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第三章 名もなき人の物語




 剛が最初に開いた本には、英雄も偉人も登場しなかった。


 世界を変えた発明家でもなければ、歴史に名を刻んだ政治家でもない。


 そこに記されていたのは、遠い昔、日本の片隅に生きた一人の男の人生だった。


 男の名は、佐藤源一。


 生まれたのは、二十世紀の初め。海に近い小さな村で、漁師の息子として育った。


 父親の仕事を手伝い、学校を卒業すると、同じ村の漁師のもとで働き始めた。やがて結婚し、子供が生まれ、年老いた両親を見送った。


 特別な出来事は、何もない。


 少なくとも、剛が最初の数ページを読んだ限りではそうだった。


 源一は魚を捕り、船を修理し、畑を耕した。妻と喧嘩をした日もあれば、子供の成長を喜んだ日もあった。仲のよかった友人と酒を飲み、時には将来への不安を抱えながら眠った。


 剛はページをめくった。


 源一が十七歳のとき、村に大きな台風がやって来た。


 漁船の多くが壊れ、村の家屋にも被害が出た。源一の父親も怪我を負い、しばらく漁に出られなくなった。


 家計は苦しくなった。


 源一は、村を出て働こうと考えた。


 しかし、母親は反対した。


 父親の怪我が治るまで、家を支えてほしいというのだ。


 源一は悩んだ末、村に残ることにした。


 その選択が正しかったのかどうか、記録には書かれていなかった。


 ただ、源一はその後も長く村で暮らした。


 剛は、そこで一度、読むのを止めた。


「……普通の人なんだな」


 誰に聞かせるつもりでもなく、つぶやいた。


 すると、背後から声がした。


「普通の人の記録だからね」


 振り返ると、ピノが立っていた。


「ピノさん。いつからいたんですか?」


「ついさっき。ずいぶん集中してるみたいだったから、声をかけるのを遠慮してたんだ」


 剛は苦笑した。


「この人、何かすごいことをしたのかなと思って読んでたんですけど、今のところ、そういう話は出てこないんです」


「そういう本を探してたの?」


「いえ、そういうわけじゃないですけど……」


 剛は言葉を探した。


 いつもなら、本を読むときには何かを期待していた。知らない知識を得ること。思いもよらない展開に驚くこと。主人公の活躍に胸を躍らせること。


 けれど、この本には、そうしたものがほとんどなかった。


 源一はただ生きていた。


 働き、食べ、眠り、家族と暮らした。


 それだけの人生だった。


「まあ、もう少し読んでみます」


「うん。感想を聞かせてくれたら、僕もうれしいな」


 ピノはそう言うと、通路の向こうへ歩いていった。


 剛は再びページに目を落とした。


     *


 源一が二十六歳になった年、彼は結婚した。


 相手は、隣村で生まれ育った女性だった。


 名前は、ふみ。


 二人は幼いころから顔見知りだったが、特別に親しかったわけではない。ある日、村の集まりで久しぶりに言葉を交わしたことがきっかけで、交際が始まった。


 記録には、二人が初めて一緒に出かけた日のことも残されていた。


 源一は、ふみを海辺へ連れていった。


 特別な場所ではない。村の人間なら誰でも知っている、ありふれた浜辺だった。


 源一はそこで、ふみに一つの約束をした。


 いつか、自分の船を持つ。


 そして、ふみをいろいろな場所へ連れていく。


 ふみは笑った。


 そんなことより、まずは雨漏りのする家を何とかしてほしいと言った。


 剛は思わず吹き出した。


「いいなあ、この二人」


 気づけば、源一とふみのことを、ずっと前から知っているような気持ちになっていた。


 記録の文章は淡々としていた。


 そこには、感動させようとする言葉も、人生を教訓にまとめようとする説明もない。


 それでも、二人のやり取りが目に浮かぶ。


 ふみの笑顔も、源一の照れた顔も、剛には見えるような気がした。


 結婚後、二人には三人の子供が生まれた。


 源一は船を持つという夢を実現した。大きな船ではなかったが、自分で修理を重ねながら長く使った。


 子供たちは成長し、やがて村を出ていった。


 源一とふみは年を取り、若いころに交わした約束の多くは、結局、実現しなかった。


 遠くの土地へ旅行することもなかった。


 けれど、二人は毎年、結婚記念日になると海辺を歩いた。


 最初に約束を交わした、あの浜辺だった。


 剛は、いつの間にか椅子の背もたれから体を起こしていた。


 源一が年老いたふみの手を引きながら歩く姿を想像した。


 昔と同じ浜辺。


 昔とは違う二人。


 若いころには広く見えた海も、年を取った二人には、少し違って見えたのかもしれない。


 それでも、二人は毎年そこへ行った。


 なぜだろう。


 剛は、その理由を考えた。


 たぶん、二人にしかわからない何かが、そこにあったのだ。


     *


 読み進めるうちに、剛は源一の人生を、自分の人生と比べるようになっていた。


 源一には家族がいた。


 友人がいた。


 生まれ育った村があり、働く場所があり、帰る家があった。


 もちろん、楽しいことばかりではなかった。苦しい時代もあったし、失ったものもあった。


 それでも、源一は自分の人生を生きた。


 誰かの期待に応えるためでも、歴史に名を残すためでもなく。


 ただ、その日その日を生きていた。


 剛は本を読む手を止めた。


 児童養護施設で育った自分には、源一のような人生はなかった。


 帰る家があること。


 何十年も同じ土地で暮らすこと。


 昔から知っている人たちと、年を重ねていくこと。


 そうしたものが、剛には少し遠い世界の話に思えた。


 もちろん、今の生活が不幸だったと決めつけるつもりはない。


 施設には親切な職員もいた。友達もいた。学校に通い、アルバイトをし、本を読む時間もあった。


 それでも、ときどき考えたことがある。


 自分が生まれた家は、どんな場所だったのだろう。


 自分を知っている人は、今どこにいるのだろう。


 もし、あのとき別の人生を歩んでいたら、どうなっていたのだろう。


 答えの出ない問いだった。


 源一にも、そんな問いがあったのかもしれない。


 記録には、源一が若いころに村を出ようと考えたことが書かれていた。


 もし、あのとき村を出ていたら。


 もし、別の土地で働いていたら。


 もし、ふみと出会わなかったら。


 源一は、どんな人生を送ったのだろう。


 剛は、ふと気づいた。


 自分が読んでいるのは、実際に生きた人間の人生だ。


 小説のように、作者が都合よく結末を変えることはできない。


 源一は、源一として生きた。


 ほかの誰かにはなれなかった。


 だからこそ、その人生には、取り替えのきかない価値があるのかもしれない。


     *


 源一が亡くなったのは、八十二歳のときだった。


 病気を患い、数か月の入院生活を送った後、家族に見守られながら息を引き取った。


 ふみは、その五年後に亡くなった。


 子供や孫たちは、それぞれ別の土地で暮らしていた。


 源一の葬儀には、多くの人が集まった。


 漁師仲間。


 近所の人々。


 昔からの友人。


 源一が修理した船に乗っていた者もいた。


 その中の一人が、こんな話をしたという。


 若いころ、漁の帰りに船が故障し、沖で立ち往生したことがあった。源一は自分の仕事を後回しにして、夜通し修理を手伝ってくれた。


 別の人は、台風で家を失ったとき、源一が黙って木材を運んできてくれたと話した。


 本人は、そんなことを誰かに話したことなどなかった。


 剛は、最後のページまで読み終えた。


 そこには、源一が残した日記の一節が引用されていた。


 短い文章だった。


 大きな夢をかなえたわけではない。


 世の中に名を残すような仕事をしたわけでもない。


 それでも、家族がいて、友人がいて、海があった。


 振り返れば、悪くない人生だったと思う。


 剛は、その文章を何度も読み返した。


 そして、ゆっくりと息を吐いた。


「……いい人生だったんだな」


 誰に言うでもなく、そうつぶやいた。


 記録の最後には、源一が生きた時代の年表と、彼が暮らした村の地図が添えられていた。


 地図の上には、かつての家の位置も記されている。


 その家は、すでに取り壊されていた。


 船着き場も、当時とは姿を変えている。


 村の名前は残っていたが、源一のことを知る人は、もうほとんどいないだろう。


 それでも、ここには記録がある。


 源一が生きた証しがある。


 剛は、自分の手元にある黒い装置を見つめた。


 この中に、一人の人間の人生が収められている。


 そして、同じような本が、あの果てしない書架に無数に並んでいる。


 どれほどの人間が生まれ、暮らし、誰かを愛し、誰かと別れ、そして亡くなっていったのだろう。


 その一人ひとりに、源一のような人生があったのだ。


 剛は、胸の奥が熱くなるのを感じた。


「ピノさん!」


 近くを通りかかったピノが振り返った。


「どうしたの?」


「この図書館には、こういう本が、どれくらいあるんですか?」


「こういう本?」


「普通の人の人生が書かれた本です」


 ピノは少し考えた。


「数え方にもよるけどね。個人の記録だけでも、かなりの数になるよ」


「かなりって?」


「剛さんが想像しているより、ずっと多いと思うよ」


 剛は笑った。


「それなら、しばらく退屈しなくて済みそうです」


「しばらくどころじゃないと思うけどね」


 ピノも笑った。


     *


 その日の夜、剛は図書館から古い家へ戻った。


 入口の和室を出ると、昼間と同じ静けさが迎えてくれた。


 家の中には必要な設備がそろっていた。食事を作る場所も、風呂もある。


 不思議なことに、長い間使われていなかったように見える家なのに、生活に困るものは何もなかった。


 剛は簡単に食事を済ませ、風呂に入り、階段を上がって自分の部屋へ向かった。


 布団に横になっても、なかなか眠れなかった。


 頭の中には、源一の人生が残っていた。


 海辺を歩く源一とふみ。


 台風で壊れた船。


 村を出るかどうか悩んだ十七歳の源一。


 そして、人生を振り返った最後の日記。


 剛は天井を見つめた。


 自分もいつか、年を取るのだろう。


 そのとき、自分の人生を振り返って、何を思うのだろう。


 まだ何もわからない。


 どこで暮らし、何をして生きていくのかさえ、決まっていない。


 けれど、一つだけ、はっきりしていることがあった。


 明日も、あの図書館へ行こう。


 まだ読んでいない本がある。


 知らない人の人生がある。


 その人たちが見た景色を、自分も知りたい。


 剛は目を閉じた。


 名もなき人々の人生が、果てしない書架の中で、静かに彼を待っていた。

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