セルディオの絶望
「ニーナ!」
扉を叩くのももどかしく、僕はほとんどノックと同時に部屋の扉を開け放った。
そこには、いつものように穏やかな笑みを浮かべたニーナがいるはずだった。
けれど──。
「……え?」
しん、と静まり返った部屋を目にした瞬間、僕は息を呑んだ。
人の気配が、まるでない。
ベッドは几帳面に整えられ、布団に寝ていた痕跡すら残っていない。
机も棚も綺麗に片付けられ、部屋全体にはうっすらと埃が積もっている。
まるで、何日も前から誰一人として足を踏み入れていなかったかのようだった。
「どういうことなんだ……これは……」
胸騒ぎが、一気に膨れ上がる。
信じたくない思いを振り払うように室内へ足を踏み入れると、机の上に何通もの白い封筒が置かれているのが目に入った。
一通は僕宛て。
残りは使用人達や、リンカ宛てのものだった。
「……なんで、こんなものが」
嫌な予感が背筋を駆け上がる。
僕は自分宛ての封筒を震える手で掴むと、祈るような気持ちで封を切った。
『セルディオ様。
今日まで次期公爵夫人として、私は私なりに貴方をお支えしてまいりました。
けれど、もう私の助けは必要ないのだと実感いたしました。
病を患い、貴方との子を授かることもできない私は、ただの役立たずです。
それでも、せめて他の形でお力になれればと願い続けてまいりましたが、それすら必要ではなかったのですね。
貴方から離縁を言い渡される前に、私から屋敷を去ることにいたします。
もし直接そのお言葉を聞いてしまえば、私の心は壊れてしまう気がしたからです。
最後まで臆病な妻で、申し訳ございません。
どうかこれからは、リンカ様と生まれてくるお子様とともに、お幸せにお過ごしください。
最期まで、貴方の幸せを心よりお祈りしております。
貴方だけを愛した役立たずの妻 ニーナ』
ぶるぶると腕が震えた。
震えは指先へと伝わり、手紙を持つことさえままならない。
文字が滲んでうまく読めず、何度も何度も同じ行へ視線を戻す。
けれど、読み返しても綴られている言葉は変わらなかった。
そこに書かれていたのは、ニーナが自らの意思で公爵家を去ったという、残酷な現実。
そして──。
僕が彼女を、そこまで追い詰めてしまったという事実だった。
「離縁など……するつもりは、なかった……!」
掠れた声が、震える唇から零れ落ちる。
「それに……子供だと? そんな話、僕は何も聞いていない!」
その瞬間、脳裏に蘇ったのは、先日リンカが言っていた”大きな嘘”のことだった。
「まさか、あいつ……」
嘘とは、自分の子を身籠ったという話だったのか。
よりによって、そんな残酷な嘘をニーナに吐いたというのか。
リンカは、そのせいでニーナに恐ろしい形相で睨まれたと言っていた。
けれど、正妻を差し置いて愛人が子を宿したなどと告げられれば、睨まれて当然だ。
なのに僕は、その嘘の内容を確かめようともしなかった。
ニーナが頑なに何も話そうとしないことに腹を立て、感情のまま離縁という言葉を突きつけてしまった。
「違う……ニーナ。違うんだ……」
全身から力が抜け、その場に崩れ落ちる。
「リンカは、僕の子供を身籠ってなんかいない……」
あの日、リンカのもとへ向かうべきではなかった。
久しぶりにニーナが僕との閨を受け入れてくれた、あの夜。
彼女を一人残し、リンカのところへ行くべきではなかった。
今さら悔やんでも、時間は巻き戻らない。
それでも後悔は、際限なく胸を蝕んでいく。
リンカがあんな嘘を吐かなければ。
──いや、違う。
たとえリンカが嘘をついたとしても、最後にニーナの心を壊したのは、この僕だ。
僕が離縁などという言葉を口にしなければ、こんなことにはならなかった。
「ニーナ……どこへ行ってしまったんだ……ニーナ……」
絶望に打ちひしがれた僕は、その場から立ち上がることすらできなかった。




