第30話 エリンの日記
シルビーとの再会を終え、屋敷へ戻ったモニカは、ずっと胸の奥が落ち着かなかった。
シルビーから渡された一冊の日記。
それは、母エリンが残したもの。
しかも、モニカが大きくなったら渡してほしいと、シルビーに託していたものだった。
夕食を終えた頃、ダンテから声がかかった。
「モニカ、少し執務室に来てくれるか?」
「はい、お父様」
執務室へ入ると、ダンテは机の上に日記を置いていた。
モニカも向かいの椅子に座る。
二人の間に置かれた古い日記。
小さな鍵が付いている。
「……シルビーから預かった日記だ」
「はい」
「私も、こんな日記があるとは知らなかった」
ダンテは日記を見つめた。
「エリンは、これをシルビーに託したんだな」
「私が大きくなったら渡してほしい、と……」
「ああ」
しばらく、二人とも日記を見つめていた。
やがてダンテが小さな鍵を手に取る。
「……開けよう」
「はい」
カチッ。
小さな音が響いた。
鍵が開く。
モニカは緊張しながら、日記の表紙をそっと開いた。
最初のページには、一つの名前が記されていた。
『エヴァンジェリン・フォン・グランディア』
「……エヴァンジェリン?」
モニカが首を傾げる。
ダンテが静かに答えた。
「それが、お前の母親の本当の名前だ」
「……お母様の、本当の名前」
モニカは、その名前を何度も心の中で繰り返した。
そして、ゆっくりと次のページをめくる。
『私は、グランディア帝国の皇女として生まれた。
父は皇帝。
母は皇妃。
そして私は、皇宮で何不自由なく育った。
幼い頃の私は、自分が皇女であることを当たり前のことだと思っていた。
兄も私を可愛がってくれた。
一緒に庭を走り回り、母に叱られては二人で顔を見合わせて笑った。
私にとって、皇宮は幸せな場所だった。
いつか兄が皇帝になり、私はその傍らで兄を支える。
幼い私は、ずっとそう思っていた。』
モニカはそこで一度、顔を上げた。
「……お母様にも、そんな頃があったんですね」
「ああ」
ダンテも日記を見つめていた。
自分が知っているエリンとは違う。
グランディア帝国の皇女として生まれ、家族に愛されて育った少女。
その姿が、文字の向こうに浮かんでくる。
モニカは再び日記へ目を落とした。
『十五歳になった頃から、少しずつ母の様子が変わった。
以前よりも、私の顔をじっと見るようになった。
何かを言いたそうなのに、何も言わない。
今日も、母は私の瞳を見つめていた。
そして、突然こう言った。
「エヴァ(エリン)……あなたの瞳を、よく見せて」
私は言われるまま、母の前に座った。
母は私の顔をじっと見つめた。
それから、侍女に鏡を持ってこさせた。
鏡に映った自分の顔を見る。
最初は、何も分からなかった。
けれど、窓から差し込む光が瞳に当たった時――私は気づいた。
虹彩の内側に、金色の輪が浮かんでいた。
私は驚いた。
そして、母もまた言葉を失っていた。
母はしばらく私の瞳を見つめた後、静かに鏡を下ろした。
その顔は、今まで見たことがないほど真剣だった。』
モニカは日記から顔を上げた。
「……金色の輪」
思わず自分の瞳に触れる。
「お父様……これって、何なのでしょう?」
ダンテはすぐには答えなかった。
「分からない」
そう言って、日記へ視線を戻す。
「だが……エリンにとって、とても重要なものだったことは間違いない」
「皇妃様も、何かを知っていたんでしょうか……」
「おそらくな」
モニカは黙って頷いた。
お母様の瞳に現れた金色の輪。
それを見た皇妃の動揺。
そして、その後に起きた出来事。
まだ二人には何も分からない。
けれど、この日記にはその答えが残されている。
モニカはそっと次のページをめくった。
『あの日から、母は私に何も教えてくれなくなった。
けれど、私は知りたかった。
なぜ母は、私の瞳を見てあんな顔をしたのか。
なぜ突然、私の周りの侍女が入れ替わったのか。
そして――。
なぜ父が、私を見る目まで変わったように感じるのか。
私はまだ知らなかった。
自分の瞳に現れた金色の輪が、私の人生を大きく変えることになるなんて。』
モニカは、静かに息を吐いた。
「……お母様」
その声には、不安と心配が混じっていた。
ダンテは何も言わず、モニカの隣に置かれた日記を見つめている。
この先に、エリンが誰にも話せなかった秘密がある。
二人はまだ、その全貌を知らない。
ただ一つ分かるのは――。
この日記が、エリンの過去を知るための大切な手がかりだということだった。
モニカはもう一度、ページに手をかける。
「……続き、読みましょう」
「ああ」
二人は並んで、次のページを開いた。




