平穏な日々
シルの先生のもとへ身を寄せてからというもの、私は穏やかな日々を過ごしていた。
いつリンカ様が部屋へ押しかけてくるのではないかと怯えることもない。
もしかしたらセルディオ様が訪ねてきてくださるかもしれない──そんな淡い期待を抱くこともない。
ただ静かに、何事もなく過ぎていく毎日。
そんな平穏の中に身を置いているはずなのに、ふとした拍子に気になってしまうことがあった。
「何も言わずに突然出てきてしまったけれど、公爵家は騒ぎになっていないかしら……?」
セルディオ様やリンカ様のことはともかく、屋敷で私に温かく接してくれていた使用人たちのことが気にかかる。
誰にもきちんと別れを告げられないまま屋敷を去ってしまった。置き手紙は残してきたものの、それだけで十分だったとは思えない。
私のことを心配してくれてはいないだろうか。
突然姿を消したことで、余計な不安を与えてしまってはいないだろうか。
そう考えるたび、胸の奥がちくりと痛んだ。
けれど──。
「大丈夫ですよ。屋敷のみんなは、奥様がどれほど理不尽な目に遭っていたのか、ちゃんと分かっていましたから。ほら、見てください。先ほどこっそり屋敷へ行ってきたのですが、料理長が『奥様に』と、こんなにもお菓子を持たせてくださったんですよ」
リシテアが机の上にどさりと大量のお菓子を置く。
あまりの量に思わず目を見張った。
「これは……さすがに多すぎるわね……」
呆れ半分でそう言うと、リシテアはくすりとお茶目に笑って言った。
「みんな、それだけ奥様のことが心配なんです。できることなら公爵家を辞めて、こちらで奥様のお世話をしたいと言っている者までいましたよ。奥様は私をはじめ、本当にたくさんの人に慕われています。幸せ者ですね」
「そうね……。どうして私なんかが、みんなにこんなに良くしてもらえるのかは分からないけれど……本当に幸せだと思うわ」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
それでも──。
私が最も想い、最も愛されたかった人。
セルディオ様には、嫌われてしまったのだけれど。
「料理長のご厚意、ありがたく受け取らないとね」
セルディオ様への想いを振り払うように、私は無理やり口元に笑みを浮かべた。
離縁届を残し、私は公爵家を去った。
もう私とセルディオ様は、何の関わりもない赤の他人。
これから彼はリンカ様と、生まれてくるお子様を大切にしながら、公爵家を支えていくのだろう。
二人の子供が生まれる頃、私はまだ生きているのだろうか。
──きっと、それは分からない。
けれど少なくとも、病に蝕まれた醜い最期をセルディオ様に見せずに済んだ。
それだけは、せめて良かったと思うことにしよう。
私はそっと、自分にそう言い聞かせた。




