シルの恐怖
「決めた! 俺、公爵家に行くよ!」
リシテアさんの話を聞き終えるなり、俺は勢いよく手を挙げた。
「えっ……」
「シル、何を言ってるの!?」
目を丸くする先生とリシテアさんを前に、俺はふんと胸を張る。
「だって、奥様はそう簡単に屋敷を抜け出して、ここへ来られないんだろ?」
だったら、答えは一つだ。
戸惑うリシテアさんを見て、俺は鼻息を荒くする。
「病気は待ってくれない。だから奥様は頻繁に診察を受ける必要がある。けど、思い通りには医院まで来られない……」
そうなった場合、どうなるか。
先生から聞かされた病の恐ろしさが、頭の中によみがえる。
今はまだ元気そうに見えても、明日には悪化しているかもしれない。
手遅れになってから後悔するなんて、絶対に嫌だった。
だから──と、俺は力強く頷く。
「俺が公爵家に行って住み込めば、奥様をいつでも診てあげられるだろ?」
それが一番簡単で、一番確実な方法だ。
そう思ったのに、なぜか先生もリシテアさんも、困ったように顔を見合わせていた。
「それは確かにありがたいけれど、でも……シルはまだ見習いでしょう?」
「そうだぞ。それに住み込むと言っても、平民が貴族の家に入るにはそれなりの手順というものが必要となる。が、それ以前に、公爵家には既にお抱え医師がいるだろう。そこに別の医師が入り込むということは、その方の面子を潰す事にもなる」
だから諦めろ──そう言われた気がして、胸の奥がカッと熱くなった。
俺は激しく首を横に振る。
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ!」
思わず声が大きくなった。
だって、そんなの変だ。
人が死ぬかもしれないって話をしているのに、どうしてみんな、面子だとか手順だとか、そんなことばかり気にするんだ。
「ニーナさんの容体は、いつ急変するか分からない。先生もそう言ってたじゃないか!」
「それはそうだが、しかし──」
「人の命より大切なものなんてない!」
気づけば、拳を強く握り締めていた。
悔しくて、もどかしくて、胸が苦しい。
助けられるかもしれない方法があるのに、大人の事情なんて理由で諦めるなんて、俺には絶対に納得できなかった。
「いつも先生が言ってることだろ! 目の前で困ってる人がいたら助けろって! 医者は身分で患者を選ぶなって!」
先生を真っ直ぐ見上げる。
「なのに、何で今回はそんなに渋るんだよ」
絞り出すように問いかける声は、怒っているはずなのに、少しだけ震えていた。
もし、このまま何もしないうちにニーナさんに何かあったら──。
そんな未来を想像しただけで、怖くてたまらなかったからだ。




