第20話「崩れ始めた十年」
午後。
ダンテは執務室で、机の上に積まれた帳簿を睨んでいた。
十年分。
ローレンスが集めた記録を、一冊ずつ確認していく。
「……これもか」
モニカの生活費として計上された金額。
食費、衣服代、学用品。
伯爵令嬢として、決して少なくない。
むしろ――十分すぎるほどだった。
なのに。
ダンテの脳裏に浮かぶのは、古びた制服を着たモニカの姿。
細すぎる身体。
昨日の食事を、まるで何年も食べていなかったかのように嬉しそうに口にしていた姿。
そして――。
『次は、いつ食べられるか分からないから……』
「……」
帳簿と、現実が合わない。
あまりにも、合わなすぎる。
ダンテは別の帳簿を開いた。
そこには衣服や宝飾品の購入記録が並んでいる。
「……クラリッサ」
高価なドレス。
宝石。
装飾品。
そしてアリシアのための衣服や宝飾品。
毎年のように、かなりの金額が使われている。
ダンテは目を閉じた。
クラリッサとアリシアは、いつも華やかに着飾っていた。
それを見ても、これまで何も疑わなかった。
それが伯爵家の生活なのだと思っていた。
だが――。
その金が、モニカに使われるはずだった金なのだとしたら。
「……もう、偶然ではない」
ダンテは低く呟いた。
その時だった。
「旦那様」
扉の外から声がした。
「クラリッサ様がお見えです。庭園でお茶はいかがかと」
「……」
ダンテは帳簿を閉じた。
今ここで問い詰めることもできる。
だが――。
「分かった」
まだ、聞きたいことがある。
ダンテは立ち上がった。
庭園。
クラリッサは優雅にお茶の席を整えて待っていた。
「旦那様、お疲れでしょう?」
「ああ」
ダンテは向かいに座る。
紅茶が注がれ、菓子が並べられた。
「こうして二人でお茶をするのも久しぶりですわね」
クラリッサは嬉しそうだった。
ダンテは何も答えず、紅茶を一口飲む。
しばらくして、クラリッサが口を開いた。
「そうそう。旦那様にお願いがあるの」
「何だ?」
「モニカが、新しい宝石が欲しいと言っているの」
「……ほう?」
ダンテの眉がわずかに動いた。
「モニカが?」
「ええ」
クラリッサは当然のように頷く。
「もう十五歳ですもの。伯爵令嬢なのだから、少しくらい華やかな宝石を持たせてもいいでしょう?」
「……そうだな」
「それで、少し大きめのものを――」
「いくらくらいだ?」
「え?」
「その宝石だ。いくらする?」
クラリッサは少し考えてから金額を口にした。
ダンテの目が細くなる。
その金額は、昨日確認したモニカの生活費と比べても決して小さくない。
「……モニカ本人が欲しいと言ったのか?」
「ええ、そうよ」
「直接聞いたのか?」
「もちろん――」
クラリッサの言葉が一瞬止まる。
「……侍女から聞いたのですわ」
「そうか」
ダンテは静かに紅茶を置いた。
「その侍女の名前は?」
「……え?」
「モニカから直接聞いたわけではないのだろう?」
「それは……」
クラリッサの表情が僅かに強張る。
ダンテは視線を逸らさない。
「クラリッサ」
「はい……」
「君は、モニカの生活費を管理しているな?」
「ええ。もちろんですわ」
「……なぜ?」
「なぜって……」
クラリッサは不思議そうに首を傾げる。
「私がこの家のことを管理しているからですわ」
ダンテは数秒、黙った。
そして静かに問いかける。
「君は、何の権限があって管理している?」
「……」
クラリッサの顔から笑顔が消えた。
「旦那様……?」
「君は私の妻ではない」
その言葉に、クラリッサが息を呑む。
「……え?」
「エリンと結婚した時、私は君との婚約を破棄した」
「それは……」
「君は、この家の夫人ではない」
庭園に静寂が落ちる。
「それなのに、なぜ君が伯爵家の財産を管理している?」
「旦那様が……私に任せてくださったからでしょう?」
「私は、君にモニカの生活を任せた覚えはない」
「……」
「まして、モニカに渡るはずの金まで」
クラリッサの顔色が変わった。
「な、何をおっしゃっているのです?」
「帳簿を見た」
「……!」
ダンテは淡々と続けた。
「モニカの生活費として、毎年かなりの金額が支出されている」
「それは当然でしょう。伯爵令嬢なのですから」
「だが、実際のモニカはどうだ?」
クラリッサは答えられない。
「古びた制服を着ている」
「……」
「十分な食事も与えられていない」
「それは……あの子が食べないから――」
「では、なぜ君とアリシアは毎日のように新しい服を着ている?」
「……っ」
初めて、クラリッサが言葉を失った。
ダンテは静かに見つめる。
「そして、モニカの生活費として計上された金と同じ時期に、君たちのドレスや宝石の購入が増えている」
「違います!」
クラリッサが声を上げる。
「私はそんなこと――」
「まだ、何も決めつけてはいない」
ダンテの声は静かだった。
だからこそ、クラリッサには恐ろしく聞こえた。
「これから調べる」
「……」
「十年間分、すべてだ」
クラリッサの顔が強張る。
「それと――」
ダンテは最後に告げた。
「宝石の話は、もういい」
「……え?」
「モニカ本人に聞く」
クラリッサの瞳が揺れた。
「モニカが本当に宝石を欲しがっているのか」
ダンテは立ち上がった。
「私自身が確認する」
そのまま庭園を後にする。
残されたクラリッサは、しばらく動けなかった。
今まで何も疑わなかった男が――。
初めて、自分の前に立ちはだかった。
「……旦那様……」
クラリッサは震える手で、ティーカップを握りしめた。
そして初めて気づく。
自分が当たり前だと思っていた十年間が――。
少しずつ、崩れ始めていることに。




