


 高校時代の友人。あるいは北陸日報時代の同僚。


 北陸日報時代。


 私は歩きながら、名前を一人ずつ頭の中で確認した。今も連絡が取れる元同僚。誤報事件を知っている人間。真澄と接点を持ちそうな人間。


 高木、という名前が浮かんだ。


 高木順也。元同僚。私と同年代で、誤報事件の後も北陸日報に残った。真澄とは私を介して数度会ったことがある。


 高木が真澄に連絡した可能性。


 なぜ高木が連絡するのか。私のことを心配しているからか。それとも、私が何かをしていると知っているからか。


 電車が来た。


 私は乗り込んで、窓際の席に座った。


 暗い窓に自分の顔が映った。


 頬が少し削げている、と思った。三年前の自分とは違う顔だ。三年で、人はこんなに変わる。




 帰宅して、すぐにノートを開いた。


 今夜の記録。真澄の発言。「薬、まだ飲んでるの?」「眠れてる?」「何かあったら言って」。右を向いた回数と場面。


 書いた後で、もう一度読んだ。


 客観的に読もうとした。


 真澄は心配している友人として、久しぶりに連絡してきた。健康を聞くのは自然だ。眠れているかどうかを聞くのも、以前私が睡眠の問題について話したことがあるなら自然だ。「何かあったら言って」は別れ際の常套句だ。右を向く癖は、困ったときに出るものかもしれない。嘘とは断定できない。


 全部、説明がつく。


 でも私の頭は、そっちに向かわなかった。


 真澄は何かを知っている。その確信が、論理的な反証を押しのけて残った。


 私はその確信に、名前をつけることができなかった。


 直感、と呼ぶことを私は恐れた。


 直感という言葉を使うたびに、三年前の自分が戻ってくる気がした。あの頃の私は直感を信じていた。直感が鳴っている、と思って、確認をやめた。直感は現実ではなかった。


 でも、直感を疑い続けることも、別の問題を生む。


 疑いすぎて、動けなくなる。疑いすぎて、本当のことを見逃す。


 私は宙ぶらりんな場所に立っていた。


 信じることも疑うことも、どちらも正しくて、どちらも危うかった。




 翌日の午後、私はスマートフォンで「宇野時計店」を検索した。


 地図アプリに店舗情報が出た。評価は星三つ半。口コミが七件。


 最初の三件は好意的なものだった。「丁寧な仕事をしてくれた」「祖父の形見の時計を直してもらった」「無口だけど腕は確か」。


 四件目。


 一年前に補助として雇われ、半年で辞めました。腕は確かだと思いますが、職場の雰囲気が独特で、馴染めませんでした。給料が遅れることもあり、小さい店だからしかたないのかもしれませんが、長く続けるのは難しかったです。女性の写真が多く飾ってあって、なんか怖くて。投稿日:二年前


 私は画面を見つめた。


 女性の写真。


 妻の写真かもしれない。二年前に亡くなった妻の写真を飾っている。それは自然なことだ。


 でも「なんか怖くて」という言葉が、頭に引っかかった。


 辞めた理由に「怖い」という感情が出てきた。腕が確かで、給料の遅れも「しかたない」と認めながら、「怖い」と感じて辞めた。


 何が怖かったのか。


 私はその口コミの投稿者のハンドルネームを見た。「taka19xx」というアカウント名だった。特定できる情報はなかった。


 残りの口コミは、別の投稿者による好意的なものだった。


 私はノートを開いて、四件目の口コミを書き写した。一字一句、正確に。


 書き写してから、「推論」と書いたページに移った。


 元従業員。半年で退職。「なんか怖くて」。女性の写真多数。給与遅延あり。→直接確認の必要あり。


 直接確認。


 投稿者に連絡を取ることができるか。


 口コミサイトにはメッセージ機能があることを確認した。投稿者が受け取るかどうかは分からない。受け取っても返信するかどうかは分からない。でも試みることはできる。


 私はメッセージを書いた。何度か書き直した。


 最終的に送ったのは、こういう文章だった。


 はじめまして。私は緑ケ丘市の在住者で、地域の商店に関する調査をしています。差し支えなければ、宇野時計店についての口コミに関して、もう少し詳しくお聞きすることはできますか。お時間をいただけるようであれば、メールまたは電話でお話をうかがいたいと思っています。


 送信した。


 「地域の商店に関する調査」は嘘ではない、と私は思った。広い意味では。




 その夜、来栖光一の名前を知った。


 コーポ緑町の郵便受けの列は、一階エントランスの壁に並んでいる。私は毎日確認するが、入っているのはたいてい広告の類だ。今夜も広告が二枚と、ウェブメディアから振り込まれた分の源泉徴収票が届いていた。


 郵便受けの列を眺めていると、隣の受け取り口に名前が書いてあることに気づいた。正確には、以前から書いてあったのだが、今夜初めてきちんと読んだ。


 201号室:来栖。


 私は手を止めた。


 このアパートに、来栖という住人がいる。


 二日前に商店街の裏通りで見た、フードデリバリーの配達員。


 同じ苗字かもしれない。同じ人物かもしれない。


 でも同じ苗字は日本中にいる。


 私は自分の部屋に戻って、ノートを開いた。


 配達員に関するページ。


 配達員。深夜も動いている可能性あり。要観察。


 その下に書き加えた。


 コーポ緑町201号室に「来栖」という住人あり。同一人物か確認要。


 確認する方法を考えた。


 翌朝、郵便受けの前に立っていれば、住人が出てくるかもしれない。エントランスで偶然会えば、顔を確認できる。


 そうすれば、商店街で見た配達員と同じ人間かどうかがわかる。


 私はアパートの間取りを思い出した。二〇一号室は一階。私は二階の二〇三号室。共用階段は一カ所。つまり同じ経路を使う。


 翌朝、少し早起きして、エントランスで時間をつぶせばいい。


 自然に見えるように。郵便物を確認しているように見えるように。


 私はそれを「確認」と呼んだ。


 「待ち伏せ」とは呼ばなかった。




 翌朝七時二十分、私はエントランスに降りた。


 郵便受けの前に立って、自分の受け取り口を開けた。何も入っていなかった。閉めた。また開けた。やはり何もなかった。


 五分待った。


 七時二十六分、一階の廊下の奥から足音がした。


 ドアが開く音。鍵をかける音。廊下を歩く足音。


 角を曲がって、男が現れた。


 二十代後半、細身。短い髪。ジャージのズボンに、グレーのスウェット。郵便受けに向かってきた。私は視線を受け取り口に落とした。


 男は二〇一号室の郵便受けを開けた。


 横目で確認した。


 ヘルメットをかぶっていないから顔が見えた。目が細くて、輪郭が少しシャープだった。


 二日前に商店街の裏通りで見た配達員と、体型が合っていた。


 「あ、おはようございます」と男が言った。


 「おはようございます」と私は答えた。


 男は郵便受けを閉めて、エントランスのドアを開けて出て行った。


 私は数秒、その場に立っていた。


 確認した。同一人物かどうかは断言できない。顔を横目でしか見ていないし、配達員はヘルメットをかぶっていた。でも体型と年齢は一致する。


 私はノートに書いた。


 来栖(201号室)=配達員の可能性高。朝、直接目視確認。体型・年齢一致。同一人物と仮定して観察継続。


 「仮定」と書いた。


 仮定は確認が取れるまで事実ではない。それが私のルールだ。


 でも、仮定が積み重なったとき、それはもう仮定ではなくなる。


 私はそのことを、まだ知らなかった。




 夜、隣の部屋から声が聞こえた。


 壁は薄い。コーポ緑町は築二十八年で、防音性はほとんどない。


 女の声だった。電話をしているようだった。隣の二〇四号室は、以前会ったときに挨拶だけした女性が住んでいる。名前は表札で知っていた。村瀬朱里。介護の仕事をしているらしく、不規則な時間に帰ってくることがあった。


 言葉は断片的にしか聞こえなかった。


 「……また来るの」


 「……それは困る」


 「……でも、私には言えない」


 私は読んでいた本を閉じた。


 「また来る」。誰かが来る、ということ。その誰かの訪問を「困る」と感じている。「私には言えない」——何かを言えない事情がある。


 私はメモ帳に書いた。


 村瀬(204号)、深夜に電話。「また来る」「困る」「言えない」。誰かについての話か。要素を整理する必要あり。


 書いてから、少し考えた。


 これは他人の電話の内容だ。聞こうとして聞いたわけではなく、壁越しに聞こえてきたものだ。記録する必要があるのか。


 ある、と私は思った。


 情報は、その時点での意味が分からなくても、後から意味を持つことがある。記者はそういう訓練を受ける。断片を保存しておくこと。整理は後でいい。


 電話の声は続いていた。


 「……わかってる、でも……」


 「……そういうことじゃなくて……」


 私は本を開こうとして、開けなかった。


 耳が、声に向いたままだった。




 翌日の午後、口コミの投稿者から返信が来た。


 短い文章だった。


 ご連絡ありがとうございます。具体的にどんなことを知りたいのか教えていただければ、お答えできるかもしれません。


 私はすぐに返信した。


 丁寧に、具体的に。職場の雰囲気について。「女性の写真が多い」という記述について。退職の経緯について。個人を特定するような情報は求めておらず、あくまでも匿名で構わないと書いた。


 返信を送信して、コーヒーを飲んだ。


 取材をしている感覚があった。


 久しぶりの感覚だった。問いを立てて、情報源に当たって、答えを待つ。三年前まで毎日やっていたことだ。あの頃の感覚が、手足の先から戻ってくるような気がした。


 懐かしくて、それが少し怖かった。


 懐かしいと思うこと自体が、危うい。


 私はコーヒーカップを置いて、ノートを開いた。


 現在の「確認済み情報」を書き出した。宇野の深夜の行動。荷物の形状と重量の推定。方向。口コミの内容。来栖の可能性。


 次に「未確認情報」を書き出した。荷物の中身。行き先。来栖との関係。真澄が何を知っているか。


 この二つのリストの間に、越えてはいけない線がある。


 私はその線を、まだ守っていた。


 守っていると、思っていた。


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