小さな灯火
「ねぇ、ニーナさん! こんな所にいないで、俺と一緒に先生のところへ行こうよ! そんな酷い旦那様と一緒にいたら、長生きできるものもできなくなっちゃう。だから……お願いだよ」
最後は懇願するような声だった。
シルは私の手をぎゅっと握り締め、必死な眼差しで見つめてくる。
その気持ちは、とても嬉しかった。
けれど──私は首を横に振る。
「無理よ。私はセルディオ様と離縁できないもの」
そう。
セルディオ様は、醜聞になるから離縁はしないと仰っていた。
婚姻したまま屋敷を逃げ出せば、体裁を重んじるセルディオ様は、きっと私を探さなければならなくなる。
そして見つかった時には──逃げ出すなどという愚かな真似をした私を、決して許しはしないだろう。
体罰を受けるかもしれない。
それどころか、地下室へ幽閉されるようなことだってあり得る。
「私は……死ぬまで、この屋敷に居続けるしかないの……」
「そんな……」
それに、罰が私一人で済めばまだいい。
けれど、下手をすればシルや先生にまで累が及ぶかもしれない。
善良な二人を、そんな目に遭わせるわけにはいかなかった。
だから私は、シルの申し出を断るしかない。
たとえセルディオ様にもう愛されていなくても。
彼の心が、別の女性へ向いてしまっていたとしても。
「でも、それじゃあニーナさんは……」
シルは目に涙を浮かべ、今にも泣き出しそうな顔で私を見上げる。
こんな幼い子を悲しませてしまう自分が、ひどく嫌だった。
それでも、逃げることはできない。
今のような状況を招いてしまったのは──紛れもなく、私自身なのだから。
「だったら俺、毎日ここへ診察に来るからね!」
乱暴に涙を拭うと、シルは決意を込めてぎゅっと拳を握った。
「え……でも、あなたは先生のお手伝いがあるんじゃ──」
「そんなの、どうとでもなるよ! 無理してるニーナさんを放っておくなんて、俺にはできないから。来るなって言われても、毎日絶対に診察に来るからね!」
それに、とシルは満面の笑みを浮かべる。
「少しでもニーナさんが笑って過ごせるように、俺が頑張るから!」
そう言って腕まくりをすると、力強くガッツポーズを作った。
その姿につられるように、リシテアもシルの後ろで小さくガッツポーズを作る。
「ふふっ……あなた達ったら」
思わず笑みがこぼれた。
こんな風に心から笑えたのは、一体いつぶりだろう。
二人の優しさに触れたその瞬間、冷え切っていた胸の奥に、小さな灯火がともる。
そのぬくもりは、凍えかけていた私の心を、そっと包み込んでくれるようだった。




