セルディオの豹変
鬱陶しい……。
尻餅をつき、目に涙を浮かべるリンカを見て、僕の胸に浮かんだのはその一言だけだった。
元より恋愛感情など抱いていなかった相手だ。
泣かれたところで、何も感じない。
彼女は僕と一夜を共にしたことで、自分の立場が強くなったと勘違いしているようだが、僕としては記憶のない出来事を盾に取られたところで、弱みを握られたなどとは思っていない。
むしろ、酒と一緒に紅茶へ盛られたのであろう媚薬のことを思うと、不快感すら覚える。
あんなものを盛られでもしなければ、僕がニーナ以外の女性と一夜を共にするなどあり得なかった。
いや──。
本来なら、盛られたところで反応などしないはずだったのだ。
だが、人間の生殖本能というものは想像以上に厄介らしい。
尤も、それに気づかず口にしてしまった僕自身にも落ち度はあるのだが。
だからこそ感情的にならず、冷静に対処しようとしているというのに。
彼女がこれでは、それも難しくなる。
僕は小さく深呼吸すると、未だ床に座り込んだままのリンカへ淡々と告げた。
「……今後、不必要な身体の接触は控えるように」
「えっ……」
まるで予想もしていなかったとでも言いたげに、リンカの動きがぴたりと止まった。
ただ身体に触れるなと言っただけだ。
何をそこまで驚く必要があるのか。
そもそも僕は今まで一度だって、必要以上の接触を許したことはない。
一度過ちを犯したからといって、それが変わることもない。
だからこその言葉だったのだが──。
「愛人契約の書面を新しく作成する。その内容に従って生活してくれれば、約束通りお前の面倒は見よう。無論、純潔を奪った責任も取る。それでいいな?」
確認ではない。
命令だ。
ここで否を唱えたところで、僕の考えが変わることはない。
だがリンカは、不満そうに瞳を潤ませた。
「……なんだ? 何か不満があるのか?」
本来なら、彼女は不満を言える立場にない。
来るなと言ったにも拘らず屋敷に押しかけ、この僕に薬を盛り、無理やり一夜の関係へと持ち込んだ。
本来なら慰謝料を請求されても仕方のないところを黙認し、屋敷に受け入れてやろうとしているのだ。
それなのに、なぜリンカは泣くのだろう。
公爵家で面倒を見る。生活に困ることのないよう、責任も取る。
十分すぎるほどの条件を提示しているはずなのに。
これ以上、僕に何を求めるというのだろうか。
そもそもリンカは、ニーナに見せつけるための恋人役として見繕った相手だった。
爵位が低く、婚約者なし。実家の財政状況が苦しければ、なお都合がいい。
そんな条件をつけて部下に令嬢を探させた結果、見つかったのが彼女だった。
男爵家の令嬢。婚約者なし。家は貧乏で兄弟姉妹も多く、学園に通う余裕すらない。
これ以上、都合の良い相手はいなかった。
そうして僕は、リンカの働いているカフェへ足を運んだのだ。
最初から、特別な感情などなかった。
必要だったのは、ニーナの気を引くための駒。
嫉妬させ、こちらへ振り向かせるための存在。
ただ、それだけだった。
確かに、リンカを都合よく動かすために、多少甘い言葉をかけた覚えはある。
だが、それの何がいけない?
社交辞令で相手を気分よくさせ、望む方向へ導く。そんなことは、貴族社会では当たり前に行われている駆け引きの一つだ。
問題があるとするなら、それを真に受けたリンカの方だろう。
だから今さら泣かれたところで、僕にはどうしてやることもできない。勘違いされても迷惑なだけだ。
僕が欲しかったのは、リンカの愛情ではない。ニーナの関心だけなのだから。
リンカを利用してニーナを傷つけ、嫉妬させることができれば、それで十分だった。
「セルディオは……私のことが好きなんじゃないの?」
床に座り込んだまま、リンカが震える声で問いかけてくる。
涙で濡れた瞳が、縋るように僕を見上げていた。
その視線に、胸が痛むことはない。
ただ、どう答えれば理解してくれるのか──それだけを考えていた。




