【南北朝の終焉とその後の火種編】第二十四段 嘉吉の乱
【南北朝の終焉とその後の火種編】第二十四段 嘉吉の乱
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義教の恐怖政治、ついに己の身に跳ね返ってくることになった。将軍が家臣の手にかかって命を落とすなど、我の生きていた頃には考えも及ばぬ話だが、それが現実に起きた。
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篁様へ申し上げ候。
此度、下界にて見届け候仔細、左の如くに候。
嘉吉元年六月、播磨国の守護・赤松満祐、義教より所領を没収されるとの噂に憤り、また我が身にも危機の迫るを恐れ候。かねてより、義教、有力なる守護大名を次々に誅殺いたし~~~~~~~
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現代語訳
篁様、報告します。
今回見たことを書いておきます。
嘉吉元年(1441年)6月、播磨国の守護・赤松満祐は、義教から領地を没収されるという噂に激しく憤り、自分の身にも危険が迫っていることを恐れました。以前から義教が有力な守護大名を次々と粛清していたので、満祐にとっても他人事ではなかったようです。
満祐は、関東平定の祝いだと偽って義教を自分の屋敷の宴席に招きました。宴もたけなわのころ、屋敷の門が突然閉ざされ、満祐の家臣たちが乱入して、逃げようとする義教の首を刎ねました。同席していた他の守護大名たちは、ただ狼狽するばかりで、義教を助けようとする者は誰一人いなかったそうです。
この将軍の最期を、ある公家が日記に「犬死」と、かなり手厳しい言葉で書き記しています。恐怖で人を従わせていた者の末路というのは、本当に哀れなものだと、見ていて思わされました。
満祐はその後、本国の播磨に戻って幕府に抵抗しましたが、間もなく追討軍に攻められ、自ら命を絶ちました。こうして赤松の家は滅びることになりました。
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籤で選ばれ、恐怖で人を従え、そして家臣の手にかかって果てる。義教の生涯を通して見ると、まるで一つの戒めの物語のようだ。人を恐れさせることで得られる権力というのは、結局のところ、いつか自分自身に牙を剥くものなのかもしれない。




