リシテアの泣き笑い
一人でぶつぶつと呟く旦那様から、私はそっと距離を取った。
これ以上ここにいてはいけない。
本能が、そう警鐘を鳴らしていた。
旦那様の視線がこちらに向いていないことを確認すると、私は足音を殺してその場を離れる。
そして、そのまま屋敷を抜け出した。
向かった先は当然──夜会の日に奥様を助けてくださった医師の先生のもとだ。
幸い、奥様は今、先生からいただいた睡眠を補助する香のおかげでお休みになっている。
あれほど泣き疲れていたのだ。もうしばらくは目を覚まされないだろう。
今なら、少しくらいお側を離れても大丈夫なはずだった。
見慣れた建物が見えてきたところで──シルと呼ばれていた少年と顔を合わせる。
「あれ? リシテアさん? どうしたの?」
「あのね、奥様が……」
そこまで口にして、はっと息を呑んだ。
相手はまだ子どもだ。
夫婦の閨の話なんて、こんな子に聞かせていいはずがない。
「リシテアさん?」
不思議そうに首を傾げる少年に、私は慌てて両手を振った。
「う、ううん。何でもないの。奥様の病状についての話だから、やっぱりちゃんと先生にお話しさせていただくわね」
「ふーん。別に俺に話してもらっても大丈夫なのになぁ」
少々不満げに唇を尖らせるシル。
けれど私の言葉も尤もだと思ったのか、それ以上追求されることはなかった。
ほっと安堵の息を吐き、彼と共に医院の扉をくぐる。
するとちょうど先生が、一人でお茶を楽しんでいた。
「おや、リシテアさん。もしかして……昨夜の件ですかな?」
先生はとても察しが良い。
私が何も言わなくてもこちらの言いたいことを理解し、シルをお茶の支度のために他の部屋へと追いやってくれた。
「はい、実は……」
私はそこで、昨夜から今朝にかけて奥様に起こった事実を赤裸々に先生に語った。
妊娠を補助する薬を奥様が飲まなかったこと。心臓が張り裂けてしまうかと思えるほどに、奥様が胸を押さえて号泣していたこと。今は泣き疲れて眠ってしまっていることなど。
その全てを無言で聞いてくれていた先生は、最後に一言だけ口にした。
「それは……お辛かったですね」
穏やかな声音だった。
その言葉を聞いた瞬間、堪えていたものが込み上げてくる。
「わ、私は……」
奥様の方がずっと苦しいはずなのに。
私が泣く資格なんてないのに。
それでも、誰かにそう言ってもらえただけで、涙が溢れそうになった。
「あーーっ! 先生、リシテアさんを泣かせてる!」
その時、ちょうどお茶のトレイを持って戻ってきたシルが、大声を上げた。
「い、いやシル、違うぞ。リシテアさんを泣かせたのはワタシではなく……」
そこまで言って、先生ははっと口をつぐむ。
「……ん? この場合、ワタシになるのか?」
「ほらー! やっぱり先生じゃないか!」
「いや違う! 違わないけど違うんだ! ワタシは決してリシテアさんを泣かせようとしたわけではなくてだな……」
真剣な顔で弁明する先生と、そんな先生を責め立てるシル。
その微笑ましいやり取りを見ているうちに、張り詰めていた気持ちが少しだけ緩んだ。
気づけば私は、涙を流しながら笑っていた。




