第8話 十年間の空白
執務室へ戻ったダンテは、机の前に座った。
しかし、仕事を始める気にはなれなかった。
頭の中に、先ほどのモニカの姿が浮かぶ。
細い身体。
小さな背中。
そして――。
両手いっぱいに抱えた茹で芋。
「……私は、何を見ていた?」
十年前。
エリンが亡くなった。
妻を失った悲しみで、ダンテは仕事に没頭した。
屋敷のことは使用人たちに任せていた。
モニカのことも。
だが、今は違う。
今朝、偶然見た娘の姿が頭から離れない。
「……」
ダンテは、机の奥にある引き出しへ手を伸ばした。
中には、十年前からしまわれたままの古い封筒がある。
シルビーから渡された手紙。
当時のダンテは、それを読むことができなかった。
エリンを失った直後だった。
何を読んでも、何を聞いても、心が受け止められなかった。
だから――。
引き出しにしまった。
「……今なら」
ダンテは封筒を取り出した。
ゆっくりと封を開ける。
便箋を広げた。
そこには、シルビーの震えるような文字が並んでいた。
モニカの食事のこと。
衣服のこと。
そして、クラリッサが屋敷でどのように振る舞っているのか。
読めば読むほど、ダンテの表情が険しくなっていく。
「……モニカに、こんなことを?」
便箋を持つ手が震えた。
しかし、それだけではなかった。
シルビーが辞めた後、一度だけ送ってきた手紙もある。
それも、ダンテは読んでいなかった。
机の奥から、もう一通の封筒を取り出す。
そこには――。
ただ一言。
『どうかモニカお嬢様をお守りください』
そう書かれていた。
「……」
ダンテは目を閉じた。
十年前の自分は、何も見ようとしなかった。
妻を失った悲しみに逃げ込み、残された娘のことまで他人に任せた。
「……私は、父親失格だな」
小さく呟く。
そして、今度は帳簿を開いた。
モニカに関する支出を確認する。
ドレス。
靴。
学用品。
本。
装飾品。
確かに、かなりの金額が使われている。
「……なのに」
ダンテの脳裏に、モニカの姿が浮かぶ。
古びた制服。
細すぎる身体。
そして、茹で芋を大切そうに抱えていた姿。
「ドレスなど、一着もなかった」
あの部屋に本もなかった。
宝石もなかった。
学用品だって、必要最低限のものしかない。
「では、この金は……どこへ消えた?」
帳簿をめくる手が止まる。
そこで、先ほど見た光景を思い出した。
アリシアの部屋。
上質な家具。
何着ものドレス。
宝石。
本。
そして――。
専属の侍女。
ダンテはゆっくりと目を閉じた。
「……まさか」
だが、まだ決めつけることはできない。
証拠が必要だった。
ダンテはもう一度、十年前からの記録を調べ始めた。
使用人の退職記録。
新しく雇われた者。
モニカに関する支出。
エリンが亡くなった後に変わったこと。
ひとつひとつ確認していく。
そして――。
「……この者は?」
ある名前に目が止まった。
マルタ。
エリンが生きていた頃から、ハーマン家に仕えていた侍女だった。
エリン付きではなかったが、屋敷で長く働いていた人物だ。
退職時期は、エリンが亡くなった直後。
「……まだ生きているのか?」
記録には、退職後の住所まで残されていた。
王都の下町。
ダンテはしばらく、その住所を見つめた。
「ローレンス」
「はい」
「この者のことを知っているか?」
ローレンスは首を横に振った。
「申し訳ございません。私がこちらへ参りましたのは、エリン様がお亡くなりになった後でございますので」
「……そうだったな」
ローレンスも、クラリッサが連れてきた使用人の一人。
十年前の屋敷を知る者ではない。
だからこそ――。
「私が会いに行く」
「旦那様ご自身でございますか?」
「ああ」
ダンテは立ち上がった。
もう、誰かに任せるつもりはなかった。
十年間。
自分が見ようとしなかったものを、自分自身の目で確かめる。
そして――。
エリンが亡くなった後、この屋敷で何が起きたのか。
モニカに何があったのか。
それを知るために。
ダンテは、マルタの住所が書かれた紙を握りしめた。




