第33話 エリンの日記 ➃
モニカは、日記の続きを開いた。
エリンが残した文字を、静かに読み進める。
『新聞を読み、私は自分の瞳に現れた金色の輪の意味を知った。
けれど、それを知ったところで、私にはどうすることもできなかった。
帝国へ戻れば、何が起こるのか分からない。
兄には金の輪がない。
私にはある。
もし、このことが帝国に知られたら……。
私は、家族を巻き込んでしまうかもしれない。
怖かった。
私は、どうすればいいのか分からなかった。』
モニカは一度、日記から目を離した。
「……お母様、一人だったんですね」
ダンテは静かに頷いた。
「ああ」
モニカは、再びページをめくった。
『私は、エンターナル国の街を歩いた。
行く場所もない。
帰る場所もない。
何日もまともに食べていなかった。
そして、ある日。
私は街の片隅に座り込んでいた。
もう、何も考えたくなかった。
そんな時だった。
「大丈夫か?」
声を掛けられた。
顔を上げると、一人の男性が立っていた。
その人が、ダンテだった。』
モニカの手が止まった。
「お父様……」
『私は、何と答えればいいのか分からなかった。
けれど、その人は私を急かさなかった。
「名前は?」
そう聞かれて、私は答えた。
「……エリンです」本名は言えなかった。
「家族は?」
その言葉に、胸が苦しくなった。
しばらく黙った後、私は答えた。
「……いません」
ダンテは、それ以上聞かなかった。
どうしてここにいるのか。
どこから来たのか。
家族は本当にいないのか。
何も聞かなかった。
ただ、私が落ち着くまで、そばにいてくれた。
それが、とても嬉しかった。
あの時の私は、誰かに優しくしてもらうことすら怖くなっていた。
けれど、ダンテは何も求めなかった。
ただ、私を一人の人間として扱ってくれた。』
モニカは小さく微笑んだ。
「お父様らしいですね」
「……そうか?」
「はい」
モニカは笑って、また日記を読む。
『私は、自分のことをほとんど話さなかった。
どこで生まれたのか。
家族は誰なのか。
なぜエンターナル国にいるのか。
聞かれても、
「……遠いところから来たんです」
そう答えるだけだった。
ダンテは、それ以上聞かなかった。
私が話したくなるまで待ってくれた。
その優しさが、少しずつ私の心を救ってくれた。
やがて私は、ダンテと一緒にマクホランド王国へ向かうことになった。
そして――。
私は、ダンテと結婚した。』
モニカは、少し恥ずかしそうに笑った。
「……お母様」
『マクホランド王国での生活は、私が思っていたより穏やかだった。
毎日が幸せだった。
そして、私たちの間に娘が生まれた。
名前は、モニカ。
小さな手。
小さな足。
泣き声さえ愛おしかった。
私は、この子を守りたいと思った。
この子と、ずっと一緒にいたいと思った。
グランディア帝国のことも、いつしか考えなくなっていた。
私は、もう過去を振り返らなくてもいいと思っていた。
ダンテと、モニカと。
三人で生きていけばいい。
そう思っていた。』
モニカの目に、少し涙が浮かんだ。
「……お母様、幸せだったんですね」
「ああ」
ダンテの声も、少し震えていた。
モニカは日記をそっと撫でた。
母が過ごした幸せな時間。
自分が生まれた日のこと。
その一つ一つが、日記の中に残されていた。
けれど――。
ページをめくると、文章の雰囲気が変わっていた。
『モニカが四歳になった頃。
私は、病気になった。
最初は、少し体調が悪いだけだと思っていた。
けれど、日に日に身体が弱っていった。
医師から病気について説明を受けた時、私は初めて、自分の死を考えた。
そして、その時――。
忘れていたはずのことを思い出した。
グランディア帝国。
金の輪。
皇位継承者の証。
私は、恐ろしくなった。
もし、私が死んだら。
もし、その後にモニカの瞳に金色の輪が現れたら。
あの子は、どうなるのだろう。
誰も何も知らないままでは、あの子が自分の運命に巻き込まれてしまうかもしれない。
私は、モニカを守りたかった。
だから、すべてを書き残すことにした。』
モニカは息を呑んだ。
「……私のために」
ダンテは黙って日記を見つめていた。
『けれど、ダンテには話せなかった。
話したくなかったわけではない。
むしろ逆だった。
大切な人だからこそ、巻き込みたくなかった。
グランディア帝国の皇女である私の秘密を知れば、ダンテまで危険に巻き込まれるかもしれない。
だから、この日記を書くことにした。
誰にも読まれないように、鍵を付けた。
そんなある日。
シルビーが、私にある話をしてくれた。
社交界で、私の死後について話している者がいるという。
ダンテはまだ若い。
妻を亡くせば、いずれ再婚するのではないか。
そんな噂だった。
そして、その中には後妻の候補として名前が挙がっている女性もいるという。
私は、その話を聞いて不安になった。
私がいなくなった後、モニカはどうなるのだろう。
もちろん、ダンテを信じている。
あの人なら、きっとモニカを大切にしてくれる。
それでも、私は母親だった。
何があっても、娘を守るために何かを残しておきたかった。
だから、シルビーにお願いした。
「この日記を預かってほしいの」
「奥様……」
「私がいなくなった後、モニカが大きくなったら渡してほしい」
シルビーは泣きながら頷いてくれた。
この日記には、私のすべてを書いた。
私が何者なのか。
なぜ帝国を離れたのか。
そして、私の瞳に現れた金色の輪のこと。
もし、いつかモニカの瞳にも同じものが現れたなら――。
その時は、この日記を読んでほしい。
私が娘に残せる、唯一の真実だから。』
そこで、日記の文章が途切れていた。
モニカは、しばらく動けなかった。
ダンテも、何も言わなかった。
ただ、二人の間に置かれた一冊の鍵付きの日記だけが、静かにそこにあった。
母が残した、もう一つの日記。
それは、エリンが娘を守るために残した――最後の贈り物だった。




