【南北朝の終焉とその後の火種編】第十七段 義満身罷る
【南北朝の終焉とその後の火種編】第十七段 義満身罷る
-------------------
あれほどの権勢を誇った義満にも、ついに終わりの時が来た。しかもその最期、そして死後の顛末が、なんとも義満らしいと言うべきか、皮肉と言うべきか、実に考えさせられる話だった。
________________________________________
篁様へ申し上げ候。
此度、下界にて見届け候仔細、左の如くに候。
応永十五年、義満、我が子・義嗣を、親王の儀に準じて元服させ候。この振る舞い、下界にては、義満、ゆくゆくは義嗣を皇位に就け、自らは「治天の君」たらんとの企てにあらずやと、密かに囁かれ~~~~~~~~~
________________________________________
現代語訳
篁様、報告します。
今回見たことを書いておきます。
応永15年(1408年)、義満は息子の義嗣を、まるで皇族のような格式で元服させました。この振る舞いを見て、下界では「義満はゆくゆく義嗣を天皇の位に就けて、自分は『天皇の父』として君臨するつもりなのでは」と、こっそり噂されていたそうです。
ところが、その2日後に義満は突然病に倒れました。一時は持ち直したかに見えましたが、間もなく病状が悪化し、5月6日にとうとう亡くなりました。享年51。
その死の3日後、朝廷から義満に「太上天皇」の尊号を贈ろうという話が出たのですが、当の将軍職を継いだ義持と、管領の斯波義将が、これをきっぱり辞退したそうです。
生前あれほどの権勢を振るって、皇位にすら手をかけようとしていた男が遺した尊号を、他ならぬ自分の息子が退けてしまう。人の世の栄華のはかなさを、これほどはっきり示す出来事もそうそうないだろうと思いました。
________________________________________
死してなお欲しかったであろう「太上天皇」の号を、実の子に拒まれるとは。義満ほどの男でも、死んでしまえば後のことは誰にも分からぬものらしい。生前、あれほど公家にも武家にも顔の利いた男の望みでさえ、こうもあっさり退けられるのだから、権勢というのはつくづく、生きている間だけのものなのだろう。




