勘違い
「ああ、いや……えぇと、どうだったかな……。僕は目が覚めてすぐここへ来たから、正直リンカのことは覚えていないんだ。あとで家令にでも聞いておくよ」
視線を彷徨わせながら、セルディオ様はぽりぽりと頬を掻く。
どうして、そんな嘘を吐くのだろう。
昨夜遅くまで、一緒にいらしたはずなのに。
「それより、ニーナ。昨夜はすまなかったね」
セルディオ様が私の頬に手を添え、ゆっくりと顔を近づけてくる。
久しぶりの口付け。
強引に奪われるものではない。
私がずっと待ち望んでいた、優しい口付け。
「……っ」
嬉しくて、胸が熱くなる。
思わず涙が滲みそうになりながら、私はそっと目を閉じた。
けれど、その瞬間──。
ふわり、と甘い香りが鼻先をかすめる。
リンカ様の香水。
耐えきれなくなって、私は咄嗟に顔を背けた。
ぴたり、と空気が凍りつく。
セルディオ様の手が、私の頬に触れたまま止まった。
「……ニーナ?」
困惑したような声。
けれど私は、顔を背けたまま動けなかった。
鼻先に残る甘い香りが、胸を締めつける。
昨夜、セルディオ様が誰と過ごしていたのか。
どれだけ目を逸らそうとしても、その香りが残酷なまでに現実を突きつけてくる。
「あ……ご、ごめんなさい……」
慌てて謝る。
本当は違うのだと。
あなたが嫌になったわけじゃないのだと。
そう伝えたいのに、喉が詰まって上手く言葉にならない。
するとセルディオ様は、ゆっくりと私から手を離した。
「ニーナ。君は昨夜、本当に僕を待っていたのか?」
「も、もちろんです……」
何を当たり前のことを。
そう言おうとして、セルディオ様の視線がひどく冷たくなっていることに気づき、言葉を呑み込んだ。
「だったら、どうして僕の口付けを拒む?」
「それは……」
リンカ様の香水の香りがしたから。
そう言いかけて、口を噤んだ。
そんなことを言えば、昨夜セルディオ様が誰と過ごしていたのか問い詰めることになってしまう。
それが怖くて、何も言えなかった。
しかし、その沈黙はセルディオ様にとって別の意味を持ったらしい。
「言えないのか」
彼は自嘲するように笑った。
「昨夜、僕を待っていたのは罪悪感からか?」
「罪悪感……?」
意味が分からず、首を傾げる。
「ああ」
頷いたセルディオ様の瞳には、怒りと悲しみが渦巻いていた。
「君は僕を拒み続けていた。なのに昨夜だけは、僕を受け入れようとした」
まるで、自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
私は、なぜ彼がそんな風に話をするのかが分からなかった。
「ずっと不思議だったんだ。どうして急に気が変わったのか」
「セルディオ様──」
「他に男がいるなら、全部説明がつく」
その一言に、全身の血の気が引いた。
「え……?」
「後ろめたくなったんだろう?」
セルディオ様は、傷ついたように顔を歪める。
「だから最後に、妻としての役目を果たそうとした」
「ち、違います!」
慌てて否定するけれど、セルディオ様は聞いていない。
「昨夜、僕を待っていたのも、その男のことを打ち明けるためだったんじゃないのか?」
「そんな……!」
どうして。
一体どこから、そんな話が──。
「そして今、僕の口付けを拒んだ」
ぎゅっと拳を握り締め、セルディオ様は震える声で続ける。
「やはり君は、もう僕に触れられたくないんだな」
違う。
全部違う。
そう叫びたいのに、喉が張りついて声が出ない。
セルディオ様の身体から漂う甘い香りが、私から言葉を奪っていく。
その沈黙さえも、彼には肯定と映っているようだった。




