第二章 果てしない書架
剛は、しばらくその場から動けなかった。
目の前に広がる光景を、どう表現すればいいのだろう。
高い天井。幾重にも重なる通路。壁という壁を埋め尽くす書架。そして、その間を忙しそうに行き交う人々。
いや、人々に見えた。
白い作業服を着た者もいれば、紺色の制服を着た者もいる。台車を押して本を運ぶ者、端末を操作する者、書架の前で何かを確認している者。誰もがそれぞれの仕事に集中していた。
その光景は、巨大な工場にも似ていた。
「すごいでしょ?」
隣に立つピノが言った。
「……すごいなんてもんじゃないですよ」
剛はようやく声を絞り出した。
「ここ、どこまで続いてるんですか?」
「さあね」
「さあねって……」
「正確な広さを聞かれても、僕も全部は把握してないんだ。普段使う場所なら案内できるけど」
ピノはあっさり答えた。
剛はもう一度、遠くの書架を見渡した。
見える範囲だけでも、町の図書館とは比較にならない。学校の図書室など、ここに比べれば小さな物置のようなものだろう。
しかも、ここにあるのは本だけではなさそうだった。
奥の区画では、大きな機械が規則正しく動いていた。透明なケースの中を、薄い板状のものが次々に流れていく。別の装置では、何かを読み取るように光が走っていた。
「ピノさん。あそこでは何をしてるんですか?」
「ああ、あれ? 本を作ってるんだよ」
「本を?」
「うん。ここに収める本をね」
剛は首をかしげた。
「でも、あんなにたくさん本があるのに、まだ作ってるんですか?」
「そりゃあね。記録されるものは、今この瞬間にも増えていくから」
ピノは当たり前のように言った。
「人が何かを書いたり、発見したり、誰かに手紙を送ったりするでしょ。そういうものも、記録の対象になるんだ」
「手紙まで?」
「手紙も立派な記録だよ」
剛は、その言葉を頭の中で繰り返した。
手紙。
自分のもとに届いた、あの差出人のわからない招待状を思い出す。
あの手紙も、ここで作られたものなのだろうか。
いや、そもそも誰が自分に送ったのか。
聞きたいことはいくつもあった。しかし、何から聞けばいいのかわからなかった。
「まあ、説明は少しずつでいいよ。まずは中を見て回ろう」
ピノは剛の背中を軽くたたいた。
「長旅で疲れているでしょ。無理はしなくていいからね。あの家の部屋は、いつでも自由に使っていいから」
剛はうなずいた。
考えてみれば、名古屋からここまで来て、長い移動の疲れもあった。
それでも、すぐに戻る気にはなれなかった。
「……もう少しだけ見てからでもいいですか?」
剛が言うと、ピノは笑った。
「そう言うと思った」
*
ピノに連れられて、剛は書架の間を歩いた。
通路の途中には案内板が設置されていた。そこには見慣れた日本語が表示されている。
歴史。文学。自然科学。芸術。哲学。
学校の図書室や公共図書館でも見かける分類だ。
しかし、その先に並んでいる項目は、剛の知らないものばかりだった。
個人記録。
生活史。
未刊行資料。
地域別記録。
そして、数え切れないほどの細かな分類。
「個人記録って何ですか?」
「一人ひとりの人生に関する記録だよ」
「有名人のですか?」
「有名かどうかは関係ないんだ」
ピノは歩きながら答えた。
「歴史の教科書に載るような人もいれば、生涯、一度も新聞に名前が出なかった人もいる。どちらも人間だし、どちらの人生にも、その人にしか残せないものがあるからね」
剛は足を止めた。
自分は、歴史上の偉人の伝記を読むのが好きだった。発明家や探検家、作家たちが、何を考え、どんな苦労をして何かを成し遂げたのか。それを知るたびに、自分の知らない世界が広がっていく気がした。
けれど、名前も残らなかった人々の人生について、考えたことはあまりなかった。
「普通の人の記録も、全部あるんですか?」
「全部、とは言い切れないかな。記録そのものが残っていない場合もあるし、収集できていないものもある。でも、できる限り多くの人生を残そうとしているんだ」
「どうしてですか?」
ピノは少しだけ考えるような顔をした。
「歴史って、偉い人が何をしたかだけじゃないからね」
その言葉は、剛の胸に不思議な余韻を残した。
自分の人生など、誰かに記録してもらうほどのものではないと思っていた。
児童養護施設で暮らし、学校へ行き、アルバイトをしながら高校を卒業した。それだけだ。
特別な才能があるわけでもない。大きな夢があるわけでもない。
ただ、本を読むのが好きだった。
それだけの自分が、なぜこんな場所に招待されたのだろう。
「ピノさん」
「ん?」
「僕のことも、ここに記録されてるんですか?」
ピノは剛を見た。
「うん。剛さんの記録も、ちゃんとあるよ」
「……いつからですか?」
「ずっと前から、とだけ言っておこうかな。詳しいことは、もう少し先で話すね」
その答えに、剛は少し落ち着かなくなった。
自分の知らないところで、自分の人生が記録されていた。そう考えると、胸の奥がざわついた。
それを察したのか、ピノは穏やかに続けた。
「でも、記録は誰にでも見せるものじゃないよ。ここでは、とても大切に扱われているから。安心してね」
その言葉に、剛は小さくうなずいた。
誰かの人生を残すという行為そのものには、惹かれるものがあった。
自分が知らない誰かの人生を読む。
その人が何を食べ、誰を好きになり、何に悩み、どんな景色を見ていたのかを知る。
それは、剛が本を読むときに感じていた楽しさと、どこか似ている気がした。
*
やがて二人は、小さな休憩スペースにたどり着いた。
壁際には椅子とテーブルが並び、飲み物を提供する機械も置かれていた。窓はないが、天井から柔らかな光が降り注いでいる。
「ここで少し休もう」
ピノが言った。
「飲み物は好きなものを選んでいいよ」
剛は機械の前に立った。
表示されている飲み物の種類は多かった。水やお茶、コーヒー、ジュース。見たことのない名前のものもある。
結局、剛は無難にお茶を選んだ。
紙コップではなく、薄い透明な容器が出てきた。手に持つと、ほんのり温かい。
「いただきます」
一口飲む。
普通のお茶だった。
そのことが、なぜかうれしかった。
ここは常識の通じない場所だ。家の中に隠された入口を通り抜けた先に、果てしなく広がる図書館がある。人間にしか見えない作業員たちが、本を作り、運び、整理している。
それなのに、お茶の味は変わらない。
剛は容器を両手で包んだ。
「……ここ、本当に何なんでしょうね」
「図書館だよ」
向かいに座ったピノが答えた。
「それはわかってます」
「じゃあ、何が知りたいの?」
「全部です」
剛が即答すると、ピノは声を上げて笑った。
「そりゃあ大変だ。全部知るには、かなり時間がかかるよ」
「どれくらいですか?」
「さあ。剛さんの人生が何回あっても足りないかもしれないね」
冗談なのか、本気なのか。
剛には判断がつかなかった。
ただ、その言葉を聞いても、不思議と不安にはならなかった。
むしろ、胸の奥が熱くなった。
自分の知らないことが、まだこんなにもある。
それを知るための場所が、目の前に広がっている。
考えただけで、いても立ってもいられなくなった。
「ピノさん。僕、早く本が読みたいです」
「いいね。じゃあ、最初の一冊を探しに行こうか」
*
休憩スペースを出ると、ピノは書架の並ぶ一角へ剛を案内した。
そこには、ほかの場所よりも背の低い棚が並んでいた。棚には、手のひらほどの大きさの黒い装置が整然と収められている。
「本はどこにあるんですか?」
剛は周囲を見回した。
「ここにあるよ」
「え?」
「これが本なんだ」
ピノが棚から一つを取り出した。
見た目は、黒い表紙の小さな本によく似ていた。厚さも重さも、一般的な文庫本に近い。
「これが?」
「そう。試しに、剛さんのカードを使ってみて」
剛はポケットから黒いカードを取り出した。
何年も大切に持ち続けてきたカードだ。ここまで来て、ようやく本来の使い道がわかるのかもしれない。
ピノに教えられたとおり、装置の端にカードをかざした。
小さな電子音が鳴った。
次の瞬間、装置の上に淡い光が広がった。
空中に、文字が浮かび上がる。
書名。著者名。発行年。
そして、見覚えのない文章が、ページの形をとって現れた。
「……これ、どうなってるんですか?」
「立体映像だよ。カードが閲覧権限を確認して、剛さんが読める本を表示しているんだ」
剛は恐る恐る、空中に浮かぶページに指を伸ばした。
指先が文字に触れる。
すると、ページが一枚めくられた。
剛は息をのんだ。
確かにページがめくれた。紙に触れているわけではないのに、指の動きに合わせて文字が移動し、次のページが現れる。
もう一度、指を滑らせる。
ページがめくれる。
さらにもう一度。
剛は思わず笑った。
「すごい……!」
声が大きくなったことにも気づかなかった。
子どものころから、いろいろな本を読んできた。図鑑も、小説も、伝記も、科学の本も。
けれど、こんな本は初めてだった。
紙ではない。
それでも、本だ。
文字があり、ページがあり、読み進めることができる。
形が変わっても、本が本であることに変わりはない。
「これ、全部の本がこうなってるんですか?」
「基本的にはね。古い形式の本も一部残っているけど、ここの蔵書はこの方式が中心だよ」
「じゃあ、ここにある本を読むには、全部カードが必要なんですか?」
「閲覧できる本は、剛さんのカードで確認できるよ。詳しい仕組みは、使いながら覚えればいいからね」
剛はページをめくる手を止めた。
画面に表示されていたのは、ある町に暮らした一人の人間の記録だった。
名前は知らない。
歴史の教科書にも出てこない。
けれど、その人がどんな暮らしをしていたのか、どんな出来事を経験したのかが、文章として残されていた。
剛は、最初の数行を読んだ。
そして、もう少し先を読みたいと思った。
その人がどんな人生を送ったのか、知りたくなった。
「ピノさん。この本、最初から最後まで読んでもいいですか?」
「もちろん」
「時間はかかるかもしれませんけど」
「誰も急かさないよ。ここは、剛さんが本を読むための場所なんだから」
剛はうなずいた。
長い間、自分は本の中に居場所を探していた。
現実がつらいとき、本を開けば別の世界へ行けた。知らない人の人生を知り、知らない場所を旅し、知らないことを学ぶことができた。
そして今、自分の目の前には、これまで想像したこともないほどの本がある。
一生かけても読み切れないかもしれない。
いや、読み切れないだろう。
それでもいい。
読み切れないほどの本があるということは、明日も、その次の日も、知らない何かに出会えるということなのだから。
剛は、空中に浮かぶ最初のページへ視線を戻した。
そのとき、ふと思い出した。
自分は、どうしてこの場所に招待されたのだろう。
誰がカードを送り、なぜ自分だったのか。
ピノなら、何か知っているかもしれない。
けれど、今は聞かなくてもいい気がした。
目の前の文章には、まだ読んでいない続きがある。
剛は指を滑らせ、次のページを開いた。
4d地下図書館での、最初の読書が始まった。




