第34話 埋められない10年間
日記の最後のページを読み終えても、二人はしばらく動けなかった。
静かな執務室に、重い沈黙が落ちている。
モニカは、閉じられた鍵付きの日記を見つめていた。
そこには、母の想いが詰まっていた。
自分が生まれたことを喜んでくれたこと。
自分を守りたいと思ってくれていたこと。
そして、自分の瞳に金色の輪が現れる可能性まで考え、未来のために真実を残してくれていたこと。
モニカは胸の奥が熱くなるのを感じた。
その隣で、ダンテは俯いたままだった。
やがて、ダンテがゆっくりと口を開く。
「……モニカ」
「はい」
顔を上げると、ダンテと目が合った。
その表情は、今まで見たことがないほど苦しそうだった。
「私は……お前に謝らなければならない」
「……」
「十年間」
ダンテは一度、言葉を詰まらせた。
「お前の父親でありながら、私はお前と向き合おうとしなかった」
モニカの胸が、きゅっと締め付けられる。
「エリンが亡くなった後……私は、何も考えられなくなった」
ダンテは拳を握った。
「エリンを失った悲しみから逃げていたんだと思う」
「……」
「お前を見れば、エリンを思い出した」
モニカの瞳が揺れる。
「だから……お前を見ることすら、怖くなった」
ダンテは苦しそうに息を吐いた。
「だが、それは言い訳にしかならない」
はっきりとした声だった。
「お前には何の罪もない」
「……」
「母親を失ったお前こそ、私を必要としていたはずなのに」
ダンテの声が震える。
「私は、お前から逃げた」
モニカは黙って父を見つめていた。
「十年間……お前を一人にしてしまった」
その言葉を聞いた瞬間、モニカの胸の奥にしまっていたものが、少しだけ揺れた。
「……どうして」
自然と声が漏れた。
「どうして、お父様は私を見てくれなかったんですか?」
ダンテは答えなかった。
いや、答えられなかった。
「私は……お母様が亡くなってから、ずっと寂しかったです」
モニカの声が震える。
「お母様のことを知りたかった」
「……ああ」
「お母様がどんな人だったのか。
どんな子供だったのか。
お父様とどうやって出会ったのか……」
モニカは膝の上で手を握った。
「聞きたかったんです」
ダンテは唇を噛んだ。
「……すまない」
「でも、お父様は何も話してくれなかった」
「……ああ」
「私は……お母様のことを知りたくても、誰に聞けばいいのか分からなかった」
モニカの瞳に涙が浮かぶ。
「だから、私……自分が悪いのかなって思ったこともあります」
「違う!」
ダンテが思わず声を上げた。
モニカが驚いて顔を上げる。
「お前は何も悪くない!」
ダンテは立ち上がりかけたが、すぐに椅子へ座り直した。
「悪いのは私だ」
静かに、けれど強い声で続ける。
「エリンを失った悲しみに逃げて、お前まで傷つけた」
「……」
「お前に寂しい思いをさせた十年間は、取り戻せない」
ダンテはモニカを真っ直ぐ見つめた。
「だから、許してくれとは言わない」
モニカは黙っている。
「すぐに父親らしく接してくれとも言わない」
ダンテは一度、深く息を吸った。
「ただ……これからは、もう逃げない」
その言葉に、モニカの瞳が揺れた。
「お前が話したいことがあるなら、私は聞く」
「……」
「お前が知りたいことがあるなら、私が知っていることはすべて話す」
ダンテの目に涙が浮かんだ。
「そして……これからは、お前の父親として向き合いたい」
モニカは、すぐには答えられなかった。
十年間という時間は、簡単には埋められない。
今日謝られたからといって、すべてが変わるわけでもない。
けれど――。
今まで父から向けられたことのなかった言葉が、胸に残った。
「……お父様」
「うん」
「私も……まだ、どうしたらいいのか分かりません」
「ああ」
「十年間のことを……すぐに忘れることもできません」
「分かっている」
ダンテは頷いた。
「でも……」
モニカは少しだけ微笑んだ。
「これからなら……少しずつでも、いいですか?」
ダンテは目を見開いた。
「もちろんだ」
その声は、少し震えていた。
「……ありがとう、モニカ」
モニカは、テーブルの上に置かれた鍵付きの日記へ視線を落とした。
母が残してくれたもの。
それは、自分の出生に関わる秘密だけではなかった。
母がどれほど自分を愛してくれていたのか。
そして――。
父が、もう一度自分と向き合おうとしていること。
モニカは、静かに日記を胸元へ抱き寄せた。
ダンテはそんな娘を見つめながら、心の中で誓った。
もう二度と、この子から目を逸らさない。
エリンが命を懸けて守ろうとした娘を。
自分の大切な娘を。
今度こそ、父親として守っていく。
執務室には、二人の静かな時間が流れていた。




