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モニカ・ハーマン物語~虐げられた伯爵令嬢は、亡き母の秘密と金環眼に導かれて  作者: 紅しょうが


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第10話 夕暮れのハーマン伯爵家。


 使用人用の出入口から、モニカが静かに屋敷へ入ってきた。


 いつもの帰宅だった。


 けれど今日は、いつもと違う。


「モニカお嬢様」


「……はい?」


 出迎えたのはローレンスだった。


「旦那様がお呼びです。執務室へお越しくださいとのことです」


「……伯爵様が?」


 モニカの顔が、わずかに強張った。


「はい」


「……分かりました」


 モニカは小さく頭を下げる。


 そして、そのまま執務室へ向かった。


 廊下を歩く足取りは、いつもより重い。


 何かしただろうか。


 朝、厨房から芋を持っていったことだろうか。


 勝手に持っていったのだから、怒られても仕方がない。


 そんなことを考えながら、モニカは執務室の前で立ち止まった。


「……失礼いたします」


 小さく声をかけ、扉を開く。


 執務室の中には、ダンテが一人でいた。


「……」


 ダンテは顔を上げた。


 そして――言葉を失った。


 朝、廊下で見た少女。


 両手いっぱいに茹で芋を抱えていた、小さな背中。


 間違いなく、モニカだった。


 だが、こうして真正面から見ると――。


 あまりにも細い。


 十五歳の少女とは思えないほど、小さな身体。


 古びた制服。


 手入れが十分にされていない髪。


 そして、自分を見つめる瞳には、明らかな怯えが浮かんでいる。


「……」


 モニカは小さく頭を下げた。


「ご無沙汰しております、伯爵様」


 その呼び方に、ダンテの胸が締めつけられた。


「お呼びでしょうか?」


 まるで、上司に呼び出された使用人のようだった。


「……モニカ」


 ようやく、名前を呼ぶ。


「はい……」


「私を……お父様とは呼ばないのか?」


 モニカの瞳が揺れる。


「……お父様、と……」


 その言葉すら、どう呼べばいいのか分からないようだった。


 ダンテは、胸の奥を強く抉られるような感覚に襲われた。


 自分の娘だ。


 十五年前に生まれた、エリンとの間の娘。


 それなのに――。


 この子は、自分を父親として見ていない。


「……そこへ座りなさい」


「はい……」


 モニカは言われた通り、椅子へ向かった。


 そして、椅子の端にちょこんと腰を下ろす。


 背筋を伸ばし、両手を膝の上に重ねる。


 まるで、叱られるのを待つ子どものようだった。


「……」


 ダンテは、その姿を見つめた。


 なぜ、そんな座り方をする?


 なぜ、そんなに怯えている?


 何も悪いことなどしていないというのに。


 けれど、聞きたいことは山ほどある。


 それなのに、言葉が出てこない。


 モニカもまた、顔を上げようとしない。


 二人の間に、重い沈黙が落ちた。


 父と娘。


 本来なら、もっと近いはずの二人。


 なのに今は、何を話せばいいのかさえ分からない。


 やがてダンテが、静かに口を開いた。


「……学園は、どうだった?」


「学園は……」


 モニカが顔を上げかけた、その時だった。


 ぐぅ……。


「……」


「……」


 静かな執務室に、小さな音が響いた。


 モニカの顔が、一気に赤くなる。


 ダンテは目を見開いた。


「……ランチは、食べていないのか?」


「えっと……」


 モニカは気まずそうに視線を落とした。


「……芋を」


「芋?」


「はい……」


 小さな声だった。


「朝、厨房にあったものを……持っていきました」


 そして、慌てたように付け加える。


「すいません……」


「……」


「勝手に持っていってしまって……すいません」


 ダンテは、言葉を失った。


 朝。


 廊下で見た。


 モニカが両手いっぱいに抱えていた、小さな茹で芋。


 あれは――。


 この子の昼食だったのだ。


「……なぜ、謝る?」


「え……?」


「自分の家の厨房から、食べ物を持っていっただけだろう」


「……でも」


 モニカは俯いた。


「勝手に持っていったので……」


 その声には、本気で悪いことをしたと思っている響きがあった。


 ダンテの胸が痛んだ。


「……今日はもう夕方だ」


「はい」


「何か食べよう」


「……」


 モニカの身体が、ほんの少し強張った。


「食事を用意させる」


「……はい」


 ダンテは執務室の扉へ向かい、使用人を呼んだ。


「食事を二人分。ここへ運んでくれ」


「かしこまりました」


 使用人が去っていく。


 モニカは不安そうにダンテを見る。


「……私も、こちらでいただくのでしょうか?」


「ああ」


「……伯爵様と?」


「そうだ」


「……」


 モニカは戸惑ったように目を伏せた。


 しばらくして、料理が運ばれてきた。


 温かなスープ。


 パン。


 肉料理に野菜。


 久しぶりに見る、きちんとした食事だった。


「食べなさい」


「……はい」


 モニカは小さく頷いた。


 そして、スープを一口。


 パンを少し。


 肉をほんの少し。


 ゆっくり、ゆっくりと口に運んでいく。


 ダンテは黙って見ていた。


 空腹なら、もっと食べるはずだと思っていた。


 だが、モニカはほんの少し食べると、手を止めた。


「……もう、お腹いっぱいです」


「そうか」


 ダンテが皿を下げようとした、その時。


「あ……」


 モニカが小さく声を上げた。


「どうした?」


「……いえ」


 モニカは再び料理に手を伸ばした。


 無理をして食べ始める。


「……モニカ?」


「大丈夫です」


「無理をしているだろう」


「大丈夫です」


 それでも、モニカは食べ続ける。


 ダンテは眉を寄せた。


「もういい」


「でも……」


「食べたくないなら、食べなくていい」


 モニカの手が止まった。


「……でも、残したら……」


「残したら?」


 モニカは黙り込む。


「……怒られます」


「誰に?」


「……」


「モニカ」


「……ごめんなさい」


 反射的に謝った。


 ダンテは息を呑んだ。


 何も悪いことをしていない。


 それなのに、この子はすぐに謝る。


「……もう食べなくていい」


「でも……」


「いいんだ」


 ダンテは静かに言った。


 モニカは不安そうに料理を見る。


 そして、ぽつりと呟いた。


「……次は、いつ食べられるか分からないから……」


「……」


 ダンテの胸が凍りついた。


「今、何と言った?」


「……」


 モニカは、自分が何を言ったのか分からないような顔をしている。


 ダンテは、ゆっくりと息を吐いた。


「モニカ」


「はい……」


「もう、食事を心配しなくていい」


「……」


「今日だけではない」


 モニカが顔を上げる。


「明日も、食事はある」


「……明日も?」


「ああ」


 ダンテは、はっきりと言った。


「明日も、その次の日もだ」


 モニカは、しばらくダンテを見つめていた。


 その言葉が本当なのか、確かめるように。


 やがて――。


「……よかった」


 ほんの少しだけ、口元が緩んだ。


 その瞬間。


 ダンテの胸が、大きく跳ねた。


「……」


 その笑顔を、知っている。


 忘れるはずがない。


 優しくて。


 少し控えめで。


 見る者の心を温かくする笑顔。


「……エリン」


 思わず、名前がこぼれた。


「……?」


 モニカが首を傾げる。


 ダンテは慌てて目を逸らした。


 十年前に失った最愛の妻。


 その面影が――。


 今、目の前にいる娘の笑顔の中にあった。


 ダンテは、初めて気づいた。


 自分は、妻を失った悲しみから逃げるあまり、この子のことまで見失っていた。


 そして――。


 目の前にいる少女は、ずっと自分の娘だった。


 十年間。


 何も知らずに過ごしてきた自分とは違い、モニカは一人で耐えてきたのだ。


 ダンテは、静かに拳を握った。


 もう、目を逸らしてはいけない。


 この子から。


 そして――。


 エリンからも。


 そんな思いが、胸の奥から込み上げていた。

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