不穏な気配
シルと二人、穏やかに話をしていると──ようやく扉を叩く音が響いた。
「奥様、リシテアです。中に入ってもよろしいでしょうか?」
「もちろんよ。どうぞ」
どこかよそよそしい口調を不思議に思いながら、私は彼女を部屋へ招き入れる。
けれど──。
入ってきたリシテアの表情を見て、思わず息を呑んだ。
医院を出発した時とはまるで違う。
その顔は強張り、ひどく緊張した面持ちをしていた。
「リシテア、どうしたの? 公爵家で、何かあったの?」
思わずベッドの上で前屈みになって、リシテアに問う。
すると彼女は俯いて、拳を握りしめた。
「…………」
どうしたのだろう。
ここまで言い淀むリシテアを見るのは珍しい。
いつもなら帰ってくるなり、あれやこれやと屋敷での出来事を話してくれるのに……。
先ほどシルが言っていた、“私の部屋に突撃しようとしていた”という話と、何か関係があるのだろうか。
訳が分からず首を傾げていると、シルが遠慮がちに口を開いた。
「えっと……もし俺がいると話しにくいなら、別のところに行ってるけど……」
そう言って、彼は静かに扉へ向かう。
それを引き止めるべきか迷っていると、扉の前に立ったままのリシテアが、意を決したように顔を上げた。
「……いいえ、シルもここにいて。この話は、できればあなたにも聞いてもらいたいから」
「え? 俺にも?」
シルが目を瞬かせる。
リシテアは小さく頷くと、ゆっくりと私を見つめた。
その瞳には、怒りとも悲しみともつかない複雑な感情が宿っている。
「奥様……私、今日……聞いてしまったんです……」
「え……何を……?」
胸が、どくりと嫌な音を立てた。
リシテアの青ざめた顔を見た瞬間、言いようのない不安が胸の奥を這い上がってくる。
聞きたくない。
けれど、聞かなければならない気もして──私は息を殺し、彼女の唇を見つめた。
「旦那様が……奥様の行方を探されている、と……」
「……っ!」
全身から、すっと血の気が引いた。
どうして……?
なぜ、今になって。
離縁届は置いてきた。結婚指輪も返した。
私はもう、あの屋敷を出た人間なのに。
それなのに、どうして……私を探すの?
「その理由は……?」
震える声で尋ねると、リシテアはゆっくりと首を横に振った。
「分かりません……。ですが、旦那様は心当たりのある場所を片っ端から探しているそうです。……それだけではありません。人を雇って、街中を捜させているとも……」
「そんな……」
思わず息を呑む。
まるで、逃亡した罪人を追うかのように。
それでは、院内で療養している私ならまだしも、買い物のために街へ出ているリシテアは、いつ見つかってもおかしくない。
もし、リシテアから居場所を聞き出そうとしたら……?
もし、もうすぐそこまで追手が来ていたら……?
そう考えた瞬間、背筋を冷たいものが這い上がり、私は無意識に毛布を握りしめていた。




