【南北朝の終焉とその後の火種編】第二十五段 暗殺の後
【南北朝の終焉とその後の火種編】第二十五段 暗殺の後
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義教亡き後の幕府、これがなかなか大変な有様だった。上を失った混乱に乗じて、下からも突き上げが来るという、まさに泣きっ面に蜂という言葉がぴったりの騒ぎだ。
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篁様へ申し上げ候。
此度、下界にて見届け候仔細、左の如くに候。
義教討たれし後、幕府は満祐討伐のため軍勢を差し向け候。討伐の総大将となりしは、山名持豊と申す者にて、これが功により播磨守護職を得候由に~~~~~~~
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現代語訳
篁様、報告します。
今回見たことを書いておきます。
義教が討たれた後、幕府は満祐討伐のために軍勢を差し向けました。討伐軍の総大将となったのは山名持豊という人物で、この功績によって播磨の守護職を得たそうです。満祐は間もなく本国の播磨で追い詰められ、自ら命を絶ちました。
ところが、この討伐軍が京を留守にした隙を突いて、京都・近江の民衆が一気に一揆を起こしました。「将軍の代替わりのときには徳政令が出るはずだ」と主張して、京都の出入り口を封鎖し、土倉や酒屋を襲ったそうです。幕府はついにこれに屈して徳政令を出しました。これまで幕府が民衆の要求に屈したことは一度もなかったので、これが初めての例だと思います。
将軍がたった1人討たれただけで、上は権威を落とし、下は勢いづく。1つの綻びが次から次へと連なって広がっていく様子を見ていて、正直恐ろしいものを感じました。
なお、この討伐で功績を挙げた山名持豊という人物、これから先もまた下界の政治に大きく関わってきそうな、妙な胸騒ぎがしています。
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義教という一本の柱が倒れただけで、上も下もこれほど揺らぐものかと、我は改めて思い知らされた。それにしても、あの山名持豊という名、なぜだか妙に記憶に残る。我の勘が当たっているとすれば、この男とはまだこの先も縁が切れないような気がしてならない。
この頃相次いだ飢饉について書きたいと思う。人の政が乱れる時、天もまた、容赦なく荒れるものらしい。




