第一章 招待状
近藤剛は、本を読んでいる時間が好きだった。
小学六年生の剛には、帰る家がなかった。
正確にいえば、帰る場所ならあった。名古屋市内にある児童養護施設。決まった時間に食事が出て、眠る場所もある。職員たちは忙しいながらも、剛のことを気にかけてくれていた。
それでも、ときどき自分の居場所がどこにもないような気持ちになることがあった。
そんなとき、剛は本を開いた。
本の中には、行ったこともない国があった。見たこともない海の向こうには、知らない町があり、町の片隅には不思議な店があった。空を飛ぶ船も、魔法を使う人間も、何百年も生きる賢者もいた。
ページをめくるたび、剛は自分のいる場所から遠く離れることができた。
施設の図書コーナーにある本は、ほとんど読み尽くしていた。お気に入りの物語なら、結末まで覚えている。それでも何度も読み返した。
同じ本なのに、読むたびに違うことが見えてくる。
登場人物の何気ない一言が、前に読んだときとは違う意味に思えることもあった。
本は不思議だった。
何も変わっていないはずなのに、読む自分が変わると、物語まで違って見えるのだ。
ある日の午後、剛は職員に呼ばれた。
「剛、あんた宛てに手紙が届いているよ」
「僕に?」
「そう。珍しいねえ」
差し出されたのは、白い封筒だった。
表には、近藤剛とだけ書かれていた。差出人の名前も住所もない。郵便物として届いたはずなのに、消印すら見当たらなかった。
剛は首をかしげながら封筒を受け取った。
自分宛てに手紙が届くことなど、ほとんどなかった。学校からのお知らせや役所の書類ならともかく、個人からの手紙となると思い当たる相手がいない。
封筒を開けると、一枚の紙と黒っぽいカードが入っていた。
カードは銀行のカードほどの大きさだった。表面に刻まれているのは、たった二文字。
4d。
それ以外には何も書かれていなかった。
剛は紙を広げた。
『おめでとうございます。
この度、近藤剛様に4d地下図書館の閲覧権限が与えられました。
閲覧期間は本日から三百年です。
何時でもお越しください。
なお、同封したカードは4d地下図書館に入るための鍵なので、決して紛失しないようお願いします』
その下には、住所と地図が印刷されていた。
所在地は鹿児島県。
名古屋からは、ずいぶん遠い場所だった。
「……何だ、これ」
剛は紙を裏返した。何も書かれていない。もう一度表を確かめても、文章は変わらなかった。
4d地下図書館。
閲覧期間、三百年。
聞いたこともない名前だった。
図書館なら学校にも市立図書館にもある。しかし、個人に招待状を送り、しかも閲覧期間を三百年と定める図書館など、聞いたことがなかった。
剛は思わず笑った。
誰かの悪戯に違いない。
けれど、カードを捨てる気にはなれなかった。
窓にかざしても、光に透かしても、何かが浮かび上がるわけではない。指で触れてみると、金属ともプラスチックとも違う、不思議な手触りがあった。
「剛、どうしたの?」
職員に尋ねられ、剛は慌ててカードを握り込んだ。
「いや、何でもないです」
手紙とカードを封筒に戻し、部屋へ持ち帰った。
その日から、封筒は机の引き出しにしまわれることになった。
ときどき取り出しては、手紙を読み返した。
世界中の本が集められた図書館なのだろうか。それとも、一般には公開されていない特別な施設なのか。
あるいは、本当に誰かの悪戯なのか。
剛には何ひとつ分からなかった。
ただ、もし本当にそんな図書館が存在するのなら、一度でいいから行ってみたいと思った。
その思いは、時間がたっても消えなかった。
*
中学校を卒業した剛は、アルバイトをしながら高校へ通うことになった。
勉強が特別得意だったわけではない。運動ができるわけでもなく、友達が大勢いるわけでもなかった。
それでも剛には、本があった。
アルバイトを終えて施設に戻ると、夕食を済ませ、机に向かう。疲れている日は数ページしか読めなかったが、本を開く時間だけは大切にしていた。
高校生活は楽ではなかった。
卒業後の進路を考えなければならない。働くのか、進学するのか。自分ひとりで暮らしていくには、どうすればいいのか。
同級生たちが将来について話す声を聞きながら、剛も考えた。
けれど、どれだけ考えても、どうしても気になるものがあった。
机の引き出しにしまわれた、白い封筒。
あの手紙が届いてから、何年もの月日が流れていた。
紙は少し黄ばんだが、文字は消えていない。黒いカードも、最初に手にしたときと変わらなかった。
鹿児島県。
名古屋から遠く離れた、行ったこともない土地。
それでも、手紙を捨てることはできなかった。
もし本当に図書館があったら。
そこには、どんな本があるのだろう。
考えるたび、胸の奥に小さな火が灯るような気がした。
高校を卒業する年の冬、剛は進路担当の教員に呼ばれた。
「近藤、卒業後のことだが、そろそろ決めておいたほうがいいぞ」
「はい」
「就職するのか、それとも進学するのか。何か考えていることはあるか?」
剛は少し迷ってから答えた。
「先生。僕、鹿児島に行こうと思っています」
「鹿児島?」
教員は意外そうな顔をした。
「親戚でもいるのか?」
「いえ」
「就職先が決まったのか?」
「まだです」
教員は困ったように眉を寄せた。
「近藤、卒業後の生活は大事だぞ。行くあてがないまま遠くへ行くのは、あまり勧められないな」
「分かっています。でも、どうしても確かめたいことがあるんです」
「確かめたいこと?」
剛は、長い間誰にも話さなかった手紙のことを打ち明けた。
小学六年生のときに届いたこと。差出人が分からないこと。4d地下図書館という場所への招待状だったこと。そして、閲覧期間が三百年と書かれていたこと。
話し終えると、教員はしばらく黙っていた。
「……三百年か」
「はい」
「ずいぶん気の長い図書館だな」
思いがけない言葉に、剛は少し笑った。
「そうですね」
「正直に言えば、私にも本当にあるとは思えない。でも、何年も気にしていたんだろう?」
「はい」
「だったら、一度自分で確かめてみるのもいいのかもしれないな。ただし、生活のことはちゃんと考えておけよ」
「ありがとうございます」
剛は頭を下げた。
その日の帰り、久しぶりに封筒を取り出した。
黒いカードを手のひらに載せる。
小学六年生のときには、遠い世界への切符のように思えた。
今は違う。
これが本当に何かの鍵なのなら、自分の手で確かめることができる。
「行ってみるか」
剛はつぶやいた。
*
高校を卒業して数日後、剛は鹿児島へ向かった。
必要な荷物をまとめ、長い間しまってあった手紙とカードを鞄に入れた。
図書館が存在しなければ、別の仕事を探せばいい。行ってみなければ、何も分からない。
名古屋の街を離れ、列車やバスを乗り継いでいく。
車窓の景色が変わるにつれて、期待と不安が入り交じった。
本当にあるのだろうか。
それとも、自分が勝手に夢を見ていただけなのだろうか。
鹿児島に着いてからも、目的地までは簡単ではなかった。
地図に示された場所は、人里から遠く離れた山間だった。バスを降り、さらに道を進むと、周囲には山と木々ばかりが広がっていた。
やがて、細い道の先に古い民家が見えた。
木造の建物だった。
屋根は少し色あせ、庭には草が生えている。長い間、人が住んでいないようにも見えた。
剛は地図を確かめた。
間違いない。
ここだ。
鞄の中で、カードの角が指に触れた。
剛は一度深呼吸をしてから、玄関の戸を叩こうとした。
「はーい。今、開けるね」
中から声がした。
戸が開いた。
立っていたのは、二十代半ばくらいに見える青年だった。整った顔立ちで、清潔な服を着ている。初対面の相手に向ける表情としては、ずいぶん穏やかだった。
「こんにちは。近藤剛さんだよね?」
「えっ……はい」
「待ってたよ。さあ、上がってね」
青年は自然な動作で身を引いた。
剛は戸惑いながらも、玄関に足を踏み入れた。
「あの、あなたは?」
「僕はピノ。この家の管理を任されてるんだ」
「管理……ですか?」
「そう。長旅だったでしょ。まずはゆっくり休んでね」
ピノは剛の荷物に目を向けた。
「部屋を案内するね。空いている部屋は自由に使って構わないから。必要なものがあれば、遠慮なく言ってね」
「でも、僕は図書館を見に来ただけで……」
「うん、分かってるよ」
ピノはにこりと笑った。
「剛さんが来ることは、こちらでも把握しているから」
剛は、ますます分からなくなった。
なぜ、この青年は自分の名前を知っているのだろう。
なぜ、来ることを知っていたのだろう。
通された部屋は、思いのほか広かった。
畳が敷かれ、窓からは山の緑が見えた。古い家らしい木の匂いがする。机と椅子があり、寝具も用意されていた。
「ここを使っていいんですか?」
「もちろんだよ。剛さんの部屋なんだから」
「僕の……?」
「うん。これから、こっちで生活するんでしょ?」
ピノは不思議そうに首をかしげた。
剛は返事ができなかった。
自分がここに住むことになるなど、考えたこともなかった。ただ、招待状に書かれた住所を訪ねてきただけなのだ。
「外に自転車もあるよ。バイクもあるから、免許を取ったら使ってね。山の中だから、移動手段があったほうが便利でしょ?」
「バイクまであるんですか?」
「うん。整備してあるから、いつでも使えるようにしておくよ」
剛はあらためて部屋を見回した。まるで、ここで過ごすことが最初から決まっていたかのようだった。
ピノが用意してくれた食事を済ませ、ひと休みすると、剛は鞄から黒いカードを取り出した。
ここまで来たのだ。
何も起きなかったとしても、後悔はしない。
剛は部屋を出た。
「ピノさん」
「なに?」
「この家に、4d地下図書館があるんですか?」
ピノは一瞬だけ剛を見つめた。
その表情が変わったように見えたのは、ほんの一瞬だった。
「あるよ。案内しようか?」
「お願いします」
「じゃあ、こっちへ」
ピノは廊下の奥へ歩き始めた。
案内されたのは、家の中でもひときわ古い造りの部屋だった。一見すると、何の変哲もない和室である。壁には古い棚が置かれ、障子から柔らかな光が差し込んでいた。
「ここでカードを使うんだ」
ピノが壁際を指さした。
そこには、小さな黒い板が埋め込まれていた。目立たない位置にあり、一目見ただけでは気が付かなかった。
剛はカードを取り出した。
「ここに?」
「うん。どうぞ」
カードを近づけると、かすかな電子音が鳴った。
次の瞬間、壁の一部に細い光の線が走った。
光は壁全体へ広がり、やがて、そこにあるはずのない扉の輪郭を描き出した。
音もなく、壁が左右に開いていく。
その向こうには、下へと続く階段があった。
剛は一歩、近づいた。
そして、足を止めた。
階段の先に見える光景が、どう考えてもおかしかったからだ。
広い。
あまりにも広すぎる。
照明が幾重にも連なり、遠くまで続く通路を照らしている。何層にも重なる書架が、巨大な建造物のようにそびえ立っていた。
だが、剛が驚いたのは、その広さだけではなかった。
階段の下に見える通路は、途中で大きく右へ曲がっていた。その先には、別の通路がある。ところが、その通路は剛のいる場所よりも高いところを横切り、さらに遠くへと伸びていた。
上なのか、下なのか。
距離がどれほどあるのか。
目で追っているはずなのに、空間の位置関係がつかめなかった。
まるで、建物の内側だけが、外側とは別の規則に従っているようだった。
「……ここ、本当に地下なんですか?」
剛は思わず尋ねた。
「そうだよ。入口はこの家にあるんだ」
ピノは、何でもないことのように答えた。
剛はもう一度、目の前の空間を見渡した。
山の下に、こんな場所があるはずがない。
いや、そもそも、こんな広さを持つ空間を地下に造れるものなのだろうか。
書架の間を、人影が行き交っていた。
作業着を着た者。書類を抱えた者。台車を押している者。そして、書架の前で何かを確認している者。
彼らは剛たちに気づいている様子もなく、それぞれの仕事を淡々とこなしていた。
さらに奥から、規則正しい機械音が聞こえてきた。
巨大な製本機械が動いているらしい。
機械に送られた情報が処理され、ページとなり、本の形へと仕上げられていく。完成した本は運ばれ、整然と書架へ収められていた。
そこには、剛がこれまで読んできたどんな物語にも描かれていない光景があった。
地下に、こんな場所がある。
ここでは今も、本が作られ続けている。
しかも、見渡す限りの書架が、どこまでも続いているのだ。
「……すごい」
剛の口から、ようやく言葉がこぼれた。
ピノは隣で、満足そうにうなずいた。
「ようこそ、4d地下図書館へ」
剛は、もう一度、目の前の光景を見渡した。
果てしなく続く書架。
働き続ける人々。
そして、そのすべてを包み込む、途方もない静けさ。
あの手紙が届いてから、何年もたった。
信じられなかった日もあった。悪戯だと思ったこともあった。いつか確かめようと思いながら、カードをしまい込んでいたこともあった。
けれど、すべてはここにつながっていたのだ。
剛は鞄の中にあるカードを確かめた。
自分は、ここに来ることができた。
そして、この場所には、まだ知らない本が無数にある。
一生かけても読みきれないほどの本が、ここにはあるのかもしれない。
剛は、思わず笑みを浮かべた。
「ピノさん」
「なに? 剛さん」
「ここにある本は……全部、読めるんですか?」
ピノは少しだけ目を細めた。
「もちろん。剛さんには、閲覧権限が与えられてるからね」
剛は、目の前に広がる書架を見つめた。
何から読もう。
最初の一冊は、どんな本にしよう。
考えただけで胸がいっぱいになった。
小学六年生のあの日から、ずっと心の片隅にあった場所。
その入口は、今、目の前に開かれている。
そして、剛は一歩、足を踏み入れた。
まだ彼は知らない。
この場所が、いったい誰によって、何のために造られたのか。
そして、自分がなぜ選ばれたのか。
ただひとつ、確かなことがあった。
ここには、自分がまだ読んだことのない本がある。
剛にとって、それだけで十分だった。




