8
会ったばかりなのに。人見知りなのに。咄嗟に、行動を起こしてくれたのか。
(……僕の、ために)
「! え、あの……えと」
急に慌て出したミアは、ポケットから、ハンカチを取り出し、エディに両手で差し出した。
「…………え?」
「な、涙、ふいてください」
エディは言われてはじめて、自分が泣いていることに気付いた。ハンカチを受け取ろうとして、はっと手を引っ込める。
「……ハンカチ、汚してしまうから」
ばれたら、ルソー伯爵に怒られてしまうかもしれない。そんな考えが、頭を掠めた。もはやその思考は、エディの中で、習慣となってしまっていた。
ミアはおろおろしたあと「……じゃあ、わたしがふいてもいいですか?」と、聞いてきた。
エディが目を丸くする。涙は、まだ流れている。自分ではもう、止められそうになかった。
「わたし、昔、あまり上手く泣けなかったそうなんです。自分ではもう、あまり覚えてないんですけど……」
ミアは戸惑いながらも、エディの頬にハンカチを当ててきた。
「でも、四歳のとき、お父様とお母様が、今日のような夜会に招待されて……わたしも一緒にと言われたんですけど、迷惑かなって、断ったんです。なのに、お父様とお母様がいない夜が、怖くなってしまって……」
「……うん」
「お父様たちが帰ってきたとき、たぶん、はじめて大泣きしてしまったんです。お父様たちはごめんねと言いながらも、泣けるようになったんだねと、優しく抱き締めくれました。だから、泣くことは、きっと大切なんです」
ぎこちなくも、伝えたい想いを必死に伝えようとするミアの姿に、エディの涙は、ますます溢れた。
(……全然、違った)
コーリーと似ているなんて、どうして思ったんだろう。例えばこれまでの話がすべて嘘だとしても、どんな思惑があったとしても、目の前の女の子は、気付いてくれた。見てくれていた。なにも知らないはずなのに、僅かな心の叫びを、聞いてくれたような気がした。
──ああ。僕はもう、それだけで。
やっと止まってくれた涙に、エディは、すみません、とミアに小さく微笑みかけた。
「ハンカチ、洗ってお返ししたいので、預かってもいいですか?」
「い、いえ。そんなことしてもらわなくても……」
「お願いします。次にあなたに会える、口実がほしいのです」
芯のこもった口調に、ミアは、目を瞠った。それから自身の手の中にあるハンカチを見詰め、それを、そっとエディに差し出した。
エディは花柄の刺繍が施されたハンカチを右手で受け取ると、柔く、それを握った。
「……ありがとう」
掠れた声。ぎこちない、笑顔。互いになにかを察したであろうエディとミアは、それでも、深くなにをたずねることもなく、とりとめのない話をしながら、夜会が終わるまでのあいだ、離れることなく、共に過ごした。
ルソー伯爵の養子となってから、はじめて、エディに逃げ道ができた。心の拠り所と言ってもいいだろう。
あの夜会で、ミアと親しくなったエディに、ルソー伯爵は、たいそう満足していた。絶対に逃がすな。その命に、はじめて心から、はいとうなずいた。
王都を出立した馬車には、エディと、護衛と、馭者しか乗っていない。つまり、ルソー伯爵家の誰もいないのだ。
ジェンキンス伯爵の屋敷は、王都から馬車で、片道、四、五日はかかる。移動だけでも最低、八日を要するので、その日にち分、ルソー伯爵家から、コーリーから、離れられるということだ。
ジェンキンス伯爵の屋敷に行く。ルソー伯爵はそれを喜んで許可したが、コーリーは予想通り、激しく拒否した。黙って出立する手もあったが、そうすると、二回目からがより面倒になるので、移動日程など、すべてを伝えた。
『いやです! そんなにながいあいだおにいさまとはなれるなんて、さびしくてしんじゃいます!』
『どうしてもというなら、コーリーもいっしょにいきます!』
キイキイ響く金切り声に、頭痛がした。けれど怒鳴るわけにも無視するわけにもいかず、これはお父様の命令なのだと、ルソー伯爵も加わり、説得し続けた。
けれど。結局、納得はさせられず。結果、コーリーがまだ眠っている早朝に、屋敷を出ることになった。
「……帰りたくないなあ」
ぽつりと呟く。心なしか、楽に息ができる。それでもコーリーを脳裏に浮かべれば、気分は沈む。
手のひらに置いた、ハンカチを見る。自分で綺麗に手洗いし、アイロンをかけたものだ。
「……ミア嬢」
会いたい。そう願っているのは、自分だけだろうか。これが好意なのか、ただ、縋りたいだけなのか。今はまだ、わからないけど。
(きみに会いたいのは、本当だから)
馭者や護衛の男たちとの会話は、必要最低限。そんな移動ではあったが、エディの心は、終始、とても凪いでいた。
「やあ、いらっしゃい。遠路はるばる、ようこそ。大変だったろう」
「あなたがエディね。まだ十歳なのに、護衛の人たちとだけでここまで来るなんて、すごいわ。しっかりしているのね」
ジェンキンス伯爵の屋敷に着くなり、当主家族自らが、出迎え、労いの言葉をかけてくれた。
心が、じんわりと温かくなる。
「いいえ、そんな。僕はただ、馬車に揺られているだけだったので」
あら。ジェンキンス伯爵夫人が上品に笑い、エディからミアに視線を移した。
「見目も良いのに、物腰もとても穏やかなのね。ミアが仲良くなれたのも、納得だわ」
頭を撫でられながら、少し緊張したようにミアが頬を赤く染める。父親だけでなく、母親にも、大事に、ちゃんと想われている。そのことはもう、妬ましくもなく。何故か安堵さえ覚えて。
(僕は存外、単純なのかもしれないな)
まだ、会ったばかり。過ごした時間は、一日にも満たない。
それでもエディにとって、ミアは、はじめて心の痛みに気付いてくれた人。そして、涙を拭ってくれた人だったから。
惹かれるきっかけとしては、充分だった。
ジェンキンス伯爵の屋敷は、とても居心地が良かった。それこそ、ふいに、訳のわからない涙が溢れそうになるほどに。
ミアもだったが、ジェンキンス伯爵も、ジェンキンス伯爵夫人も、人の心の機微に聡く、そんなエディの様子を、心から心配してくれた。それがまた、涙を誘った。
「なにか困ったことがあったら、なんでも相談していいんだよ。力になるから」
ジェンキンス伯爵の言葉に、揺れたのは事実だ。けれど、やはり会ったばかりの相手に、なにもかもを打ち明ける勇気は、持てなかった。
(……子どもの言うことより、普通は、大人で地位もある、ルソー伯爵の方を信じるよな)
下手なことすれば、これまでの努力や我慢がすべて無駄になり、地獄を見ることになる。なにより、そんな賭に出なくても、希望の道を見つけることができたから。
「いえ、なんでもありません。心配してくださり、ありがとうございます」
笑顔で、そう返すことができた。
ルソー伯爵から許されたのは、一泊だけ。むろん、エディを心配したのではなく、コーリーのためだ。
(……どこまでも、どこまでも、邪魔してくるな)
ふあ。
テーブルに置かれた燭台の蝋燭に照らされた、正面に座るミアが、小さく欠伸をした。エディは、はっと黒い思考を止めた。
「すみません、つい、長話をしてしまって。もう、眠る時間ですよね」
ミアの自室にある窓の外を見ればもう、真っ暗だった。二人きりの空間は、はじめこそ少し緊張したけれど、たまに訪れる沈黙も、苦ではなかった。だからこそ、時間をすっかり忘れてしまっていた。
「ち、違います。欠伸ではありません」
慌てたように手を左右に振るミア。気を遣ってくれているのか。それとも、エディと過ごす時間を、惜しんでくれているのか。本当のところはわからなかったが、後者なら嬉しいなと、エディは立ち上がった。
あ。小さく、ミアが残念そうに声を出した。エディは素直に嬉しかったが、本来ならもう、とっくに寝ている時間だったので、後ろ髪を引かれる思いで、今日はこれで、と微笑んで見せた。
「おやすみなさい、ミア嬢。とても、とても楽しかったです」
「わ、わたしもです。お父様とお母様以外の方と、こんなにお話したのは、はじめてです」
「それは、良かったです」
エディは二つある燭台のうち、一つを手に持ち、部屋の外までミアにお見送りされたあと、隣の客室へと向かった。蝋燭の灯りを吹き消し、寝台へと身体を横たえる。窓からもれる微かな夜空の光に照らされた天井を見上げる。
おにいさま!
ふいに響いた幻聴に、勢いよく上半身を起こすエディ。だが、部屋には誰の気配もない。
ふう。息を吐き、再び寝台に仰向けに転がる。毎日、毎日。何度も、何度も聞かされているのだから、耳にこびりついていても、仕方のないことではある、が。
「……せめて、今日ぐらいは忘れさせてくれ」
ぽつりと吐露した科白は、薄闇の中、誰に届くことなく、消えていった。
次の日の、別れの朝。
「今度は、私たちが王都に伺うとするよ」
ジェンキンス伯爵の言葉に、エディは、焦ったように、いいえ、と首を左右にふった。
「今度も、その次も。僕が、この屋敷に来ます」
「しかし、それではきみの負担が」
「負担なんかじゃありません。むしろ、僕は……その」
エディが、なんと伝えればいいかと言葉に詰まる。言えない。でも、どうか、あの人たちと離れられる時間を奪わないで。心で叫ぶ。
「──わかったよ、エディ。きみの言葉に甘えるとしよう」
ふいに響いた優しい声色に、エディは目を丸くした。それは、大人びて見えるエディが、年相応の顔をした瞬間だった。ジェンキンス伯爵夫人が、穏やかに微笑む。
「待っているわ、エディ。ね、ミア」
ジェンキンス伯爵夫人が、隣に立つミアに視線を移した。ミアは、うつむきながらもエディの方をちらっと見て、はいとうなずいた。
「……また、エディ様とお話できるの、楽しみにしています」
ふっと、ミアが小さくはにかんだ。それがなんだかやけに嬉しくて、エディの頬は、自然と緩んだ。
本当に、同じ道を通っているのか。疑いたくなるほど、ルソー伯爵の屋敷までの道のりは、恐ろしいほどに、早く感じられた。
身体が、心が、重い。
(なんだか、吐き気までしてきたな……気のせいかな)
屋敷に着いたと護衛に声をかけられても、エディは馬車内に、しばらく留まった。だが、そんな抵抗、長く続くはずもなく。
「おにいさま! おにいさま!」
馬車の扉が開かれ、コーリーが飛び込んできた。涙を流しながら、エディに抱き付いてくる。
「おにいさまのばか! ばか! コーリーは、さびしくてしんじゃうかとおもいました!」
好意など欠片もないまま、コーリーの背中を撫でるエディ。ごめん。これも、ルソー伯爵家のためなんだ。屋敷を出る前にした言い訳を、繰り返す。
離れていたぶん、コーリーのエディへの依存度は増したようで。片時もエディの傍を離れないようになってしまった。むろん、エディのストレスも、それに比例して蓄積されていく。
二ヶ月後。耐えきれなくなって、ジェンキンス伯爵の屋敷に逃げるように出掛けた。
もう一時間ほどで、ジェンキンス伯爵の屋敷に着く。そんなとき、ピシャッという、雷の音が辺りに鳴り響き、同時に、ぽつぽつと雨が降り出しはじめた。
「ひどくならないといいけど……」
馬車内から、嫌な色に染まる曇り空を見上げる。どうせなら、明日の朝、嵐になればいいのに。その願いが叶うことはなかったが、エディはこの数時間後に、この雷に、感謝することになる。