シルの恐怖 2
「俺は確かに見習いだけど、ニーナさんの応急処置ぐらいはできる。それに……子供だから、公爵家に入り込んでも大目に見てもらえるかもしれない」
ぎゅっと拳を握り締め、俺は床を睨みつけながら必死に言葉を紡ぐ。
ここで言い負かされるわけにはいかない。
ここで二人を納得させられなければ、ニーナさんの傍へ行くことさえできないのだから。
優しくて、綺麗で、いつも俺に笑いかけてくれるニーナさん。
本当なら、患者さんに優劣をつけちゃいけない。
先生にも、何度もそう教えられてきた。
だけど──。
俺は、どうしてもあの人を死なせたくなかった。
苦しそうに息をする姿も、無理をして笑う顔も、もう見たくない。
だから──何としてでも、二人に頷いてもらわなきゃいけない。
「必要なことは今後もここに通って必死に勉強するし、母ちゃんの説得だってする。リシテアさんだって、大事な奥様に少しでも長生きして欲しいだろ?」
「ええ。それについては否定しないけれど──」
「だったら! だったら俺を公爵家に住み込めるようにしてくれよ! 俺、ニーナさんのために一生懸命努力するから……」
縋るようにリシテアさんの服を掴む。
すると彼女は困ったように眉を下げ、先生へ助けを求めるような視線を向けた。
その視線を受けた先生は、小さくため息を吐くと、俺の手をそっと外そうとする。
「……シル、諦めなさい。リシテアさんには君を公爵家へ引き入れる権限はないんだ。だから彼女にいくら頼んだところで、君の願いが叶うことはない」
「ごめんね、シル」
二人の言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。
諦めろ。
その一言が、胸に重くのしかかる。
嫌だ。
そんなの、絶対に嫌だ。
絶望に襲われ、指先から力が抜ける。
その途端、リシテアさんの服から俺の手が離された。
けれど次の瞬間には、俺は無意識のうちに、もう一度その服を掴んでいた。
「なら、ニーナさんは?」
自分でも驚くくらい、声が震えていた。
「ニーナさんだったら公爵家の奥様なんだし、俺を引き入れるくらい──」
「シル、いい加減にして」
今まで聞いたことがないくらい厳しい声音だった。
ぴしゃりと叩きつけられた言葉に、俺はびくりと肩を震わせる。
熱くなっていた頭が、一瞬で冷水を浴びせられたみたいに冷えていく。
気付けば、言葉は喉の奥で凍りつき、何も言えなくなっていた。
「ごめんね、シル。貴方の気持ちはとても嬉しいわ。でも私は、これ以上奥様のお立場を悪くするわけにはいかないの」
その言葉に、胸がどくりと大きく脈打った。
──俺が、公爵家に行くと。
──ニーナさんの立場が、悪くなる?
意味が分からなかった。
いや、本当は分かりたくなかったのかもしれない。
だって俺は、ただニーナさんを助けたかっただけだ。
少しでも長く生きてほしくて、苦しそうな顔をしてほしくなくて、そのためにできることを必死に考えただけなのに。
それなのに、俺が傍にいることで、ニーナさんが困るかもしれないなんて。
そんなの、あんまりじゃないか。
「お、俺……」
何か言おうと口を開く。
けれど、喉の奥がぎゅっと詰まって、うまく声が出てこない。
ぱくぱくと口だけが動く。
聞きたいことは山ほどあるはずなのに、何から聞けばいいのかも分からなかった。
ただ胸の奥に広がっていくのは、助けたい気持ちを否定された悲しさと、自分がニーナさんを苦しめてしまうかもしれない恐怖だけ。
気付けば、握り締めていた拳は、力なくほどけていた。




