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夜の縁  作者: 鍵しっぽハンター
第一章「亀裂」

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第二話「合理化という名の蓋」

 メモ帳を手に持ったまま、しばらく立っていた。


 枕元。朝の光。時計の針は七時四分を指している。


 10/25(木)深夜——男、また。同じ荷物。東へ。


 私の字だった。間違いなく私の字だった。癖のある「深」の字。右払いが長くなる「東」の字。これは他の誰かが書いたものではない。


 問題は、書いた記憶がないことだった。


 薬を飲んで、ベッドに横になった。天井の染みを見た。雨音がまだ続いていた。眠れた。そこまでは覚えている。


 では、この字は。


 私は記憶を遡った。頭の中を丁寧に探るように。記者時代、取材後に記憶を整理するときにやっていた方法で、目を閉じて時系列順に場面を再生する。薬を飲んだ。ベッドに横になった。天井の染みを見た。雨音。そして、朝。


 空白だ。


 その間に何もない。


 でも私はこの字を書いた。だとすれば、夜中に起き上がって窓を見て、メモを取って、また眠ったのだ。薬の影響で記憶が形成されなかったのだろう。以前も、薬を飲んだあとに台所に行って水を飲んだはずなのに翌朝コップが出ていた、ということがあった。あの感じと同じだ。


 体が先に動いて、意識がついていかない。


 西川先生に話すべきか、と一瞬思った。


 でも話さなかった。話すことの意味が見えなかった。薬の量を増やされるか、別の薬に変えられるか、どちらにしても今の生活が変わる。今の生活を変えたくなかった。


 それに。


 私は改めてメモを読んだ。


 男、また。同じ荷物。東へ。


 これは情報だ。貴重な情報だ。


 二夜連続だ。月に数回の「たまたま」ではないかもしれない。もしかしたら毎晩、あるいは週に何度もこのことが起きているのかもしれない。


 私はメモ帳の新しいページを開いて、日付ごとの観察記録を整理し始めた。


 記憶がないことは、今は横に置いた。




 朝の商店街は、まだ眠たそうだった。


 シャッターが上がっている店と、永遠に上がらないシャッターが交互に並んでいる。その割合が、三年前と比べてわずかに変化している気がする。閉まったままの店が増えた。再開発の話はまだ続いているが、何も動いていない。


 私が毎朝この道を歩くのは、喫茶ハコニワが目的地だからだ。アパートから徒歩五分。商店街の真ん中あたりに入口がある。ドアを開けると豆を挽く音がして、焙煎の匂いがする。その匂いだけで少し、体が楽になる。


 今朝は、途中で足が止まった。


 八木花店の前を通ったとき、店先の水桶に菊が入っていた。白と黄色の菊。仏花だ。十月は菊が多い季節なのだろうが、ちょうどそのとき、白菊の束の向こうに宇野時計店の表側が見えた。


 表通りから見る宇野時計店は、昨夜見た裏口と別の建物のように見えた。


 木製の看板。ショーウィンドウ。古い機械式時計が数台、布の台座の上に置かれている。緑と白の細いストライプのアーニングが、風のない朝にだらりと垂れ下がっている。まだ開店前で、ガラスの向こうは暗かった。


 「あら、桐島さん」


 振り向くと、八木恵さんが水桶を持って立っていた。


 「おはようございます」


 「毎朝律儀ねえ。今日もハコニワ?」


 「はい」


 「この前ね、私もあそこのコーヒー飲んできたの。おいしいわよねえ。豆が違うのかしら」


 八木さんは笑顔の人だ。しわの多い顔が、笑うとさらにしわになる。店の前に立って、通る人に声をかける。悪意がない。ただ話しかけたいだけの人だ。


 「そういえば」と八木さんが言った。


 私は少し、身を固くした。「そういえば」という前置きは、たいてい重要なことの前に来る。記者の経験からそう思っている。


 「宇野さんのとこ、最近どうなのかしらねえ」


 「どう、とは」


 「いや、奥さんが亡くなってから、お一人じゃないですか。お客さんも減ったでしょ、時計を直しに来る人なんてね、今はね。私、たまに前を通るたびに気になって」


 「夜は灯りがついてますよ」と私は言った。


 言ってから、少し驚いた。自分がそれを知っていることに。


 「そうなの? 遅くまで仕事してるのね。職人気質なのかしら。夜中に音がするって、向かいの人が言ってたわよ」


 「音?」


 「何かを削るような音、かしらね。よくわからないけど。でも商売に一生懸命なのはいいことよ」


 八木さんは水桶をそのまま店の奥に運んで行った。会話が終わった、という合図だった。


 私は立ったまま、宇野時計店の表を見た。


 夜中に音がする。


 何かを削るような音。


 私はメモ帳を取り出して、素早く書き留めた。




 喫茶ハコニワのカウンター席に座って、コーヒーを一口飲んだ。


 苦い。いい苦さだ。朝のコーヒーの苦さは体の中を整理する感じがして、好きだ。


 リカさんが水のグラスを補充しながら、「今日は寒いですね」と言った。


 「そうですね」


 「もうすぐ十一月だし」


 リカさんは常連客のほとんどの好みを把握している。七十代の川村さんはホットミルクを砂糖二つ。三十代の会社員らしい男性はアメリカンを毎朝。私はブレンドコーヒーをブラックで。


 「ちょっと聞いてもいいですか」と私は言った。


 「はい」


 「向かいの時計屋さん、何か知っていますか。宇野時計店」


 リカさんは少し考えてから、「常連さんが何人か来られてますよ」と言った。「時計を修理に出してるみたいで。高齢の方が多いですね。昔から宇野さんに頼んでるって」


 「店主の人は?」


 「無口な方ですよ。ここにも来られるんですけど、コーヒーを飲んでいる間も、ほとんど話されなくて。でも必ずお礼を言って帰られるし、悪い人じゃないと思いますけど」


 「奥さんが亡くなったの、知ってますか」


 「ああ、はい。二年前でしたっけ。長い間病気だったって聞きました。宇野さん、その頃は少し暗い顔をされてて……でも今はお仕事されてるし、落ち着かれたのかと思ってました」


 私はコーヒーを飲みながら、リカさんの言葉を頭の中で並べ直した。


 無口。悪い人じゃない。落ち着いた。


 どれも、表層の話だ。


 「夜、遅くまで仕事してるみたいですよ」と私は言った。


 「そうなんですか?」


 「夜中に音がするって、近所の人が言ってました」


 リカさんは少し、眉を動かした。何かを言いかけて、止まったように見えた。でも「そうですか」と言って、別の客のカップを片付けに行った。


 私は窓の外を見た。


 通りを、自転車が一台通った。配達員だった。ヘルメットをかぶっていて顔は見えない。荷台に箱を積んでいる。


 何気なく目で追った。


 配達員は商店街を東に向かって進んでいった。




 午後、仕事をした。


 正確には、仕事をしようとした。


 締め切りは来週の火曜日。緑ケ丘市の「空き家問題」についての取材記事で、すでに市の担当者と地元の不動産業者へのインタビューは済んでいた。あとは原稿を書くだけだ。字数は三千字。単価は一文字〇・八円。つまり完成しても二千四百円だ。


 私はパソコンの前に座って、インタビューのメモを広げた。


 十分後、私はメモ帳を開いていた。


 今朝の記録。八木さんとの会話。「夜中に音がする」という情報。昨夜のメモ。二夜連続の目撃。


 私の頭はどうしても、そちらに向いてしまった。


 記者の感覚、と言えばきれいに聞こえる。でも正確に言うと、もっと生々しいものだ。何かがある、という予感が頭の端に張り付いて、他のことに集中できなくなる。三年前もそうだった。少女の失踪事件を追っていたとき、最初に「見えた」瞬間があった。点と点がつながる感覚。それが快感だったことを、今は認めることができる。あれは快感だった。


 その快感が、私を誤報に走らせた。


 私はパソコンに向き直った。


 確認できていないことは書かない。確認できていることだけを整理する。今あるのは、深夜に店主が重い荷物を持って裏口から出た、という目撃情報だけだ。それだけだ。それだけで何かを結論づけることはできない。


 私は空き家の原稿を書いた。


 三千字、四十分で書いた。書いている間は、余計なことを考えないで済んだ。




 夕方、スーパーに寄って帰る途中で、来栖光一を初めて見た。


 正確には、「来栖光一」という名前をその時点では知らなかった。ただ、自転車に乗った若い男を見た。フードデリバリーのロゴが入ったバッグを背負っていた。ヘルメット。細身。二十代後半に見えた。


 彼は商店街の裏通りに入っていった。


 私は商店街の表通りにいて、角の位置から裏通りへの入口が見えた。彼が消えていった方向は、東方向だった。


 私はその場に立ち止まった。


 昨夜のメモ。東へ。


 一致した。


 偶然かもしれない。裏通りを東に向かう人間が一人や二人いることは何も珍しくない。商店街の裏通りは生活道路でもあるから、住人が通ることは日常だ。


 でも私は彼の進んだ方向と、時刻と、昨夜のメモを、帰宅後にノートの別ページに書き留めた。


 推論のページに。


 まだ点だ。これは点に過ぎない。点は線にならない限り、意味を持たない。


 私はそう自分に言い聞かせながら、ページを閉じた。


 でも閉じる前に、もう一行だけ書いた。


 配達員。深夜も動いている可能性あり。要観察。




 夜、アパートで缶ビールを一本飲んだ。


 飲みながら、父からのメールを読んだ。先月末に来ていたもので、まだ返信していなかった。


 奈緒へ。変わりないか。先日テレビで北陸の紅葉特集をやっていた。もうそちらも寒くなった頃と思う。体に気をつけなさい。返事はいつでもいい。功


 短いメール。いつもこれくらいの長さで来る。


 父の字は、メールでも父の字だ。文体が変わらない。高校の教師だったから、文章がきちんとしている。「返事はいつでもいい」という一文が、いつも最後についている。催促しない、という意思表示だということは分かる。


 私は缶ビールを飲み干した。


 返事を書こうとして、書かなかった。


 何を書けばいい。変わりないかと聞かれたら、変わりない、と書くしかない。でも変わりないという言葉が、嘘くさくて書けなかった。何かが変わり始めている気がしていた。それが何なのかはまだわからなかったけれど。


 薬を飲んで、ベッドに横になった。


 今夜は窓を見ない、と決めた。


 そう決めて、目を閉じた。




 眠れなかった。


 薬を飲んでいるのに眠れない夜が、たまにある。体が横になっているのに、頭だけが動き続けている感じ。思考の歯車が止まらない感じ。


 私は天井を見た。


 染みは暗がりの中でも薄っすらと見えた。もう見慣れた形だ。楕円形で、北側に向かって少し伸びている。


 宇野時計店のことを考えた。


 考えないようにしているのに、考えた。


 職人気質の男が、深夜に重い荷物を持って裏口から出る。夜中に何かを削るような音がする。妻が死んでいる。従業員が急に辞めた。


 これらに共通する何かがある気がした。


 でも何かが何なのか、まだわからない。点が集まりすぎて、線を引こうとすると手が止まる。


 時計を見た。午前一時半。


 窓のほうを見た。


 見ないつもりだったのに、顔がそちらを向いていた。


 カーテンの向こうは暗い。裏口の灯りはついていない。今夜は動きがないのかもしれない。


 私は目を閉じた。


 眠れた。


 翌朝、メモ帳には何も書き足されていなかった。




 三日後、藤堂真澄から電話があった。


 着信を見て、一瞬だけ躊躇した。


 真澄とは高校からの友人で、彼女が市の福祉課に勤めていることも、私がここに住んでいることも、彼女は知っている。誤報事件のあとも関係は続いていた。でも一年ほど前から、彼女のほうから連絡が減り始めた。私が何かしたわけではないと思っているが、確認したことはない。


 電話に出た。


 「久しぶり」と真澄は言った。声のトーンが少し高かった。


 「うん、久しぶり」


 「元気?」


 「まあ、元気」


 少し間があった。


 「今度、ご飯でも行かない? ちゃんと顔見ておきたくて」


 ちゃんと顔見ておきたい、という表現が気になった。顔を見ておく、という言い方は、何かを確認したいときに使う言葉だ。


 「いつ?」と私は聞いた。


 「来週くらいでどうかな。奈緒の都合に合わせるから」


 「わかった」


 日程を決めて、電話を切った。


 私はしばらく、スマートフォンの画面を見た。


 真澄が連絡してきた理由が、分からなかった。今さら「ちゃんと顔を見たい」という理由は何だろう。一年間、距離を置いていた人間が急に連絡してくる理由。


 私は考えた。


 誰かから、何かを聞いたのかもしれない。


 私の最近の様子を、誰かが話したのかもしれない。


 誰が話した?


 近所に私の知り合いはほとんどいない。仕事でやりとりするのはウェブメディアの編集者とだけで、対面したことは一度もない。喫茶ハコニワのリカさんは、私が何者かを知らないはずだ。


 西川先生は守秘義務がある。先生が外部に話すことはない。


 では誰が。


 私は推論のページにペンを走らせようとして、止めた。


 確認できていないことは書かない。それが私のルールだ。


 でも、頭の中では書いていた。




 真澄との電話の翌日、私は市役所の前を通った。


 用事があったわけではなかった。商店街から少し離れた方角にある市役所は、普段の生活動線にはない。わざわざ足を向けた、ということになる。


 なぜそうしたか、説明するのは難しい。


 ただ、真澄が働いている建物を見ておきたかった、とでも言うしかない。


 市役所は四階建ての古い建物で、北側のガラス張りの増築部分だけが新しかった。正面入口に立っている警備員が私を見た。私は目を逸らして通り過ぎた。


 福祉課は何階だろうか。


 考えてから、自分がそれを考えていることに気づいた。


 私は歩きながら、自分の思考を観察した。


 真澄の行動を確認しようとしている。なぜ連絡してきたかを確認しようとしている。それは正しいことだ、と私は思った。正しいことだ。記者は情報の発信源を確認する。情報を鵜呑みにしない。相手がなぜその情報を持っているかを確認する。それは基本中の基本だ。


 真澄は昔の友人だが、今の私との関係において何らかの意図を持って行動している可能性がある。


 その可能性を排除する前に、確認することは正しい。


 私は市役所の前を通り過ぎて、もと来た道を引き返した。




 その夜、また目が覚めた。


 時計は午前一時五十二分だった。


 今度は最初から窓のほうを見た。


 裏口に灯りがついていた。


 私は素早くカーテンの端を持った。外は暗く、私の部屋は暗い。見えていない。


 ドアが開いた。


 宇野誠が出てきた。


 今回は顔が見えた。月が雲の間から出ていて、路地を薄く照らしていた。白髪交じりの短い髪。作業着の上着。表情は見えなかったが、下を向いていた。


 荷物を持っていた。


 両腕で前に抱えるように。大きな布包み。角ばった形。


 私は目を凝らした。


 布の色は暗くて分からない。形は、長方形に近かった。縦が七十センチほど、横が四十センチほど、奥行きも相応にある。その大きさと、男の体の使い方から、重量を推定した。少なくとも十五キロ以上。


 宇野は裏口のドアを後ろ手に閉めて、路地を東に歩き始めた。


 私はすぐにメモ帳を手にとった。


 10/28(日)深夜1:52 宇野、三度目。荷物:長方形の布包み、推定70×40×40cm、推定重量15〜20kg。方向:東。表情:下向き。月明かりあり、顔の確認ができた。


 書いた。


 書きながら、今夜は記憶がある、と思った。


 昨夜のことは覚えていた。おととい夜のことも覚えていた。書いた記憶のないメモの夜だけが、空白だった。


 私はその空白を、今もうまく説明できなかった。


 薬のせいだ、と一応の結論は出していた。でもそれは説明であって、解決ではない。


 解決しなくていい。今重要なのは、三度目の目撃だということだ。


 月に数回ではないかもしれない。週に複数回、あるいはそれ以上の頻度で、宇野誠は深夜に同じ荷物を同じ方向へ運んでいる。


 私は推論のページを開いた。


 そこには配達員についての一行があった。


 配達員。深夜も動いている可能性あり。要観察。


 その下に、新しい行を書き加えた。


 宇野の行き先を確認する必要がある。東方向。歩いて何分か。荷物を持って歩ける距離か。目的地は何か。


 書いてから、一行空けて、さらに書いた。


 これは記録だ。調査ではない。記録。


 でも自分でも、その言葉に力がないことが分かっていた。


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