第9話 夕暮れの帰り道
昼を過ぎた頃。
ダンテは屋敷を出た。
向かった先は、王都の下町。
昨日、古い使用人の記録を調べていて見つけた女性――マルタのもとだった。
エリンが生きていた頃から、ハーマン伯爵家に仕えていた侍女。
十年前に屋敷を去った彼女なら、あの頃のことを知っている。
そう思った。
* * *
「……旦那様?」
扉を開けたマルタは、目の前に立つダンテを見て目を見開いた。
「久しぶりだな、マルタ」
「どうして……今さら」
マルタの表情には、驚きと戸惑いが入り混じっていた。
「聞きたいことがある」
「……モニカお嬢様のことでしょうか」
ダンテの胸が、ずきりと痛んだ。
「なぜ分かる?」
「旦那様が私を訪ねて来られる理由なんて……」
マルタは小さく息を吐いた。
「きっと、ようやく気づかれたのだと思いました」
「……」
ダンテは何も言えなかった。
「エリン様がお亡くなりになってから、屋敷は変わりました」
「どう変わった?」
「エリン様を慕っていた使用人たちは、次々と辞めていきました」
ダンテは黙って聞いている。
「そして……モニカお嬢様の周りにいる者も変わりました」
「モニカに、何があった?」
マルタはしばらく黙っていた。
「……どんどん痩せていかれました」
「……」
「食事も、十分ではありませんでした」
ダンテの手が強く握られる。
「私は何度も、旦那様にお伝えしようと思いました」
「……だが、届かなかった」
「はい」
マルタは俯いた。
「私は……モニカお嬢様を置いていくことが、とても心配でした」
「なら、なぜ辞めた?」
「……辞めさせられたのです」
その一言が、ダンテの胸に突き刺さった。
「誰に?」
マルタは答えなかった。
ただ、悲しそうに目を伏せる。
「……あの頃の私は、何もできませんでした」
ダンテは、それ以上問い詰めなかった。
シルビーの手紙に書かれていたこと。
そして、マルタの証言。
どちらも同じ方向を示している。
十年前。
自分が見ようとしなかった場所で、何かが起きていた。
「マルタ」
「はい」
「話してくれて、ありがとう」
ダンテは立ち上がった。
「もう一度、来てもいいか?」
マルタは驚いたように顔を上げた。
「……もちろんでございます」
ダンテは小さく頷き、家を出た。
* * *
屋敷へ戻ったのは、午後四時頃だった。
玄関を入ったところで、ちょうど別の馬車が止まる。
「ただいま戻りましたわ」
クラリッサだった。
今日は子爵家の茶会に出ていたらしい。
「あら、あなた。もうお帰りになっていたの?」
クラリッサはダンテの顔をろくに見ないまま、侍女に荷物を渡した。
「今日は少し疲れましたわ。着替えて参ります」
そう言うと、そそくさと自室へ向かっていく。
「……」
ダンテは、その背中を黙って見送った。
クラリッサは気づいていない。
自分が茶会へ出ている間に、ダンテが何を知ったのか。
何を調べ始めたのか。
ローレンスも、何も言わない。
ダンテから固く口止めされているからだ。
クラリッサの姿が見えなくなると、ダンテは時計へ目を向けた。
「……四時か」
そして、ふと気づいた。
「……モニカは?」
近くにいた使用人が答える。
「まだお戻りではございません」
「……まだ?」
ダンテは眉を寄せた。
「学園からの馬車は?」
使用人が戸惑う。
「……馬車、でございますか?」
「モニカの迎えだ」
「……」
答えられない。
「御者を呼べ」
「はい!」
ほどなくして、御者の一人がやってきた。
「旦那様、お呼びでしょうか」
「モニカの送迎について聞きたい」
「はい」
「今日、迎えには行ったのか?」
「……いいえ」
「なぜだ?」
御者は困ったように答えた。
「モニカお嬢様のお迎えには……もう何年も上がっておりません」
「……何年も?」
「はい」
別の御者にも確認した。
答えは同じだった。
「私も、ここ数年はお迎えしておりません」
ダンテは言葉を失った。
「では……」
早朝に見た光景が、脳裏に浮かぶ。
小さな身体。
両手いっぱいに抱えた茹で芋。
そして、自分に気づくことなく歩いていた少女。
「……モニカは、毎日歩いて学園へ?」
誰も答えられない。
だが、その沈黙が答えだった。
伯爵家の令嬢が。
十五歳の少女が。
毎日、王立学園まで歩いて通っている。
「……」
ダンテは窓の外を見た。
夕暮れには、まだ少し早い。
けれど――。
「……帰ってくるはずだ」
なぜか、胸騒ぎがした。
* * *
その頃。
王立学園を終えたモニカは、一人で王都の街を歩いていた。
いつもの帰り道。
もちろん、馬車ではない。
歩き慣れた道を、今日も自分の足で帰っていく。
少し疲れてはいた。
それでも、モニカの顔には笑顔が浮かんでいる。
「こんにちは!」
パン屋の前を通れば、
「モニカちゃん、今日もお疲れさん」
店主が笑って手を振る。
「はい!」
モニカも嬉しそうに手を振り返す。
食堂の前を通れば、女将さんが店先から声をかけてくれる。
「モニカちゃん!」
「女将さん!」
「今日も気をつけて帰るんだよ」
「ありがとうございます!」
モニカは笑顔で頭を下げる。
屋敷では、誰も自分の帰りを待っていない。
けれど――。
街には、声をかけてくれる人がいる。
それだけで、モニカは少し嬉しかった。
その時だった。
街を走っていた一台の馬車が、ゆっくりと速度を落とした。
馬車の中から、少年が街を眺めている。
王立学園の留学生。
グランディア帝国の皇子――アダム・フォン・グランディア。
学園を終えた後、王都の様子を知るため、護衛を伴って街を視察していた。
その時。
「……ん?」
アダムの目に、一人の少女が映った。
見覚えのある姿。
「……モニカ?」
昼間、中庭で出会った少女だった。
アダムは思わず窓の外を見る。
モニカは街の人々に笑顔で挨拶をしながら、一人で歩いている。
「……こんな時間に、何をしている?」
アダムは時計を見る。
もう夕方だ。
「馬車を止めてくれ」
「殿下?」
「いいから」
馬車がゆっくりと止まる。
「モニカ!」
「……え?」
呼ばれて振り返ったモニカは、目を丸くした。
「アダム殿下?」
「君、今から帰るのか?」
「はい」
「屋敷までは?」
「歩いて帰ります」
「……歩いて?」
「はい。いつもそうしていますから」
あまりにも自然に答えるモニカ。
アダムは黙った。
昨日
地面に落ちたパンを食べようとしていた少女。
そして今。
夕方になっても、一人で歩いて帰ろうとしている。
伯爵令嬢なのに。
「……君は、いつも一人なのか?」
「はい」
モニカは少し首を傾げた。
「慣れていますから」
アダムは、静かに息を吐いた。
聡い彼には、それだけで十分だった。
これは「本人が望んで徒歩で帰っている」のではない。
きっと――。
そうするしかないのだ。
「……ならば、今日は僕が送ろう」
「えっ?」
モニカは慌てて首を横に振った。
「いえ、大丈夫です!」
「大丈夫には見えない」
「でも……」
「屋敷の中まで送るつもりはない」
アダムは穏やかに言った。
「近くまでだ。それなら問題ないだろう?」
「……」
モニカは困ったようにアダムを見る。
「でも、殿下にそんなことをしていただくなんて……」
「僕がそうしたいんだ」
優しい笑顔だった。
「……では、お言葉に甘えてもいいでしょうか」
「ああ」
モニカは小さく微笑んだ。
「ありがとうございます」
アダムは馬車の扉を開けた。
モニカは何度も遠慮しながらも、断りきれずに馬車へ乗り込んだ。
夕暮れの王都を、馬車がゆっくりと進んでいく。
しばらくすると、モニカが窓の外を見ながら言った。
「街の皆さん、とても優しいんです」
「そうなのか?」
「はい。パン屋さんも、食堂の女将さんも……いつも声をかけてくださいます」
モニカは嬉しそうに笑った。
「私、街を歩くのが好きなんです」
「……そうか」
アダムは笑顔を返した。
だが、その胸には別の疑問が残っていた。
伯爵令嬢が。
なぜ、こんなにも街の人々に支えられているのか。
そして――。
なぜ、家からは誰も迎えに来ないのか。
やがて、ハーマン伯爵家の屋敷が見えてきた。
「ここで大丈夫です」
「本当に?」
「はい。ここからなら一人で帰れます」
モニカは馬車を降りると、深く頭を下げた。
「送ってくださって、ありがとうございました」
「気をつけて帰れ」
「はい!」
モニカは笑顔で答えると、屋敷へ向かって歩き出した。
アダムは馬車の窓から、その小さな背中を見つめていた。
「……やはり、おかしい」
馬車はゆっくりと走り去る。
一方――。
ハーマン伯爵家では。
ダンテが、まだ帰らぬ娘を待っていた。




