【南北朝の終焉とその後の火種編】第三十段 富子のこと
【南北朝の終焉とその後の火種編】第三十段 富子のこと
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義成は改名して義政になった。その義政に嫁いできた女がいる。日野富子という。これがなかなか只者ではない女性でな、今回はこの人について書いておこうと思う。
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篁様へ申し上げ候。
此度、下界にて見届け候仔細、左の如くに候。
享徳二年、義成、名を改め義政と名乗り候。この義政の正室として迎えられし日野富子、名門日野家の出にて、康正元年、十六歳にて義政に嫁ぎ候。夫たる義政、政をなおざりにし、遊興・普請にのみ心を向ける有様にて、幕府の勘定、誰かが担わねば~~~~~~~
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現代語訳
篁様、報告します。
今回見たことを書いておきます。
享徳2年(1453年)、義成は名を改め、義政と名乗るようになりました。この義政の正室として迎えられた日野富子は、名門日野家の出身で、康正元年(1455年)、16歳で義政に嫁ぎました。夫の義政は政治をおろそかにして遊びや建物の普請ばかりに心を向けているので、幕府の財政は誰かが担わなければ立ち行かない状態でした。
これを一手に引き受けたのが、他でもないこの富子です。関所を作って通行料を取り、米の商売にも手を出し、時には賄賂も受け取っていたそうで、下界では「守銭奴」という悪評がもっぱらのようです。
でも、私が見るところ、この蓄財は自分の懐を肥やすためだけではなさそうです。朝廷や寺社への援助、あるいは戦を収めるための金の貸し付けなどにも使われているようで。夫が建物に金を注ぎ込む一方で、その金策を一身に背負う妻。どちらが本当の意味で政治を担っているのか、はたから見ていて、なかなか皮肉な話だと思いました。
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悪評というのは、往々にして「動いた者」にこそ集まるものらしい。何もしなかった夫よりも、実際に金を動かし、決断を下した妻の方が、後々まで悪く言われるとは。我自身、生前あれこれと人の評判を軽々に書いてきた身として、これは他人事とは思えぬ話だ。




