第56話 皇帝への報告
ルドルフSide
その日の朝。
グランディア帝国、皇帝執務室。
「陛下、王立学園より連絡がございます」
「何だ?」
執務を続けていたルドルフが、顔を上げる。
「アダム殿下が、一時帰国されるとのことでございます」
「……アダムが?」
ルドルフの手が止まった。
まだ留学期間は残っている。
それにもかかわらず、一時帰国。
「何かあったのか?」
「皇族に関わる重要な案件が生じたため、本国での確認と陛下への報告が必要とのことでございます」
「……そうか」
詳しい事情までは知らされていない。
ただ、アダムが自ら帰国を申し出たということは、それだけ重要なことなのだろう。
「到着したら、すぐに私のところへ通せ」
「承知いたしました」
侍従が退室する。
ルドルフは書類へ視線を戻した。
だが、先ほどまでとは違う。
どうにも集中できない。
「……一体、何があった?」
胸の奥に僅かな不安を抱えながら、ルドルフは息子の帰りを待った。
◇◇◇
数時間後。
「アダム殿下がお見えになりました」
「通せ」
扉が開き、アダムが入ってくる。
「父上」
「よく戻ったな。急な帰国だったが、何があった?」
ルドルフは息子の顔を見つめた。
アダムは、いつになく真剣な表情をしている。
「重要な案件だと聞いている」
「はい」
アダムは一度、静かに息を整えた。
「父上。少し、お尋ねしたいことがあります」
「何だ?」
「……エリン・ハーマンという女性をご存知ですか?」
「……知らぬが……」
ルドルフは僅かに眉を寄せた。
「なぜ、その女性の名を私に?」
「マクホランド王国のハーマン伯爵夫人です」
「……ハーマン伯爵夫人?」
「はい」
ルドルフには聞き覚えのない名前だった。
しかし、アダムがわざわざ帝国へ戻ってまで尋ねるほどの女性だ。
ただの貴族夫人ではないのだろう。
「その女性が、どうした?」
「その女性について、私はハーマン伯爵本人から話を聞きました」
「……ハーマン伯爵から?」
「はい」
アダムは父を真っ直ぐに見つめた。
「エリン・ハーマンは――」
一度、言葉を切る。
「エヴァンジェリン・フォン・グランディア皇女殿下です」
「…………」
ルドルフの顔から、血の気が引いた。
「……エヴァンジェリン、だと?」
その名を口にした瞬間、遠い記憶が蘇る。
二歳年下の妹。
幼い頃から共に育った、大切な妹。
そして――。
突然、帝国から姿を消した妹。
「父上」
「エヴァンジェリンは……」
ルドルフの声が僅かに震える。
「今も、生きているのか?」
アダムは静かに首を横に振った。
「いいえ」
「……何?」
「エヴァンジェリン皇女殿下は、十年前に亡くなっています」
「…………」
ルドルフは言葉を失った。
「十年前……」
「はい」
アダムは静かに続ける。
「エヴァンジェリン皇女殿下は、エリン・ハーマンという名でマクホランド王国に暮らしていました」
ルドルフは何も言わない。
生きていた。
妹は確かに生きていた。
けれど――。
自分たちが何も知らない場所で、十年前に亡くなっていた。
「……私は、知らなかった」
ルドルフの声が掠れる。
「妹が生きていたことも……その人生も」
しばしの沈黙。
やがて、ルドルフが顔を上げた。
「エヴァンジェリンには……家族がいたのか?」
「はい」
「夫が?」
「ハーマン伯爵です」
「……そうか」
「そして、娘が一人います」
ルドルフの目が揺れる。
「娘……?」
「モニカ・ハーマン嬢です」
「……モニカ」
知らない名前。
けれど、その少女は――。
自分の妹の娘。
「エヴァンジェリンの……娘……」
「はい」
ルドルフは深く息を吐いた。
妹が生きていた。
結婚していた。
娘までいた。
そのすべてを、自分は何も知らなかった。
「……あまりにも、何も知らなすぎる」
皇帝としてではなく。
一人の兄として、ルドルフは呟いた。
「父上」
「アダム」
ルドルフは息子を見る。
「お前は、ハーマン伯爵から他に何を聞いた?」
「エリン……エヴァンジェリン皇女殿下とハーマン伯爵が出会ったのは、エンターナル国です」
「エンターナル国……」
その言葉に、ルドルフの表情が僅かに曇った。
「……そうか」
「父上は、叔母上がエンターナル国へ向かった経緯をご存知ですか?」
「……」
ルドルフはしばらく答えなかった。
「エヴァンジェリンがエンターナル国へ向かったことは知っている」
「では……」
「だが、なぜそこへ行ったのかは知らない」
アダムは黙って聞いている。
「そして、なぜ戻ってこなかったのかも……私には分からない」
「……」
ルドルフは目を伏せた。
妹がいなくなった。
その事実だけが残されていた。
なぜ。
誰が。
何のために。
その答えを、兄である自分は何一つ知らない。
「ただ……」
ルドルフが、ゆっくりと顔を上げる。
「エヴァンジェリンが帝国を離れた頃のことなら、私よりも詳しい者がいる」
「……誰ですか?」
ルドルフは一瞬だけ目を伏せた。
「母上だ」
「……母上?」
「そうだ」
ルドルフは静かに頷く。
「皇太后アデライードなら、あの頃のことを知っているかもしれない」
アダムの表情が変わった。
「祖母上……」
「ああ」
ルドルフは頷いた。
「エヴァンジェリンが帝国を離れた時、母上が何を考えていたのか……私にも分からないことがある」
長い年月、閉ざされていた過去。
その真実へ続く扉を開く鍵を握っているのは――。
皇太后アデライード。
アダムは静かに息を吐いた。
「……祖母上に、聞く必要がありますね」
「そうだな」
ルドルフも頷いた。
だが、その前に――。
「アダム」
「はい」
「お前が聞いた話を、もう一度最初から詳しく聞かせてくれ」
皇帝としてではなく。
妹を失った兄として。
ルドルフは、息子からすべてを聞く覚悟を決めた。




