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夜の縁  作者: 鍵しっぽハンター
第一章「亀裂」

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第一話「十月の雨と、記憶の縁」

 不定期で更新します。

 よろしくお願いします。

 雨の音で目が覚めた。


 天井を見上げた。染みがある。引っ越してきた三年前からずっとそこにある、薄い茶色の染み。雨漏りではなく、前の住人が何かをこぼしたのだろうと最初は思っていたが、もう考えない。染みは染みだ。それ以上でも以下でもない。


 時計を見た。午前二時十七分。


 枕元の薬を飲んだ記憶はある。ハルシオン。就寝前に一錠。西川先生から処方されて、もう一年と四ヶ月になる。飲んだあとは眠れる。問題は、こうして夜中に目が覚めることだ。薬が切れる時間なのか、それとも私の眠りが浅いのか、西川先生に聞いたことがあるが、「体質によっては中途覚醒することがあります」と言われただけだった。そういうものだ、と私は思うようにしている。


 ベッドから出るつもりはなかった。


 でも雨音が変わった。


 屋根を打つ乾いた音から、路面に跳ねる重い音に変わった。雨粒が大きくなっている。十月下旬の北陸の雨はこうだ。冷たくて執拗で、昼も夜もなく続く。緑ケ丘市に越してきた最初の冬に、同僚の高木くんが「ここの冬は気が滅入るよ」と言っていたのを思い出す。あの頃の私は笑っていた。雨くらいで気が滅入るわけがないと思っていた。


 今はわかる。


 雨は人を内側に押し込む。


 起き上がって台所に行き、水を飲んだ。冷蔵庫の扉に貼ったメモが目に入った。「12日・西川医院・14時」。来週だ。また同じことを聞かれる。眠れていますか。食欲はありますか。気分はどうですか。私はいつも「問題ありません」と答える。それは嘘ではない。問題がないわけではないが、語るべき問題でもない。


 窓の外を見たのは、習慣のようなものだった。


 この部屋の窓は東向きで、路地を挟んで向かいのビルの裏面が見える。正確に言えば、三棟が入り組んだ構造になっていて、私の部屋からは二棟目と三棟目の間の隙間が見える。その隙間の奥に、木造二階建ての建物の裏口がある。


 宇野時計店の裏口だ。


 その裏口に、灯りがついていた。




 宇野時計店のことを私が知ったのは、引っ越して間もない頃だった。


 当時の私はまだ「北陸日報」の社会部記者で、緑町の取材に来る機会が何度かあった。商店街の再開発問題の記事を書いていたときに、宇野時計店の前を通ったのを覚えている。木製の看板。ショーウィンドウに並んだ古い時計たち。表通りに面した店の外観は、昭和の終わりごろで時間が止まったような佇まいだった。


 そのとき私は中に入らなかった。記事の取材対象ではなかったから。


 その後、誤報事件があって、私は会社を辞めた。アパートは引き払えなかった。和解金は弁護士費用と前の家賃の支払いで消えた。就職活動をしたが、「誤報記者」というレッテルは媒体を選ばなかった。結局、ウェブメディアへの寄稿で食いつなぐことになって、気づいたら緑町に住み着いていた。


 商店街は今も同じ場所にある。


 宇野時計店も同じ場所にある。


 ただ私の立場だけが変わった。


 今の私は、記者ではなく、ただの住人だ。




 裏口の灯りは、小さかった。


 蛍光灯ではなく、電球の色だった。橙色の、落ち着いた光。それが路地の壁に薄く広がって、雨で濡れたアスファルトに反射していた。


 私は窓に近づいた。


 部屋の電気は消えていた。だから外から見れば、私の部屋の窓は暗い。誰かが私を見返すことはない。それでも私はカーテンの端を少しだけ手で押さえながら外を見た。


 裏口のドアが開いた。


 男が出てきた。


 シルエットだけわかった。中背。作業着のような上着。何かを持っている。大きなものだ。両腕で抱えるようにして持っている。布に包まれているのか、形がはっきりしない。


 男は路地を右に歩き始めた。


 私は時計を見た。午前二時二十三分。


 メモ帳を取りに行った。枕元に常にある。記者時代の習慣で、今もメモ帳なしでは眠れない。ペンで書き留めた。


 10/24(水)深夜2:23 宇野時計店裏口より男性(店主と思われる)が荷物を持って出る。行先:路地を右(東方向)。荷物の形状:不明、布に包まれた大型の何か。


 書いてから、私は自分がそれをしていることに少し驚いた。


 習慣とは怖いものだ。




 翌朝、私は喫茶ハコニワに行った。


 毎朝行く。九時に開店して、十時過ぎには数人の常連客で席が埋まる。私はいつもカウンターの端の席に座る。窓側の席は商店街の表通りが見えるが、私はカウンターのほうが好きだ。背中に壁がある。


 「おはようございます」


 橘リカさんがコーヒーを持ってきた。注文していないのに。毎朝来るから、私が何を頼むか彼女は知っている。ブレンドコーヒー、砂糖なし、ミルクなし。


 「昨日、雨すごかったですね」と彼女は言った。


 「そうですね」


 私はコーヒーを一口飲んだ。苦い。いい苦さだ。


 リカさんは他の客の注文を取りに行った。彼女は二十五歳で、喫茶ハコニワで三年働いている。愛嬌があって、どんな客の話も否定しない。私が来るようになってから半年ほどになるが、彼女の接客を見ていると、聞き方がうまいのだとわかる。相槌のタイミングが的確で、口を挟まない。


 私はメモ帳を開いた。


 昨夜書いたメモ。


 改めて読むと、情報量が少ない。見たものを書いただけで、そこに意味はない。夜中に店主が何かを運んだ。それだけだ。時計屋なのだから、仕入れた部品か何かを夜に作業場に運ぶことはあるだろう。深夜に仕事をする職人は珍しくない。


 でも何かが、引っかかっていた。


 荷物の重さ、だった。


 男が荷物を持つとき、体の使い方でおよその重量がわかる。腰をわずかに落とした。膝を曲げた。上半身がやや前傾した。あれは、重いものを持つときの姿勢だった。十キロ以上、おそらく二十キロ前後。


 時計の部品ではない。


 私は、そう思った。


 思ってしまった。




 午後、私はアパートの周辺を歩いた。


 取材と言えるほどのことはしていない。ただ歩いた。商店街の表通りを端から端まで歩いて、裏通りに入り、時計店の裏口の前を通った。


 昨夜灯りがついていたドア。


 木製の古いドア。鍵がかかっているのか、それとも普段は開いているのか、外からはわからない。ドアの周囲を見た。裏口の上に小さな庇がある。電球が一つついている。それだけだ。


 路地の奥を見た。


 東方向。昨夜、男が歩いていった方向だ。


 路地は突き当たりで二手に分かれている。左に行けば商店街の裏側に出る。右に行けば緑町の住宅地に入る。どちらに向かったのかは見えなかった。


 私はメモ帳に路地の簡単な図を描いた。


 描いているうちに、自分が何をしているのか少し考えた。


 これは何だ。


 調査か。


 違う。ただ、気になっただけだ。記者だったから、気になることを書き留める癖がある。それだけだ。別に、何かを追いかけているわけじゃない。


 私はメモ帳を閉じた。


 でも閉じながら、思った。


 三年前、私は「何かがある」と思って、確認しないまま記事を書いた。


 今は違う。今は確認する。確認するために書き留めている。記者を辞めた今でも、事実を確かめる姿勢は失っていない。それが正しいことだ。確認することは正しい。


 私はそう自分に言い聞かせて、路地を出た。




 「にしかわ内科・心療内科」は、商店街から徒歩で三分の場所にある。


 今日は診察の日ではないが、処方箋が残り二日分しかなかった。電話して確認すると、残薬を持ってくれば同じ処方箋を出せると言われたので、午後三時に予約を入れた。


 待合室には四人の先客がいた。老人が二人、主婦らしい女性が一人、私と同年代に見える男性が一人。皆それぞれ視線を落として、自分の時間の中にいる。


 「桐島さん」


 西川先生は、白衣が似合う人だ。中肉中背で、話し方が静かで、患者の話を急かさない。私は最初、この人は頼りないのではないかと思っていたが、今は違うことが分かっている。静かなだけで、よく見ている。


 診察室に入った。椅子に座った。


 「残薬が少なくなったとのことで」


 「はい。昨日から雨が続いていて、少し眠りが浅くて」


 「中途覚醒が続いていますか」


 「二、三日に一度くらいです」


 先生は電子カルテを開いた。キーを打つ音がした。


 「眠れない日は、眠れないまま布団の中にいるほうがいいですよ。起き上がると脳が覚醒してしまうので」


 「はい」


 知っている。分かっている。でも昨夜起き上がったのは水を飲むためではなかった、と私は思った。窓の外が気になったのだ。でもそれは言わなかった。


 先生はしばらく画面を見てから、私のほうを向いた。


 「最近、気になることはありますか。仕事や、生活の中で」


 「特にないです」


 「食欲は」


 「問題ありません」


 「最近、夢と現実の区別がつかなくなるような感覚はありますか。目覚めたときに、夢の内容が現実の出来事のように思えたり」


 私は一瞬、答えを選んだ。


 「ないです」と私は言った。


 先生は私の目を二秒ほど見た。それから視線を戻した。


 「わかりました。では同じ処方を続けましょう。次回は来週、通常の診察日にいらしてください」


 処方箋を受け取って診察室を出た。


 廊下に出て、壁に背中をつけた。


 夢と現実の区別がつかなくなるような感覚はありますか。


 ない。ない。私にはそんな感覚はない。昨夜見たものは夢ではない。午前二時二十三分に宇野時計店の裏口から男が荷物を持って出た。それは現実だ。私はそこにいた。私の目で見た。


 メモ帳に書いてある。


 現実のことは、メモ帳に書いてある。




 夕方、アパートに戻った。


 郵便受けに何も入っていないことを確認して、三階建てのアパートの階段を上がった。二〇三号室の鍵を開けて、電気をつけた。


 部屋は八畳一間と小さな台所。収納スペースに本棚代わりの棚を置いて、そこに仕事の資料と過去の取材ノートを並べている。取材ノートは二十七冊ある。三年前の事件の前まで書いていたもの。事件のあと、私はノートを書くのをやめた。書いたことが嘘になるのが怖かったから。


 代わりに使い始めたのが、今の手帳型のメモ帳だ。


 日記ではない。ただの記録だ。


 見たこと。聞いたこと。感じたこと。それを書く。書いたことは消えない。書いたことは現実だ。


 私は机に向かって、今日のメモを整理した。


 時刻。場所。状況。そこから得られる推論。


 推論は、現実ではない。だから別のページに書く。現実と推論を混ぜない。それが私のルールだ。三年前に失敗したのは、推論を現実と混ぜたからだ。


 今夜は早く眠ろう。


 そう思って、薬を飲もうとしたときに、窓の外が気になった。


 また、その感覚だ。


 私は窓に近づかなかった。


 薬を飲んで、ベッドに横になった。


 天井の染みを見た。雨音がまだ続いていた。


 眠れた。




 翌朝目が覚めたとき、枕元のメモ帳に何かが書いてあった。


 私が書いた字だった。


 でも書いた記憶がなかった。


 10/25(木)深夜——男、また。同じ荷物。東へ。


 時刻の部分が空欄になっていた。


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